闇夜を切り裂くように、白髪の少女が街を走っていた。雨に滑る石畳の上を必死に裸足で駆け、少女は前へと進んでいく。人形のように細く日を知らぬように白い手足を必死に動かして、少女は逃げていた。
冷や汗が額を伝っていく感覚だけが鮮明だった。怪我をした足を押して走った疲れで荒くなった息を必死に整えながら、少女は路地の物陰に身を潜める。石畳を強く踏みしめた右足から垂れた血が、雨に流されていくことが救いだった。多少の音は雨音に掻き消えて、闇夜の向こうに消えていくことも。
少女は今、武器を持った男たちに追われていた。盗賊と呼ばうには少々丁寧な身なりをしていて、武器を持つのに慣れていない人々。それでいて瞳は偽りの正義に燃え、覚えのない怒号を少女に浴びせる彼らのことを、少女は知らなかった。
ここはどこだ、あの人たちは誰だ、どうして私は追われている。頭の中に巡る考えは落ち着かず、緊迫した状況は少女を追い詰める。とにかくこの町から出なければ、とそれだけをただ考えた少女に出来ることは、精々男たちが少女の居る路地を通り過ぎていくことを願うことくらいだった。
雨に体が冷えていく。指先がかじかんで震え、裸足の足先が泥に汚れている。男たちから逃げる前に殴られた腹がひどく痛みを訴えていた。
目を覚ましたら男たちに囲まれているなんて誰が予想しただろうか。少女はつい先ほどに、殴られたのか転んだのか分からないが浅い水たまりに倒れ込んだ状態で目を覚ましたばかりだった。口々に罵倒を繰り返す男たちの声の中で聞き取れたのは、せいぜいが「お前のせいで」といったような言葉だけだった。それくらい、彼らは少女に対して深い憎悪を抱いているようだった。
しかし身に覚えのないことで囲まれ怒鳴られても意味が分からないばかりだ。少女はすぐに好きを見て男たちの包囲網を抜けて、寝静まった──それでいてどこか緊迫した夜の街の中を走り逃げてきたのだ。
さてここからどうするか、と少女は回らない頭を必死に動かした。走っている時に軽く見ただけだったけれど、どうやら幸いなことに少女は町の端のほうにいるらしく、町を守る防壁のようなものの向こうには森が見えていたはずだ。そちらへどうにか逃げおおせれば生き延びることができるだろうか。しかし先程見た、威風堂々と構える防壁はどこまでも続くように思えた。
この町の人々は争いごとが嫌いなのか、男たちがどれだけ声を荒げても家の扉は閉まり切っていて、少女を助ける声はひとつたりともなかった。それどころか追われている最中、どんどんと男たちが増えていた気さえしたのだ。少女を罪人かなにかと見間違えているのかもしれないが、とにかくこの町は危険だ。少女は震える自分の体を抑えるように小さく縮こまり、とにかく今は生き延びることだけを考えろと自分に言い聞かせた。
門はどこかにあるはずだが、果たしてそこの門番は少女を通してくれるだろうか。そこを穏便に通ることが出来れば或いは──
「……なあ」
いつのまにか沈思に耽っていたらしい。真後ろに人の気配が迫っていることを感じて、少女は即座に振り向いた。その勢いで体勢を崩し尻餅をついた少女の眼前には、ひとりの少年がいた。
彼も、私を探しに来たのだろうか。何故追われているのかもわからぬまま自分はとらわれてしまうのだろうか。ここならあと少しは大丈夫だと思慮に耽ったのが間違い、少女は最後の抵抗とばかりに目の前の少年をねめつけた。
「大丈夫か」
ぱちくり、と少女は瞬きした。──少女を捕らえに来たわけでは、ないのだろうか。予断は許されないが、少女は一瞬緊張を解いてしまった。路地の暗さに見えなかったのか、驚いた様子の少女を気に留める様子もなく少年は続ける。
「男たちなら向こうのほうに走っていったから、しばらくは大丈夫だぞ」
「……あなたは?」
「え?」
「私を捕らえに来たのではないの?」
少女の質問に、少年の影が大きく揺れた。やはり敵なのだろうか、と再び視線を厳しくした少女に、少年は震える声で続けた。さっきまで少年にしては大人びている、毅然とした喋りだったにも拘わらず、まるで迷子になった子供のような声音だった。
「コハク?」
「…………琥珀? なんのこと、」
「生きてたのか」
呆然とした様子で続ける少年に、少女は眉を潜めた。助けてくれようとしていたのか、
「……何のことだかわからないわ」
「そんな冗談言ってる場合かよ」
「冗談じゃないわ」
「こっちいま少し町が荒れててさ……俺たち、明日の朝にはここを発つ予定だったんだ。コハクが帰って来てくれてたなんて思わなくて……間に合ってよかった、会えて良かった、シュヴァルツもじきに俺に追い付くから早くこの町を出よう」
「待って、本当に……きっと人違いだわ」
首を小さく横に振った少女に、少年が少し眉を潜めた気配がした。座り込んだ少女の目線と合わせるように屈みこまれ、少女は初めて少年の顔をまじまじと見つめた。釣り目がちの端正な顔立ちの少年は、色素の薄い長髪を後ろにひとつ束ねている。やはり見覚えのない顔に、少女はさらに首を振った。知った顔ではないはずだ。
「……どうしたんだよ、コハク。俺たちと来るのが嫌か?」
「コハクとは人の名前? やっぱり人違いよ、だって私は──」
そこまで言って、少女ははたと言葉を止めた。ぱちぱちと瞬きを繰り返す少女に、目の前の少年はさらに怪訝そうな顔をする。
──自分の名前が、言えない。私は誰だ、と答えのない問いが頭の中に響き、少女は呆然と目を見開いた。此処はどこだ、彼らは誰だ、私は誰だ? 目まぐるしく変わっていく状況の中、今更のように頭を殴りつける事実に、少女は小さく呻いた。少年はそれを体調不良と心配したのか、少女の背を軽く摩った。
私は、記憶喪失、なのか。
「なんでそんなこと言うのか分かんねえけど、合わせる顔がねえとかなら気にすんな。とにかく町から出るぞ、話はあとだ」
少年はそう言ってから、思わず俯いてしまった少女のことを問答無用とばかりに抱きあげた。片腕でひょいと俵担ぎにされ、浮遊感が少女を襲う。少女が小さく悲鳴をあげると同時に路地にもう一人の足音が響き、少年の真横まで走ってやってきた。
「……見つかったか」
目の前の少年より少しだけ低い声だった。それでも少年らしさを損なわない声に、少女が一瞬驚いて肩を揺らせば、少女を抱き上げている少年の腕の力が少し強まる。安心させようとしているのか、逃がすまいとしているのか、未だ分からず少女の体は少し強張った。
それでも、巨漢どもに武器で殴られるよりはいい選択だろうか。このまま男たちに差し出される可能性ももちろんあるが、こうして捕まってしまった以上はどうしようもないだろう。少女が諦め半分に仕方なく少年の背に掴まれば、あやすようにぽんと一度背中を叩かれた。
「見つかった。お前にも話すことが山ほど出来たけど、とりあえず町を出るか」
「西の門番が白の子捜索に出てる」
「了解。じゃあそっちから」
走るぞ、と背中を優しく摩られて、少女はまだ落ち着かない思考に瞬きを繰り返していた。それでも、少年の腕の中は裸足で走るよりもどこか安心感があり、体の揺れと浮遊感に、緊張が嫌でも解けていく。四肢からはだんだんと力が抜けて、少年はそれに気が付いたのかもう一度大丈夫だと少女に囁いた。
少女が逃げる算段を立てていた間に、男たちはずいぶん遠くへと探しに行ってしまったらしい。遠くに聞こえる怒号に微かに安心した少女の心を見抜くかのように、少年たちは軽い足取りで路地を飛び出した。再び流れ始める宵闇の町の景色に、やはり見覚えはなかった。
「……ここはどこかしら」
「西通りだよ。たまに来てたけど……見覚えないか?」
「ないわ」
その会話を聞いてか、横を走る少年がひどく驚いた気配がした。彼の姿は宵闇に溶けるがごとく黒く、抱えられたままの少女にはまだ彼のことがよくわからない。
それでも少女を抱えた少年には、彼の様子が手に取る用に分かったようだった。後でなって言ったろ、と釘を刺して、少年たちは街中を駆けていく。
優しい手つきで背を摩られたことが原因か、緊張の糸が切れたことが原因か、少女の意識は雨の中に遠のいていく。自分のことも、少年らのことも、男たちのことも町のこともなにひとつ理解できないまま、少女の思考は夢うつつに奪われていった。
少年たちが軽やかに通りを走る足音が、最後まで耳に残っていた。