次に目を覚ました時、とっくに夜は明けていた。
岩と岩の隙間から差し込む日光が目に眩しい。瞬きを繰り返してから、少女はぼんやりとした意識の儘にゆっくりと起き上がる。その動作をするだけで、体の節々が少女に痛みを訴えてきていた。
「お……目覚めたか、コハク」
「……あなたは」
「待ってろ、直ぐそっち行くから」
意識を失う前に聞いていた、少年の声だった。なにやら荷物を纏めているのか片付けているのか、がさごそと音を立てながら暗がりをランプで照らして作業をしている。少女は少しその動作をぼんやり見つめてから、ゆっくりと辺りを見渡した。
ここは、どうやら随分大きな洞窟のようだった。岩肌は苔むし、日光が入るのは少女を眩しく思わせた岩の隙間からだけ。その割に天井は高く、少女が三人も四人も重なって初めて手が届くような高さに見える。静けさばかりがその場を支配して、陽の光に照らされてきらきらと輝く緑の苔が神秘を感じさせる場所だった。
人の気配は、自分と彼との他にはしない。男たちの怒号も、不気味に寝静まった町の感触もなく、ただ遠くで鳥が鳴いている。兎にも角にも助かったのか、と安堵の息を吐いた少女のもとに、足音を反響させながら少年が近寄ってきた。
「久々に来るだろ、ここ。隠れ家」
「……隠れ家」
「コハクのお気に入りの場所だったなあ、ここ。昔は散歩がてら立ち寄るだけで、まさか本当に隠れに来る日が来るとは思わなかったけどさ」
少女のとなりに腰を下ろした少年は、日に透けるような薄茶の髪を頭の天辺でまとめ、ふわふわと靡かせていた。焦げ茶の瞳が細められ、慈しむような表情で少女のほうに向けられる。昨日は確か薄い色の上着を着ていたはずだけれど、雨に降られたからか上の服は深緑のもの一枚になっていた。
少年の顔をまじまじと見つめてしまった少女に、少年は小首を傾げてみせた。それから眉尻を提げて笑って、続ける。
「また会えて良かった。調子はどうだ」
「……おかげさまで上々だわ」
控えめに微笑みながら返事をすれば、少年はほっと安心したように表情を緩ませた。どうやら少女は、本当に助かったらしい。隠れ家、とやらの記憶は相変わらずさっぱりないけれど、あのまま捕らわれ命の危機に瀕さなかっただけで幸運だろう。
数度深く呼吸をした少女に、少年は肩を竦めながら続けた。彼らは、それなりに明るく落ち着いた場所で少女の姿を見ても態度を変える様子はない。やはり、少女が記憶を失う前の知り合いなのだろうか。ならば、少女が記憶を失う切っ掛けなどを知っているかもしれないな、と思った。ただ、少女が記憶を損なっているとは一切思っていない様子とそしてしばらく離れていたような口ぶり故に、期待しないほうが良いかもしれないけれど。
「口調どうしたんだよ……いや、まあ半年もたてば変わるか。とにかく、戻って来てくれてありがとうな。昨日できた傷以外に不調は?」
「外傷は特に。……そうね、驚かせてしまうかもしれないのだけれど」
「どうした?」
少年の声が怪訝そうに潜まった。少女は、思ったよりも落ち着いている自分に逆に驚くくらいだった。微かに反響する己の声にさえ聞き覚えはないのだ。なんとなく彼の目を見ていることが忍びなく、洞窟の神秘に目を落としながら少女は続けた。
「私、記憶がさっぱりないの。名前を伺っても?」
「……はあ?」
「記憶がないのよ。目が覚めたら昨晩の男たちに囲まれていたものだから驚いたわ」
「ちょっと待て、コハク、記憶がない? どういうことだよ」
「落ち着いて頂戴な。そのままの意味だわ、何も覚えていないということよ」
少年はその双眸を大きく見開いて、左右に泳がせていた。半身を起こして会話している少女のほうへと身を乗り出して、どういうことだと問いかける。傍目から見ても混乱していることは明らかだった。やはり、彼にとっても少女の記憶喪失は予想外だったらしい。
少女が少年に向き直り、「名前を」と再度問いかければ、少年がはっとした様子で身を引いた。悪い、と小さく呟いて、数瞬の沈黙が洞窟に訪れる。
「……トウト・ロゼ」
「トウト。綺麗な名前ね」
そう笑えば、少年──トウトは居心地が悪そうに肩を竦めた。目を泳がせながら、ことをどうにか理解しようとしている様子で、それでも少女になんとか微笑んでみせる。強がりだな、と少女はふと思った。
「改めて、昨晩はありがとう。次々と質問ばかりを押し付けて申し訳ないのだけれど、私のことを知っている?」
「いや……ああ、知ってる。よく知ってる」
「関係を聞いてもいいかしら」
「お前の兄……だよ。家族だ」
兄、という言葉を少し言い淀んだトウトに、少女は軽く目を細めた。なにか堂々とできない理由でもあるのだろうか。例えば腹違いの兄弟だとか、そういった類のことが。そんな少女の視線に気が付いたのか、トウトはわざとらしく茶化すようにして続ける。
「血は繋がってないんだ。俺たち小さな孤児院の出身でさ、そこの家名を名乗ってる」
「ああ、そうなの。では私はコハク・ロゼなのかしら? あなたより年下なのね」
「いや、年齢は一応みんな十五だよ。正式な生まれ年が分かんないから大体なんだけどな。俺が兄って名乗ってるのは、お前らより少し早く孤児院に居たからってだけ」
言いながら、トウトが頬を掻いていた。少女は軽く礼を言って、話をそっと促す。
「色々問いたいことはあるのだけれど、いいかしら」
「構わないよ。俺たちからもいくつか聞いていいか?」
「勿論よ。『たち』というのは……昨晩共に居た少年のことであっている?」
「ああ。シュヴァルツって言うんだ。あいつも俺たちの家族だよ」
「シュヴァルツ・ロゼ。ありがとう、覚えたわ」
未だトウトは、少女の態度に落ち着かない様子だった。冷たい風が洞窟を満たし、一瞬の沈黙は風の音に攫われていく。それもそうだ、家族が記憶喪失になったら驚きもするだろうな──と少女はやけに冷静に思った。
少女とトウトは家族である。昨晩から今にかけての発言と照らし合わせても不思議なところはなく、少女はとりあえずその言葉を信じることにした。未だ理解できていない部分も多いけれど、今のところは彼に話を聞けば最低限の情報は揃うはずだ。けれど、戸惑った様子を見せる彼からあれやこれやと話を聞きだすのはなんだか気が引けて、少女はぼんやりと洞窟の入り口のほうを見つめていた。一匹の蝶が洞窟の中へ飛んできて、そして出ていった。
沈黙をどう受け取ったのか、少年が分かりやすく明るい声で沈黙を破った。
「シュヴァルツなら少し外出てるよ。近くに林檎のなる木が……あって。そこ行ってる」
かつてのコハクはその木のことを知っていたのだろう。一瞬言い淀んでから説明した少年に、少女は何でもない風に答えた。ひどく気を遣われている気がした。
「あら、そうなの。じゃあじきに帰ってくるのね」
「ああ。帰ってきたら出発しようと思うけど、どうだ」
「どこへ? 昨晩は町を出ると言っていたけれど、旅にでも出るのかしら」
首を傾げた少女に、少年は少し向こうを指さした。トウトとシュヴァルツの二人分にしては少し大きい荷物がまとめて置いてあり、その隣にはぽつんとあるランプが荷物を照らしている。
「引っ越しだよ。歩いて数日、離れた町に」
「あら、そうだったのね。生憎私は荷物のひとつも持っていなかったのだけれど……道をご一緒していいのかしら」
「勿論。ある程度は整頓したけどお前の荷物もこっちにあるから心配すんな。シュヴァルツに聞いたから大事なものは捨ててないはずだし」
少女はその言葉に軽く首を傾げた。どうして少女の荷物はここにあるのだろうか。少女はてっきり、己の荷物は記憶をなくす前に置いて来たか無くしたか、盗人にでも取られたものかと思っていたのだ。少年は昨晩も今も確かに、半年ぶりと言っていた。
半年家を空けていたらしい少女の荷物は、はてどうしてここにあるのだろうか。
「……コハク?」
「ああいえ、少しだけ考え事よ」
「……無理するなよ? 話しづらいかもしれないけど、ちゃんと聞くからな」
「ええ……じゃあお言葉に甘えようかしら。沢山のことを一気には覚えられないから、また繰り返し説明してもらうことになるかもしれないけど」
「そんなの気にすんなって。何度だってちゃんと話すよ、当たり前だろ?」
そう言ってトウトは少女の肩をぽんぽんと叩いた。それから軽く頭を撫でられ、少女はその感覚に少しだけ目を伏せる。どこか、過剰なほどに気を遣われている気がするけれど、今は細かなところに目を奪われている場合ではないのだ。
「私とあなたは半年会っていないようだけれど、何があったの? 家を出たにしては、荷物がそちらにあるのはなんだか不自然だわ。それとも家出でもしたのかしら」
そう問えば、トウトの肩がわずかに跳ねた。何か言いたくないことでもあるのだろうか、少女が真っすぐに彼を見ても、適当に相槌を打って言葉を紡がなかった。
微かな警戒と怪しむ瞳に耐え切れないように、少年がぱっと目を逸らした。
「……なにか疚しいことでもあるのかしら」
「いや、そういうわけじゃねえんだけど」
「そうね、昨日私が追われていた理由も聞きたいわ。きっとあなたがたも、私もかつてはあの町に共に──ロゼという孤児院に住んでいたのよね」
「それは、そうだな」
「私は何らかの罪人として裁かれてでもいたのかしら。それならあの争いに慣れていなそうな人々が私を追い回したのも分かるわ。私は脱獄でもしたの?」
それなら納得がいくわ、と続けた少女のことを、トウトは呆然とした様子で見つめていた。その様子に、少女は大体図星だろうかとため息をつく。罪を犯して捕らわれていたのなら、少女の荷物が実家にあるのも説明がつくし、記憶がない理由さえあらかた予想がつけられる。罪人が逃げようとしたら、力で以てして捕縛するのは道理でもあるからだ。頭でも殴られたのだろう、と少女は肩を竦めた。
「……記憶がなくとも、罪人は罪人だわ。家族を逃がしたいのは分かるけど、脱獄犯を野放しにしたりしたらだめよ。町に戻るから、道を教えて──」
「違う!」
呆れた様子を見せた少女に、トウトが大きく声を荒げた。洞窟中にキンと響き渡るその硬質な声に、少女は少し笑って問いかけた。
「……あら、違うの? あなたたちも共犯ということかしら?」
「違う。お前は何の罪も犯してなんかないんだ」
「……冤罪ということ?」
「いや、大体そんなもんなんだけど、説明が難しくて、その……そもそもお前は牢に入れられてなんかない。お前が自分の意思、で、町を出て、それで半年間俺たちと顔を合わせることはなくて、でもそれとお前が昨晩追われてたことは関係ねえんだよ。そもそも、お前の記憶がなんでないのかもわかんねえ」
混乱しているのかいまいち纏まらない言葉で、トウトはつらつらと言葉を並べ立て始めた。だんだんと尻すぼみになっていく言葉に、少女はさらに視線を細め、厳しくトウトを見据える。
「……つまりどういうことかしら。私が何らかの理由で家を出て、町に帰ってきたら冤罪に問われていた、ということでいいの? 記憶がない理由は私にも分からないわ」
「……大体あってる。とにかく、お前は何も悪くない。俺たちが保証する、だから町には戻らないでくれ」
まるで懇願するような声でそう言われ、少女はとりあえずと頷いてみせる。彼は、昨日と言い今日と言いふと冷静さをを欠くことがあるな、と少女はいやに冷静に思った。それが生来のものなのか、なにか余程の別の理由があるのかは、まだわからないけれど。
トウトは、数度深呼吸してから、一度小さく「悪い」と呟いた。
「いいえ。触れられたくないことだったかしら」
「……まあ。でもちゃんと説明するから、待ってくれ。そろそろシュヴァルツも帰ってくるだろうから……」
少女の微かな疑念を汲み取っていたらしい少年は、どこか言い訳するように言った。