03

 シュヴァルツがやってきたのは、それからほどなくのことだった。凛と背筋を伸ばして現在の状況を整理していた少女の耳に、硬質な足音が届く。ふと入り口のほうを見れば、籠いっぱいに赤く熟れた林檎を摘んで来たらしい少年の姿があった。
 トウトが警戒を露にしないところを見ても、彼がシュヴァルツなのだろう。長い黒髪をうなじの辺りで軽くまとめ、風に靡かせている彼は、昨晩闇に溶けこんでいただけあって全身黒ずくめだった。口元まで覆い隠す襟巻と、その少し怪しげな風貌に見合う真っ黒な釣り目の瞳。洞窟の入り口では物静かな空気を纏っていた少年は、体を起こしている少女を見るなりぱっと駆け寄ってきた。
「コハク!」
「お帰りなさい、シュヴァルツ」
「……目、覚めたのか。無事でよかった」
 その声は、昨日聞いた時よりも幾分も弾んでいた。家族というだけあって、少女のことをトウトと同じように大事に思ってくれていたらしい。年相応な少年らしい声をあげて少女のもとへ駆け寄ってきた少年は、先ほどまで大事そうに抱えていた籠を少し雑に少女の隣へと置く。それから、あろうことかいきなり少女のことを抱きしめた。
 ぬくもりが少女を包み込み、少女の首筋に顔をうずめたシュヴァルツが小さくなにやらことばを囁く。その行動に、少女は軽く息を呑んだ。問おうと、そして説明しようと思っていたことの大半が一瞬頭から吹き飛び、それから小さく疑問の声をあげてしまう。
 隣にいるトウトは、彼の行動に心当たりがあるのだろうか、小さな声で「あ」と言っていた。シュヴァルツの力は意外と強く、少女は簡単に腕の中に納まったきり身動きがとれない。少女より幾ばくか高い体温がやけに感じられた。
 少女とシュヴァルツは、家族、ではなかったのか。息が首に吹きかかるような距離感に、少女は困惑を隠せない。これではまるで、
「会いたかった」
 甘ったるい声が少女を刺した。
 これではまるで、恋人のようではなかろうか。一瞬頭に浮かんだ選択肢を振り切るように少女が軽く首を振ったところで、驚きからか動けないでいたトウトがはっと手を伸ばしてシュヴァルツの肩を掴む。そのままシュヴァルツが少女から引き剥がされるまで対した時間はなかったけれど、少女はただ呆然としていた。目を覚まして男たち囲まれていた時のほうが冷静だったとさえ思いながら、少女は瞬きを繰り返す。
「待てシュヴァルツ、話がある」
「……なに」
 トウトの制止に、コハクと話がしたい、とシュヴァルツは続けた。
「その前に大事な話があるんだよ」
「…………コハクと話す以上に……大事な話か、それは」
「そうだ、だから聞いてくれ」
 そこまで諭されて初めて、シュヴァルツは渋々と少女から体を放した。まだ少し驚きを残した表情をしていたのか、シュヴァルツがそれに軽く頭を下げる。驚かせたなら悪かった、と続けられ、少女は小さく首を振った。
 記憶喪失であることを早く伝えなければならない。彼はどうやらトウトよりも近い距離感で少女と接していたのか、視線にどこか熱が籠っていた。多少の戸惑いを滲ませながら少女が笑えば、シュヴァルツの視線がなぜか曇った。
「いえ、それはいいのだけれど……」
「…………口調、どうした」
「口調?」
「……半年で変わったのか? あと、笑い方も…………無理してないか」
 喋ることが得手でないのか、シュヴァルツの話し方はトウトと比べてどこか途切れ途切れに淡々としていた。口調がかつてと違うのだと、同じことをトウトにも言われたな、と思いながら、少女はいいえと首を振る。
「無理はしていないわ。そう、それで話があるのだけれど」
「コハク、俺から言おうか」
「平気よ。当事者の口から説明したほうが分かりやすいでしょう?」
「……そうか」
 どこか不安そうな様子のトウトが口を閉ざす。その応酬を見て、さらに眼前のシュヴァルツを眉を潜めた。疑うような視線で射抜かれ、少女は肩を竦める。
「落ち着いて聞いて頂戴ね。私、記憶喪失なの」
「…………」
 少女の言葉に、シュヴァルツが伏し目がちの瞳を細めて小さく首を傾げた。
「聞こえているかしら? 私、記憶喪失なの」
「……なにかの、冗談か? たちが悪い──」
「冗談じゃないわ、本当よ。自分の名前もあなたの名前もトウトから聞いて知ったの。昨晩、町で男たちに囲まれた状態で目を覚ます前の記憶がないのよ、私」
 その言葉に、少年がひゅうと息を吸い込んだ。さっきまで伏せがちだった瞳が呆然と見開かれ、それから幾度か瞬きを繰り返す。長い睫毛が震えていた。
「驚かせてごめんなさいね。もしも口調や笑い方が違うのだとしたら、そのせいだわ。あなたもトウトもそう言うもの」
「…………なんで」
「分からないわ。大方あの男たちに殴られでもしたのでしょう、幸い頭にけがはしていないようだけれど」
「……どうして」
「……ごめんなさいね。今、トウトからことの次第を聞いている最中なの。あなたも落ち着いたら、いろいろ教えてくれるとありがたいわ」
 シュヴァルツは、表情が乏しいわりに感情の起伏は分かりやすかった。少女がゆっくりと諭すように説明すれば、少しの間目を泳がせた後、シュヴァルツは軽くうなずく。目尻には、涙が浮かんでいた。
「大切に思っていてくれたのね、ありがとう」
「……いや、…………ああ」
 目尻に溜まった涙をぬぐったシュヴァルツに、少女は柔らかく微笑みかけた。
 トウトにことを打ち明けたときの数倍湿っぽくなった空気を切り裂くように、トウトが軽く手を叩いてみせた。先ほどまで錯乱していた様子だったわりに、シュヴァルツが来て落ち着いたのか、声音は幾分か明るくなっている。
「取り敢えず飯にしようぜ。その中でそう……ちゃんと、いろいろ説明するからさ」
「私もいただいていいのかしら」
「当然だろ。お前、林檎大好きだったんだ、剥いてやるから沢山食えよ」
「ありがとう。助かるわ」
 そう笑えば、トウトはナイフ取ってくるといって立ち上がった。荷物のほうへと歩いて行ったトウトに続いて、シュヴァルツもゆっくりと荷物のほうへと向かう。彼もナイフをとりに行ったのだろうか、将又別のものをとりに行ったのだろうか。
 トウトは荷物の整理が苦手なのか、ナイフを取り出すだけだと言うのにいくつもの荷物を取り出しては地面へと置いていた。微笑ましいものだと思った少女と対照的に、シュヴァルツはその様子に呆れた視線と小さなため息を投げかける。シュヴァルツは直ぐに目的のものを見つけたのか、さっさと取り出して少女のもとへと戻ってきた。
 戻ってきた彼は、トウトが先ほどまで居た場所の少女を挟んだ反対に腰を下ろした。ついでと言わんばかりに林檎の入った籠をトウトの居た場所に置いてから、なにやら片手に握っていたものを少女に差し出してくる。
「……これは?」
「昨日、その、怪我の簡単な手当てをするときに、俺が外した装身具だ。昔に、贈ったもの。記憶が……ほんとうに、ないなら、何もわからないと思うけど。それでもお前につけててほしい」
 その言葉に首を傾げた少女が手を差し出せば、シュヴァルツはその手の中にそっとそれを握らせた。渡されたものの正体に驚いた少女がぱちと瞬きをしたのを見てか、シュヴァルツがふと少女から目を逸らした。
 それは麻の紐で首に提げられるようにしてある指輪だった。おそらく瑪瑙かなにかの石でできている、白く太いシルエットの指輪。丁寧で美しいながらに、金属を磨き上げた装身具とは違った武骨さから、素人手によるものであることはなんとなくわかった。詰めたく指輪にしては重たいそれは、やはり少女の記憶にない。
 指輪の真中を飾るように嵌めこんである深い青の石が、日光に照らされて淡く輝いていた。
「…………嫌なら、着けなくていいんだ」
「いえ、そうではないけれど……」
 この指輪に込められた思いを量り切れず、少女は未だ瞬きを繰り返していた。口ぶりからして、シュヴァルツからコハクに送られたものであることは明白だったけれど、と少女は指輪をまじまじと見つめる。自分たちの質素な衣服や荷物からすれば随分と高価なものに見えるその指輪を、どうして彼はコハクに送ったのだろうか。その疑問だけが頭に浮かび、問うことが出来ずに消えていく。
 特別な意味が、あったのだろうか。
 三人の間に血は繋がっていない、というトウトの言葉が少女の頭をゆっくりと掠めた。
「……そうね、私はこれをずっと着けていたの?」
「ああ」
「じゃあ着けておくことにするわ。記憶が戻るきっかけになるかもしれないもの」
 そう言って麻紐を首に通した少女に、シュヴァルツがほっと安堵の息を吐いた。
 そうしているうちに、トウトは目当てのナイフを見つけたらしく少女のとなりへと戻ってきていた。それから、少女の首にかかっている指輪を見て少し安堵した様子を見せてから、ちょっと待ってろと言ってもう一度荷物のほうへと走っていく。
 何事だろうか。もしかして彼からもなにか、少女に渡すものがあるのだろうか──と多少身構えた少女のもとへ彼が持ってきたのは、どうやら鏡のようだった。これ以上懸案が増えたら困ると思った少女を安心させるように、トウトはそれを手渡した。
「ほら、見てみろ。似合ってるぞ」
 そう言われて少女はそういえばと思い至った。今の今まで、鏡や水面を覗き込むようなことをしてこなかったおかげで、未だ少女は自分の顔を見たことがない。顔の横で揺れるふわふわとした白髪以外自分の容姿のことを知らないのだ。
 鏡は、きらきらと憎らしいほどに輝いていた。手入れが行き届いている小物に見えるが、ふたりが持つには少々かわいらしい意匠を施されているものであることからも、おそらく記憶を失う前の少女の持ち物なのだろう。少女が居ない間もしっかと手入れをされていたんだな、と思った。
 鏡を覗き込んだ少女は、まったく知らない人と相対しているような感覚に襲われる。夜を閉じ込めたように真っ黒に輝く大きな瞳と、長い睫毛。垂れ目がちな目元に高い鼻、薄く桜色に色づく唇は、症状痩せぎすではあるもののかわいらしい少女だ。全てに見覚えがなく、一遍たりとも既視感のない見目に軽くため息を吐いた少女は、顔の横に垂れる髪を耳にかけた。ふわふわと肩下まで伸びた白髪にだけ、少女は微かに懐かしさを覚えていた。
 少女が、それを見るためにと渡されたはずだった指輪に目をやったのは、しばらく後のことだった。
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