05

 旅路はごく穏やかに進んでいった。昼間は地図と山道に沿って歩き、陽が沈めば洞窟や大樹のもとに天幕を張って小さくまとまって眠る。出発の日以降雨に降られることもなく、旅団や盗賊に目を付けられることもなく、三人は静かに移動を済ませていった。
 少女は、そんな旅の中でごく小さな荷物だけを持たされていた。肩に斜めかけする種類の小さな鞄に、水筒と黒パンの入った包みと、護身用にと渡されたトウトのナイフ一本。それから包帯に、硬貨が数枚入った小さな布袋だけを入れた小さな鞄だけの旅支度。目を覚ました時には既に身に着けていなかった靴は、予備として持ち歩いていたらしいシュヴァルツのものを借りることになった。
 少しぶかぶかとした靴で森を歩きながら、少女は軽く辺りを見回していた。朝露に煌めく葉が美しく、草の間から咲く野花が美しい。長い距離を歩くのは少々骨が折れるけれど、少女としては辺りの景色だけでお釣りがくる程度の疲労だった。
 楽しそうだな、とトウトが隣で笑った。少女を挟むようにして歩くふたりは、少女の笑顔をことに好いているようで、今もどこか嬉しそうだ。ええ、と微笑んだ少女に満足げに頷いてから、トウトは頭の上で軽く手を組む仕草をした。
「あと二日くらいで着く計算になるな」
「……そうだな」
「工房への挨拶は……荷ほどきのあとでいいか。とにかく神父さまとやらに挨拶しないと始まらねえし……頭への報告の手紙も書かないとな」
「忙しそうね。私にできることはある?」
「……お前は休んでいてくれ」
「ふたりが忙しなくしている中ひとりだけ何もしないなんて、そうはいかないでしょう」
「いや、今は無理やり歩かせる形になってるけど……そもそも、怪我もしてるだろ。いいから俺たちに任せておけって」
「そうかしら。まあ、記憶がないのだから手伝えることも限られているけれど……私にできることがあったら言って頂戴ね。何もしないでぼうっと休んでいるのは、なんだか性に合わないわ」
 そう言えば、トウトは一瞬驚いたように目を見開いた後、それを隠すようにそうかと笑った。またなにか、昔の自分と違うことを言っただろうか。ふたりは決して少女に「かつて」を押し付けることはしないから、確信は持てないけれど。
 ふたりは、簡単に言えばひどく過保護だった。少女が行方不明になっていたことが原因か、将又元来の性格に依るものかはわからないけれど、毎夜の天幕を張る作業の手伝いさえ少女はさせてもらえない。いいからそこで休んでてくれ、と彼らは微笑むばかりで、少女は本当にやることがないのだった。大事にされていることは十分にわかる。けれどそうして、ふたりが忙しなく行動している中ひとり休息を取っているのは、どこかそわそわと落ち着かない。工房で働いていたというだけあって手際もよく力もあり、息もぴったりなふたりに手伝いなどいらないのかもしれないけれど、共に暮らし始めたあとの家事などもこうでは、流石の少女も罪悪感を覚えるものだ。
 ふたりは、紹介されたイズの工房で働くらしい。そうなれば、家のことを済ませるのは少女の役目になるだろう。きっとふたりは自分がやると言うのだろうが、そうも甘えてばかりではいられないのだ。
「ちゃんと私にできることをするわ。家族でしょう」
 凛と前を向いてそう言った少女に、トウトは少し困ったように笑ってみせた。
「イズは白の子の差別がない町、だったかしら? なら私も働けるかもしれないわね」
「確かにイズだったらどこでも働けると思うよ。どこかで働きたいなら応援するけど、無理はするなよ。自分ばっかり家にいるとかそういうこと思わなくていいからな」
「無理なんてしてないわ。そうね……なにも覚えていない分、やりたいことも思いつかないことだし、しばらくは家事をして過ごすことになるのかしら」
「ひとりで背負いすぎるなよ」
「昔の私はそんなに無理をしていたの? 平気よ、辛くなったらきちんと伝えるわ。ふたりもあまり根を詰めすぎないのよ」
 くすくすと笑ってそう言った少女に、トウトはばつが悪そうに笑ってからぽりぽりと頬を掻いた。そうするよ、と軽く告げられ、ええと少女は頷く。家族が記憶喪失になれば、その家族もまた負担を背負うものだ。お互い様にいたわることが大切だろう。
 シュヴァルツは、そんな会話を聞きながら、ぼうっと前を向いていた。やはり喋るのはあまり得手でないようだったけれど、少女の隣を守るようにしっかりと立って歩く。ぬかるみがあれば避けるようにして進む足取りは優しく、トウトとはまた種類の違う加護心があるようだった。
「シュヴァルツもね」
「……ああ、勿論」
 声をかければ、眉尻を少し下げた優しい微笑みばかりが返ってくる。彼らは全く、「家族」だからなのかどこまでも優しい。
 道を少し進むと、緩やかに小川が流れてきていた。森の静けさが水の流れる音を引き立て、差し込む木漏れ日が水面を美しくきらめかせる。綺麗ね、と呟いた少女の声に、トウトとシュヴァルツもその小川へと目線をやった。
「どこかに本流が流れてるのかしら」
「そういや、このあたりに湖があるって聞いてるぞ。そこじゃねえのか?」
「ああ、そうなのね。湖……見えるかしら」
「見える見える。頭が通り道にあるって言ってたから」
「…………あれじゃないか」
「あら、もう見えるの?」
 少し体を傾けたシュヴァルツが、目を細めて遠くを見ていた。シュヴァルツと同じ目線に成ろうと近づいて目を細めた少女には、木々の生い茂る景色の中で、少女はぱっと湖の存在を見つけることはできないけれど、どうやら彼には見えているらしい。あそこ、と指を刺され、少女は肩を竦めた。
「このあたりは木が茂りすぎていて、木だか空だか湖だか見分けがつかないわ。目がいいのね」
「……そうか?」
「俺も見えねえなあ。まあシュヴァルツがあるって言うならあるんだろ」
「随分と信頼が厚いわね」
「シュヴァルツ、目がいいんだよなあ。隠れ家をみつけたのもこいつだし」
 それほどでもない、とシュヴァルツは軽く首を振って謙遜した。細められた視線の先は確かに少し行った先の道が曲がっている方向であり、彼には木々の隙間から湖が見えているのだろう。少女が楽し気に笑い、歩む速度が少し早まる。人や馬車が通るのか草が踏みしめれられて出来たらしい道を、三人は足跡をつけながら進んだ。浅く沈んだ足跡は、きっとすぐに消えてしまうけれど、少女はそれすらどこか楽しかった。
 シュヴァルツの言った通り、湖はすぐに見つかった。随分と遠くまで広がるその場所に、少女は感嘆の声を漏らす。まだ少し遠くに見えるそれは、街ひとつぶんを飲み込むことができるほどの大きさのものだった。湖の澄んだ水面がきらめき、空を反射して蒼くどこまでも広がっていく。少し歩く速度を早めた少女に、ふたりは軽く顔を見合わせてから歩幅を合わせた。
「本当、楽しそうだな」
「とっても。なんだか心が弾むのよ」
「湖好きか?」
「ええ、綺麗だもの。もっと近くで見てみたいわ」
 少女が湖に見惚れながらそう言えば、トウトが少し思案する顔になって腕を組んだ。それからすぐに笑顔になると、ぱっと指を立てて提案する。
「少し道は逸れるけど……まあ道を見失う距離でもねえし、折角だから見に行くか。いいよな」
「……行こう」
「あら、いいの? 嬉しいわ」
「……コハクの願いは叶えたいから」
「俺もおんなじ気持ち。なんなら、目印代わりに俺此処に立ってるけど。どうする?」
「少し向こうに湖畔までの道らしいものも見えてるわ。あそこを通れば行けるはずだからトウトも行きましょう、ね」
 少女がトウトの手を取れば、一瞬驚いたようにトウトの目が見開かれる。その表情にはっと我に返り、少女はぱっと手を放す。いくら兄弟とはいえ、この年になって手を取るのは過度な触れあいだっただろうか。なにより、少女は出会い頭のシュヴァルツについて思い出して、そっと手を後ろで組んだ。ふたりに悪いことをしたかもしれない、と背筋を正す少女に、トウトは気まずそうな視線を送ってきていた。
 荷物を支える肩紐をぎゅっと握ったシュヴァルツが、トウトのほうに目線をやった。それから少し微笑んで、続ける。
「三人で行くだろ」
「……そうだな」
「……家族だろ。気にしすぎだ」
 そう軽く何かを諫めて肩を竦めたシュヴァルツに、トウトは苦笑いで誤魔化していた。
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