06

 湖畔まではすぐだった。段々と草の道から水場が増えてきたその場所で、道を見失わないようにか時折振り返りながら進む二人に、少女はゆっくりとついていく。ぬかるんだ水場に足を撮られないようにと、ふたりに交互に手を引かれるような形で少女は湖の方へと歩いた。
 湖に少し近づいただけでも視界は随分と広がった。湖は、町ひとつぶんくらいは簡単に呑み込んでしまえるほどに大きく、対岸へ声を張り上げたとしてもきっと届かないと理解できるほど大きかった。水際は波紋を受け取っては波打ち、ただ静かに澄んだ水で満たされている。水底からは藻が生い茂り、ゆらゆらと揺れていた。
 桟橋のようなものはなく、船のひとつも浮かんでいない。大きな川ともつながっておらず、時折あふれ出した水が小川を作っているだけだというのに、見る限り随分と底が深いようだった。
「随分広いのね。あの湖に名前はあるのかしら」
「俺は知らねえなあ。シュヴァルツは?」
「……俺も。北の町は、ここから遠すぎるから……イズで聞けば、誰かは知ってるんじゃないか」
「それもそうね。そうするわ」
 もうすぐ辿り着く湖畔は平らで、草花と枯葉に包まれていた。
 湖畔近くにある最後の小川をトウトの先導で飛び越した少女は、湖畔にひょいと足をつけた。さくり、と土の感触が足裏に伝わり、湖の傍まで来たのだと胸が弾む。
「ここらで昼飯にするのもいいな。あっちに林檎もなってるし、支度するから待ってろ」
「いいわね。素敵な昼食になりそう」
「俺もたまにはいいこと思いつくだろ?」
 トウトが、その場に荷物を降ろした。シュヴァルツと少女もそれに倣い荷物を纏めてその場に置いて、それから共に水際へと向かう。トウトは、少女の好物であったという林檎を採りに行ってくれるらしく、楽し気な様子で森の中へと歩いて行った。
 穏やかな風が少女の白髪を靡かせていた。太陽のもとにあると、少女の白髪は金のようにも銀のようにも輝きを変え、艶めく。少女は髪を耳にかけて、シュヴァルツより一歩先へ歩みを進めてから、湖をあらためて見渡した。
 こんなに傍まで来ても、印象は遠くから見たものと然程変わらなかった。ただ、蒼く、深い。そう、まるで少女の首にかかった指輪の装飾のように蒼く、町ひとつを呑み込んでしまうほど深く──。
 少女がそうして、しばらくぼんやりと湖を見つめていることに、先に気が付いたのはシュヴァルツだった。
「……おい、コハク?」
 シュヴァルツに肩を叩かれても、少女は一切の反応を示さなかった。先ほどまでの凛とした視線も楽し気な表情もゆっくりと消え失せ、ただぼんやりと空を湖を見つめるように立ち尽くしている。
「おい、聞こえてるか」
 肩を掴まれ軽く揺さぶられた少女は、ふと思い出したかのように、一歩一歩とゆっくり歩を進める。シュヴァルツの手をするりと抜けていった少女に、シュヴァルツはやり場のなくなった手を空中に置きながら困惑していた。意味の分からない行動に呆然として十数秒、シュヴァルツははっとして声を上げる。
「……コハク!」
 森の中へと歩を進めていたトウトも、シュヴァルツの声に振り向いた。
「おい、どうした」
「コハクの様子が変だ!」
 シュヴァルツは鋭い声を上げてから、ばっと少女のほうへと走り出した。ゆっくりとした足取りであるはずなのに、少女は確かに湖の真中のほうへと近づいていた。既に足先は濡れているというのに、まるでそのまま水の中に身を沈めることが目的であるかのように歩き続ける。
「まだ昼間だ。なのに、俺の声が、聞こえてないような」
 そう言いながら、シュヴァルツは焦った様子で少女に駆け寄り手を伸ばす。驚いている時間の猶予などなかったというのに。コハクが戻ってきた安心と昼間という時刻にかまけて、気を抜いてしまった自分を恨んだ。あの晩夜に溶けていった彼女を、手の届く今は一刻も早く引き留めなければならないのに!
 全身を這う焦りの儘に腕を掴もうとして、シュヴァルツの手が空を切る。勢いを殺しきることが出来ずにつんのめって、シュヴァルツはそれでもと無理やり体勢を立て直してもう一度手を伸ばした。トウトは、追い付けなかった。
 シュヴァルツの細く骨張った手が、少女の腕をつかんだ時のことだった。
 大きな音を立てて、まるで生き物であるかのように水際に大波が起こる。少女とシュヴァルツを丸呑みしようとしているかのごとく、水は高く登ってふたりに降りかかった。水が跳ね、ざぶりと音を立て、透明なはずの水が日光を遮って二人に影を落とし、そして飲み込む。ふたりの影が波に攫われるまま倒れ込み、白い泡と蒼い水の中に落ちていった。
「シュヴァルツっ、コハク‼」
トウトの悲痛な声があたりに響いた。救わなければと歩を進めた彼のもとに、高波は最後の一撃とばかりに襲い掛かった。降ってくる波の残滓に殴られて、トウトは体制を崩して地面に倒れ込む。全身を濡らしたその波は、そのまま不気味な化け物のように去っていった。トウトは一度きつく瞑ってしまった目を開いた。喉奥に入り込んだ水を吐き出すように咳き込んでから、トウトはなんとか立ち上がる。
 波は、まだゆらりゆらりと漂いながらも、何でもない顔で湖におさまっていた。
「シュヴァルツ、なあ、コハク!」
 何が起こったのか理解する間もない。ただ全身の血の気が引いて、心臓が嫌に激しく脈打った。助けに行かなければ。俺はふたりの兄なのだから。そう思いながらもう一度名前を呼べば、呼応するようにシュヴァルツが水面から顔を出す。その腕に抱きかかえられた少女のことを見て、どっと安堵の眩暈がした。
 トウトとシュヴァルツが協力して少女を川岸へ引き上げたときに、少女は何度か咳き込んで水を吐いた。気道を塞ぐ息苦しさと、髪が服が肌に張り付く重たい感覚に、少女はなんどか瞬きを繰り返す。水がぽたぽたと垂れて幾度か目に入り、不快感が襲った。
「シュヴァルツ、コハク、意識は」
「っ……あるわ。これは、どういう状況、かしら」
「どういうって……」
 気がつけば、隣でシュヴァルツも何度か咳き込んでいた。彼の服も全身濡れ鼠になっており、艶やかに靡いていた黒髪からも水滴が落ちていた。少女は湖を見ている最中から、湖から引き上げられるまでの間の意識が、すっぽりと抜け落ちていた。
「お前がふらふら湖に入っていったんだ。それを追いかけて、シュヴァルツも」
「……覚えが、ないのだけれど。私はずっと湖を見ていたし──そこから今の今まで、あなたたちに引っ張られて岸辺に着くまでの間の記憶がないわ」
「なんで──」
「…………夢遊病の、症状と、同じだったよ、トウト」
 いつもより途切れ途切れに喋るシュヴァルツに、少女とトウトはぱちくりと瞬きをした。顔に張り付いた髪を掻き上げた少女は、水を払うように軽く首を振って、それからシュヴァルツに向き直る。
「ぼんやりと、してた。昔と同じように、何かに呼ばれるように歩いて行った。その先がここだったんじゃないのか」
「……前もこんな遠いところを目指してたのか?」
「いや…………水、を。探してたのかも、しれない。北の町の近くは大河も、いくつかの小さな泉もあったし」
「……状況が読めないのだけれど。ただ湖に入っていっただけなら、私程度ふたりならかんたんに止められたでしょう。どうしてこれほど濡れ鼠になっているの」
 ざざん、と嘲笑うようにさざ波が寄せては返していた。ただ蒼く美しい湖を見ていただけのはずだったのに、気がつけばふたりの心配そうな顔に囲まれている。先程まで心地よかったはずの風は肌を突き刺す寒さに変わり、ぞくぞくと寒気が走っていた。
 何もわからない。少女はたしかにその場に居て、眠ってしまったわけでもなかったというのに、まるで白昼夢を見たかのように緩やかに意識を損なっていたらしい。良くないことが起こった、ということだけが確かで、少女は困惑に眉を潜めた。
「コハクが無事なら、いいんだ。何も気にするな」
「そういうわけにもいかないでしょう。夢遊病? こんな真昼から……」
「そうとしか、言いようがないんだ」
 状況が読めないと首を傾げる少女に、トウトが目を逸らしながら言い辛そうに続ける。
「湖で立つはずない大波が立って、お前を攫うみたいに襲ってきたんだ」
「……そうして溺れかけた、と?」
「……そうなるな。どう言ったらいいのか……まるで本当に、水を呼んだような感じだったんだよ、あんな波が起こるはずねえ、こんな静かな湖で……」
「……それは迷信ではなかったの」
「迷信のはずなんだけど……とにかく、ここを離れようぜ」
 顔を青褪めさせたトウトが、少女とシュヴァルツの手をぎゅうときつく握って立ちあがる。彼は会話しながらも錯乱しているらしく、痛いほど手に力が入っている。どこにも行かないでくれ、と小さく呟かれて、少女も僅かに俯いた。どうやら湖に立ち寄ったせいで、とんでもない事件を引き起こしてしまったようだ。ことの仔細を聞けるのはまた暫くあとになりそうだった。行方不明や記憶喪失に加え、また大きな心配を掛けたようだな、と少女は目を伏せた。
 湖はまだ幽かに波打っていた。少女はその音に惹かれて一度振り向いてから、首を小さく振る。それから、荷物を持って歩き出したふたりに連れられて湖を離れることとなった。
 湖が木々に隠れ見えないほど遠くへと辿り着いてから、少女たちは火を焚いて天幕を張り、今日をその場所での休息日とすることに決めたのだった。
 少女はその夜、目覚めてから初めて夢を見た。
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