08.硝子を割った水面下

目が覚めたのは、自分の部屋ではなかった。白い天井、白い壁、白いベッド。見渡す限り、白、白、白。気が狂いそうだ。色らしい色と言えば、布団の中に入った私の制服の、見慣れたカーキ色だ。

 ここはどこだろう。あまり、目が覚める前のことは覚えていないし、思い出したくない。わずかに上体を起こすと、知らない、見覚えがまったくない人と目が合った。青い髪の、女性。

「あら、気がつきました?」
「……えっと、……誰、ですか。ここは、」

 寝起きならではの掠れた声が、自分の耳に飛び込んだ。そのまま手を後ろにつきながら身体をゆっくり起こすと、ああ、まだ少し痛む。今度は外的要因からの痛みに頭を押さえると、これまた白い扉の前に立っていた女性は落ち着いた様子で、ヒールの音を鳴らしながらこちらへ近づいてきた。

「無理は禁物ですわ。わたくしは水銀。このリコリス総合病院のしがない看護婦長ですわ」
「あ、ここ、……病院?」
「ええ、その通り。あなたの話は聞いていたけれど、直接お目にかかるのは初めてですわね」

 噂には聞いていたけれど、今までお世話になったことがなかったが、ここが獄卒たちも御用達、あの世の病院だ。話を聞いていた、ということは、抹本さんか災藤さん、もしかすると佐疫さんあたりだろうか。しかしこの人、よく見ると背がすごく高い。ヒールありきにしても、スタイルが良くて、モデル体型。それこそ災藤さんあたりとそう変わらないのではないだろうか。この威圧感の正体もここにあるのだろうか。
 まだわずかにぼーっとする思考の中で、水銀さんは私と目線を合わせるでもなく、私の横について立っていた。

「それにしても、罰ゲーム以外で自らを傷つける獄卒さんなんて初めてだわ。詳しく聞く趣味はありませんけれど」
「あ……」

 そうだ。私、撃ったんだ。初任務以来、自暴自棄になって、頭と胸を。よく見ると、布団に隠れた左胸のあたりが赤く染まっている。もう乾いたのだろう、布団はまっさらだ。徐々に思い出してきた。あのとき音を聞きつけて誰かが廊下を走って部屋の扉を叩く音。だからきっと、獄卒のうちの誰かが私に気がついてここまで運んでくれたのだろう。余程重症にならないとここには運ばれないと聞いたが、前に頭を撃ったときよりも重症で、処置が必要な状態だったということだろうか。
 頭の中で整理をしている私を、表情一つ変えずにこちらをただただ見つめる水銀さんは、淡々と、次に言葉を続けた。

「もう先生には看てもらってありますわ。回復したら受付に声だけかけて勝手に帰ってくれて結構よ」
「あ、……ありがとう、ございます」
「それでもどこか酷いようでしたら毒虫さんにでもお声かけになって。きっと薬を処方してくれますわ」

 そうして部屋の扉に手をかけた水銀さんに、毒虫さん? と聞き返すと、特務室の薬師係ですわ、とだけ言って潔く扉を開けて、部屋から出て行った。わずかにまだ、ヒールの音が聞こえる。毒虫さんは、抹本さんか。その由来なんて私にはとても計り知れたものではないから、少しだけ考えて、すぐにやめた。
 起こしていた身体をまた横たえると、やはり幾分かこちらの方が楽だ。まだ胸元も、頭も、少し痛むから、もう少しだけ寝ていこう。

 次第に瞼を閉じていく最中に、また扉が開く音が聞こえた。水銀さんか、他の看護婦さんだろうか。一度意識を失ったあとは、気のせいなのか、少しだけ気持ちが楽だ。今はヒールの音も、人の声も、耳障りに感じない。閉じかけた瞼をまた、ゆっくりと開いて、私の上に影が伸びてきた、その正体の方を向いた。看護婦さんではなくて、空色の眸。ああ、佐疫さんだ。

「飢野、調子はどう?」
「えっと、まだちょっと悪くて……」
「そっか。ゆっくり休んで」

 面会用なのか、ベッドの横に置かれた、ああ、ここに白以外のものがあった。色らしい色かと問われれば、そうでもない、黒い丸椅子に腰掛けた佐疫さんは、薄らと目を開けている私と目が合うと、いつもと同じ、穏やかな微笑みを見せた。私を見つけたのは佐疫さんだろうか。でも、何も聞かない。私から話すのを、待っているのだろうか。私から言うことなんて、何も――

『飢野起きたー!?』
『院内は走らないでくださる?』

 バタバタ、ドタドタと騒がしい、けれど一人分の足音が部屋の外に響き渡り、穏やかな表情をしていた佐疫さんも苦笑いだ。もうその足音の時点でそれが誰かなんて、確信をしていたが、私の名前を呼ぶ声でさらなる確信を得た。それと、水銀さんの注意をする声。あの人、怒らせたら怖そうなのに、まあよくやるものだ。
 先程と違い、大きな音を立てて部屋の扉が開いた。まあ、この鬼は静かにするということを知らないのだろうか。黄色に光る双眸と合わさったとき、見開かれていた目がまたさらに見開かれて、口角も次第に上がっていった。

「おお〜! 飢野!! 元気かー!?」
「平腹、静かにね」

 水銀さんに注意されてもまったく反省する気のない平腹さんは相変わらずで、椅子に座らずに床にしゃがむと、私の入っている布団に腕を置いた。佐疫さんが注意をするように軽く平腹さんを引っ張るが、大丈夫ですよ、と言う代わりにに頷くと、首根っこの辺りを引いていた手を離した。

「なあなあ飢野、なんで――」
「飢野、身体はどうだ」

 平腹さんが何かを言いかけたのを遮ったのは、斬島さんだった。お決まりのカナキリはつけていない――と思ったが、よく見れば三人とも武器を身につけていない状態だ。佐疫さんはそれどころか、あの四次元ポケット的外套まで外している始末で、この格好を見るのは初めてかもしれない。まあ、見舞いに病院に来るために武器なんて必要ないだろうが。
 するとまたもう一人、この個室へと入ってきた。木舌さんだ。酒瓶片手に、けれど酔っているわけではなさそうだった。

「目が覚めたみたいで良かったよ、飢野」
「……あ、ありがとうございます」

 サイドテーブルに、いくつか飲まされた中で私の一番お気に入りの果実酒の瓶を置くと、木舌さんは壁にもたれかかった。ああ、もしかしなくてもお見舞いの品だろうか。こういう、入院するのもそうだし、こんなに私のために集まってもらうのも、初めてだ。やっぱり、ここに来てからは初めてがどんどん募っていく。

「そのお酒……」
「ああ、そうさ。飢野の好きなやつを持ってきた。今から……ああ、良くなったら一緒に飲もう」

 これまた、優しい眼差しを向けてくれた。皆の温かい眼差しが、微笑みが、なんだか逆に、痛い。どこか罪悪感のような、後ろめたさのような、そんなものが押し寄せてくる。どうしてだろう。
 するとまた、戸が開いた。図体に似合わず、なんて言ってしまえば失礼だけど、礼儀正しく、静かに開いた。そう、紫色の獄卒だ。

「谷、裂さん」
「無事なようだな」

 不器用に視線を向ける様子が、ああ、この人も心配して来てくれたんだ。しかしまあ、木舌さんあたりでもギリギリだったが、谷裂さんが入ってきた瞬間、随分狭い部屋になってしまった。ただでさえあまり広くない、一人用の個室なのに、私以外に五人も来ると来ると、狭い。狭すぎる。入ってきたのが木舌さんや谷裂さんじゃなくて、獄卒の中でも小柄な方の田噛さんや、見るからに細い抹本さんならもう少しゆとりがあったのではないか。……あれ、

「田噛、さんは」
「ああ、田噛? 本当に信頼してるんだね。田噛は待合の方にいるよ。ここには入ってこないだろうけど」

 佐疫さんの言う通り、信頼しているのもあるけれど、一度私が自殺しようとしていたのを見ていたからでもある。だから、田噛さんに来てほしいだとか、田噛さんに会いたいと言うよりは、田噛さんの反応が怖かった。田噛さんに、あまり会いたくなかった。
 今でもただ、色々な後ろ向きの感情が押し寄せて、次第にこの部屋にいる五人と目を合わせるのが辛くなってきてしまい、布団に潜り込んだ。

「飢野? まだしんどい?」
「おれたち、外に出ていようか」

 一度そうしてくれると嬉しい。この、普段は心地良いはずの視線から逃れることができるから。ああ、でも、このままでは進展しない。今までと、何も変わらない。どうせ死ねないのなら、どうせ死にたくなるのなら、吐き出してしまおうか。

「良くなるまで外で待とう」

 逃げるな。逃げるな私。今を逃したら、きっと、私の気持ちの問題で、二度と言うことができない。言われたところで、だからなんだよ、という話かもしれないが、それでも少しでも楽になるなら。

「ま、待って……」

 喉から絞り出して、かろうじて聞こえたであろう声は、五人の獄卒を引き止めた。扉の方を向いていた獄卒たちが、踵を返す。どうしよう、震える。視線の先が、定まらない。目が泳ぐ。どうしよう、どうしよう。唇にすら震えを感じて、上手く言葉が紡げなくて、詰まって、ああ、どうしよう。綺麗な五色の眸が、重く、私の方を見ている気がする。そんなに、見ないで。でも、引き止めてしまったのは私だ。どうにかして、この震えを止めようと、指先を唇に持っていこうとすると、その手は佐疫さんの手によって包まれた。

「……ぁ、」
「飢野、ゆっくりでいいんだよ」

 私を落ち着かせるように、宙を彷徨っていた手を取ると、それを清潔な真っ白の布団の上に置いて、やさしく、少しだけ力を込めて、今度は手の甲を握った。あの世の者だけど、温もりがある。生きている。
 少しだけ、ほんの少しだけ心にゆとりができて、狭まっていた視界がひらけて、周りに目を向けることができた。やさしく、私の言葉を待つような、そんな目だ。私が生前一度も向けられたことのない、そんな。

「わ、私……」

 やっと、心の準備ができた私が口を開くと、あの騒がしいことに定評のある平腹さんですら、私をただ見守ってくれていた。頑張れ、頑張れ私。

「こ、こんなこと聞かされても、だから何って思うかもしれないし、……興味ないかもしれないんです、けど」

 こうして保険をかけるのも、良くない癖だ。そんな回りくどい言い方をしているのさえも、五人とも、黙って待っていてくれている。ああ、本当に、好きだ。この思いすらも、初めてだった。この優しい眼差しも、握られた左手も、すべてが私の力になって、勇気になって、さらに深呼吸も付け加えて、また心の準備を整えた。

「私、……死にたくて死にたくて、仕方なかったんです。今も、たまに」

 たまに、と言えど、ここに来て死にたくなったのは久しぶりだった。獄卒として働き始めて一週間、二週間のうちは、定期的に夜になると、死にたくなるときがあった。けれど、自殺をしようと思ったのは、初任務と、今日。もしかしたら、昨日かもしれない。どちらも、私の中のトラウマが刺激されたときだった。
 私と昨日の亡者あの子との決定的な違いは、幸せだったかどうかだ。

 それから、夢で見たような、私が覚えている限りの生前の、くだらない記憶をただただ連ねていった。私の足が埋まっている、下を見ながら話していたけれど、その間も黙って、真剣に聞いてくれていた。もちろん、茶化されることもなかった。
 それで私が自殺して、肋角さんに拾われて、ここに来た。それでも、後ろ向きなことばかりじゃなくて、ここに来てから幸せだ、とか、皆と仲良くなれて本当に良かった、とか、そういうことも交えつつ。なんだ、口にしたら魔法みたいに、気持ちが軽い。直接幸せを伝えただけで、こうも気持ちが楽になる。

「――っていう、つまらない話」

 数分だった。緊張がまだ解けきっていない私にとっては、その数分が、長くて仕方なかった。けれど、早く終わらせようなんて思わなくて、私が思うことと、思い出せることを、すべて言ったつもりだ。

 反応が、怖い。そんなことで悩んでいたのか、とか、気が弱い、だとか。どちらも事実には変わりないけれど、前者の“そんなこと”は、私には大きすぎる“そんなこと”なのだ。
 皆、なんて言うだろうか。恐る恐る顔を上げると、一番に口を開いたのは、平腹さんだった。

「でもさあ、飢野は今幸せなんだろ?」
「えっ? あ、……うん、幸せ」
「だったらもう良くね? オレも今が楽しいから獄卒やってんだし」

 責められるでもなく、しかも一番初めに私に声をかけたのが平腹さんだったので、思わず素っ頓狂な声が漏れてしまったけれど、平腹さんが私の長い話に対してくれた答えは、えらく単純だった。単純だけど、すごく、胸を打たれるような、そんな答えだった。
 その言葉に他四人も頷く。ああ、この人たちは、私と違って、“今”を生きているんだ。

「飢野と違っておれたちは元が人間じゃないし、そういった人間の気持ちはわからないけど、平腹の言う通りだよ」
「そ、……」
「うん。過去のことはまだ新しいだろうし、忘れられない、きっと一生持ち続けなくてはいけない大切なものだと思う。でも、過去を忘れて今を精一杯生きるのだって、悪くないと思うよ」
「ふん、木舌のくせに良いことを言うな」

 柔和に微笑んだ木舌さんも、同じように、私を励ますような言葉をくれた。何より、人間だった私とは違うというのを包み隠すことなく、はっきり言ってくれるのが、何故だろう。すごく、頼もしかった。信用できる言葉だった。
 それに頷いた谷裂さんに合わせて、今度は佐疫さんが口を開く。こういうの、初めてだ。初めてが、たくさん。

「本当に、辛かったと思う。でも、もう飢野に危害を加えるやつらはここにはいないから、安心して。まあ、亡者には加えられるかもしれないけどね」

 なんてね、と少し笑ってみせた。確かに、そうだ。その通りだ。もう、ここには、私に危害を加える人も、加えた人も、二度と会うことがない。なんだ、私、解放されてたんだ。
 それに続いて、谷裂さんが私の方を見て、少し目を逸らしてからまた、口をゆっくりと開いて、それと反対に、開くや否やすぐに声を出した。

「お前が落ち込むようなことがあれば、鍛錬に付き合ってやる。発散くらいにはなるだろう」

 佐疫さんは、満を持して放った言葉がそれ? なんて言ったふうに口をぽかんと開けていたけれど、すぐにいつもの穏やかな笑顔に戻った。その程度なんかじゃなくて、今の私には、何を言われても十分に力が湧いてきて、そうやって不器用に励ましてくれる谷裂さんの言葉も、本当に嬉しかった。胸がじんわりと、温かくなるのを感じる。
 この流れは、と自然に私を含めた四人の視線が斬島さんに移るが、常人ならばプレッシャーで少し怯んでしまったりするだろうこの状況でも、変わらず真顔を保つ斬島さんは流石である。まだ何も言っていないのに、ついつい、わずかに和んだ空気の中で、笑ってしまいそうになるので、斬島さんって、すごいと思う。

「俺はあまり上手いことは言えないが、」
「……ふ、」
「飢野は大切な俺たちの仲間だから、何かあったら遠慮なく言ってほしいし、俺たちも助けたいと思っている」

 それだけは覚えておいてくれ。そう言うと、斬島さんは、出番が終了したと言わんばかりに壁際に寄った。つい笑いが漏れてしまったのが恥ずかしいくらいだ。だって、私たちは、同僚。仲間。友達。兄妹。既にそういった、深い深い関係で繋がっているのだから。
 言おうかと思って、迷っていた。感謝よりも、何よりも、今一番皆に伝えたいこと。口をきゅっと結んで、五人の、一人一人の顔を見て、息を吸って、確かに言うのだ。

「大好きです、皆さん」

 ☓☓☓

 まだトラウマや、過去の傷が癒えたとは限らないけれど、昨日よりも、心がとても軽くなったのは事実だ。私たちがいつでも助け合う仲間だという意識が、皆が紡いでくれた言葉一つ一つが、私の力になった。今の幸せな時間が、一生続いてほしい。

 あの話のあとすぐに、私が帰る準備を始めると、五人は先に帰るよ、と言って、せっかく持ってきてくれたお酒もその持ってきてくれた本人により没収を食らったが、またあとで飲むことになっている。
 最後に受付に声をかけるように、と水銀さんに言われたのを思い出して、シーツを整えると、替えの着替えが置いてあることに気がついた。広げてみると、私のものと同じサイズだ。誰かが持ってきてくれたのに、気がつかなかったみたいだ。確かに血だらけのまま帰るのは、と思い、洗いたての制服に身を包むと、部屋から出た。
 受付に向かう最中の、死角。角から飛び出してきた影に気がつくことはなく、私は頭に鈍痛を感じた。谷裂さんの金棒とか、フラッシュバックしてくるときみたいな鈍痛じゃなくて、もう少し弱くて、どこかで感じたことがあるような――

「……痛ぇ。頭硬いなお前」
「い、たた……た、田噛さん?」

 いつかの仕返しだろうか。私を待っていてくれたのかもしれない、というのは思い込みに過ぎないだろうが、反応が怖くてあまり会いたくなかった田噛さんと会えて、嬉しい。病み上がりの患者にいきなり頭突きをふっかけるのは、とても感心しないけれど。もしこれが違う人だったら、どうしていたのだろうか。
 私と目が合った田噛さんは、どこか気まずそうに、いや、気恥ずかしそうに目を逸らすと、観念したのか開き直ったのか、ここまでか、という程に近くで、私を見つめてきた。

「やっぱりとんでもない馬鹿だな」
「ばっ……」

 予想外に近くで見える夕焼け色に、少し照れてしまいそうだったのも束の間、私によく向けられる「馬鹿」という言葉を耳にしてから、ショックと苛立ちが同時に来てしまった。けれど、ああ、私のさっきの話は聞いていないにしろ、そんなに重苦しい空気にはならなそうだ。
 少しだけ私から距離を取ると、ご自慢の三白眼で私を見つめながら、への字口を開いた。

「死ぬとか考えるんじゃねえ。どうせ俺たちは死ねない」
「ご、ごもっともです……」
「とりあえずまあ、頑張って生きろ」

 特に飾ることもない、シンプルな言葉を投げた田噛さんだが、軽薄さなんてものは微塵も感じなくて、むしろ、真剣さしか伝わらなかった。そうして私に背を向けて、帰ろうとする田噛さんにも、伝えたいことがあった。他の人たちに伝えたものと同じだ。今、私は幸せで、それから、

「田噛さん、大好きです」
「……そうかよ」

 私の伝えた言葉に、拒絶の言葉を並び立てるなんて無駄なことはせずに、一度止まると、それだけ言って、振り返ることなく出口へと向かっていった。

 それから受付で、見るからにあの世の者の姿をした、ゾンビのような看護婦さんに声をかけたあと、何やら出口付近で口論のようなものが聞こえた。背の高い、モデルさんのような体型の、長身二人が口論をしている。

「どうしてあなたがここにいらっしゃるのかしら」
「どうしても何も、可愛いうちの子が心配だからに決まっているでしょう」
「まあ、そんなのあなたの下の獄卒さんたちだけで十分ですのに」

 青髪の長身の、水銀さんと、その向かいにいるのは、ロングコートを身にまとった副長、災藤さんだ。二人とも、顔に出ているわけではないし、お互いに穏やかな物言いだけど、どうしても仲の悪さが滲み出ていた。犬猿の仲とはこのことだろうか。なんというか、怖い。間に取り入るなんて、もちろんできるはずもなかった。

「早く飢野の部屋を教えてくれませんか?」
「もちろんいいですわよ。ただし毒虫さんを一週間こちらに寄越すこと」
「う、うゆ……」

 よく見ると間に抹本さんもいる。外套の後ろの方、首根っこのようなところを掴まれて、水銀さんに右手で吊るされている。一体どういう状況なのかわからないが、リコリス総合病院ではこれが日常茶飯事の光景なのかもしれない。
 いくら信用されているにしろ、あのままでは抹本さんが可哀想だ。水銀さんには悪いけど、災藤さんに無事の連絡もしなければならない。ゆっくりと、横歩きで二人の間に、目につくように移動すると、先に気がついたのはどちらでもなく、抹本さんだった。

「あっ、……飢野。もう平気?」
「は、はい。おかげさまで」
「そう、良かった……薬の必要もなさそうだね……」

 まさか獄卒の中でもなかなか小さい抹本さんを、こんな形で見上げることになるとは思わなかった。それから、こわごわとその左右を見ると、一番に感じるのは威圧感だ。背が高い故の、それから、この穏やかだけど人間離れした、そういう威圧感。

「おや、飢野。もう帰るの?」
「あ、えっと、はい」
「そう。元気になったなら何より」
「わざわざ来てくださって、嬉しいです」

 そうしていつもの、先程水銀さんに向けていたのとは違う笑顔にほっとする。水銀さんは、ああ、思ったよりは怖い顔をしていないようだった。
 災藤さんはどうやら、私のためにこの世でケーキを買ってきてくれたそうだけれど、もう回復したタイミングだから、館に戻って皆で食べることになった。あ、このケーキ屋さん、人気のところのやつだ。中身を覗きたい衝動に駆られつつも、挨拶はしないとな、と水銀さんの方を向いた。やっぱり背が高い。この距離で話すと首が痛くなりそうだ。

「えっと、水銀さん。お世話になりました」
「どういたしまして。またいつでも顔を出してください、歓迎しますわ」
「流石飢野。婦長殿に挨拶できるなんてとてもいい子」
「ええ、そうですわね。どこぞの馬の骨の教育でないことは確かですわ」

 ああ、こうしてまたバチバチという音が聞こえてきそうなほど、二人は目を合わせる。というか災藤さんの褒め方、煽るのを優先しているのか、結構適当じゃないか。私を褒めて頭を撫でてくれるのはすごく嬉しいことだけれど、頭を撫でながら、おそらく無関係な私と抹本を挟んで喧嘩をされるのは複雑だ。可哀想だと見ていた抹本さんの気持ちがまさかこう身をもって体験できるなんて。

 懲りたのか、二人が私たちを解放すると、災藤さんに「それでは帰りましょうか」なんて声をかけられて、一緒に館まで帰ることになった。ああ、怖かった。ボソッとでもなく、はっきりと背後から「もう来なくても結構よ」なんて聞こえてきて、どれだけ合わないんだろう、この二人。

 でも、こういうのも、小さな言い合いも、皆との会話やここでの生活も、全部、全部全部、本当に楽しくて、幸せだ。


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