09.終わりのない畢生を謳歌する

日暮れの余光が窓の外に広がっていた。

 何人かが任務に出払っている中、本を読む気にもゲームをする気にもなれなかったので、身体が鈍ってしまってはいけない。そう思って道場へと向かったのだ。もちろん、例の如く先客は存在した。

「飢野も鍛錬か」
「することもないので……」
「いい心がけだ」

 私の姿を見るや否や、一度腕立てをやめてからこちらを向き直した。それから、その動機は感心しないが、と付け加えると、片腕立て伏せを再開した。相変わらずよく鍛えられた身体だ。最近鍛錬を少し怠っていたので、通常の腕立て伏せすらままならないかもしれない。特に手の抜き方を覚えてしまったので、サボりがちの鍛錬であったが、それに関して説教を受けるかと思いきや、そうでもなかったらしい。しかしこうして道場で鉢合わせてしまうともなると、谷裂さんとの手合わせは避けては通れない。

「準備ができたら声をかけろ」
「はーい……」

 最近平腹さんが難しくて投げていたゲームで見たような、テンプレのような台詞を吐き捨てた谷裂さんは、鍛え上げられた血色の悪い腕で汗を拭う。汗が目立たないはずの黒いタンクトップはぐっしょりと濡れており、長い時間ここで一人鍛錬をしていたことが見受けられる。本当に努力家というか、趣味が鍛錬だと言うだけのことはある。私も上の制服を脱ぐと、床に投げ捨てて、腕を交差して伸ばした。実践のときは制服を着ていなければならない規則だが、谷裂さんとの手合わせのときはこうして脱ぐようになった。動きやすく作られているとは言え、もちろんのこと、ない方が幾分か軽い。

「なんだか、久しぶりですね」
「そうだな。しかし、飢野も随分腕を上げた。前以上にいい運動になるだろう」
「う、運動……まあ、ええ」

 谷裂さんはいつもこの手合わせを準備運動と称するが、私からすれば命懸けの戦闘である。ついでに前後に身体を曲げて、あまり意味が見受けられないが、筋を伸ばす。それから、最初に選んだものとまったく同じデザインをした、触り心地も何も変わらない拳銃を手に持つと、弾が込められていることを確認した。谷裂さんは定位置に置かれた、何度見ても血のようで、血を見慣れてしまったとは言え不気味な金棒を手に取ると、私と一定の間合いを取って、その金棒を私に向けた。

「準備はいいか」
「……はい、お願いします」

 息を呑んで、谷裂さんのやる気に満ちた紫色の双眸に少しであるが戦きつつも、私も銃口を相手に向けて、頷いた。にやり、という擬音が相応しいほどに、にやりと口を歪めた楽しそうな谷裂さんに、半歩ほど右足を下げる。
 谷裂さんが合図を出したわずかコンマ一秒ほどで、私たちの手合わせは終わってしまった。決着がついたというよりは、制止されてしまった故に決着がつかなかった、というのが正しい。その原因は、地震とかそういったアクシデントではなく、いつの間にやら音を立てずに道場に入ってきた、空色の眸を光らせる青年によるものであった。

「飢野、ここにいたんだね」
「佐疫さん?」
「何か用か」

 双方武器を構えたまま、頭だけを佐疫さんの方に向ける。その状態でちら、と横目に谷裂さんを見ると、少し顔を顰めているので、きっとこの勝負の邪魔をされたことに対する不快感をそのまま表情に出しているのだろう。佐疫さんは察しが良いため、それに対しては断りを入れた。

「ごめんね、邪魔しちゃって」
「あ、……いえ、えっと、何か用だったんですよね?」
「うん、飢野にね。悪いね谷裂」
「構わん」

 赤黒い金棒を下ろした谷裂さんを見て、にこ、と微笑むと、未だに謎構造をしている外套から数枚の書類を取り出し、私の方に歩み寄ってきた。今日は非番だったはずだが、緊急で任務でも入ったのだろうか。

「肋角さんが執務室に来るように、だって」
「はい、わかりました」
「俺も図書室の方に用事があるから途中まで一緒に行こう」

 いつものように谷裂さんにやられて血の海に沈められることがないので、それに安堵しつつも、しかし久しぶりの手合わせだったので、その機会が失われてしまったことを少しだけ残念に思う。床に放った制服を身につける。佐疫さん近くに寄り、それから後ろを振り向いて谷裂さんの様子を盗み見ると、その視線に気がついた谷裂さんは、また今度だな、と言って、金棒を壁に立てかけた。

 ☓☓☓

 執務室に向かう道中は、やはり佐疫さんとの会話は自然と生み出されるものであった。二人きりになったときに気楽に、かつ無言になることが少ないのは、初めの頃から佐疫さんと木舌さんだろう。あれ、そういえば、

「木舌さん、見てないですね」
「うん。きっと飢野が呼ばれているのはそれ関連だろうね」

 昨日任務に出てから見ていないし、何かトラブルがあったのだろう。となると、今日任務に出ているのは斬島さんと田噛さん、平腹さんだ。昨日はあんなにうきうきしていて、木舌さんに非番が重なったらお酒を飲もう、なんて誘われていたのだが、残念ながら今日はその本人が不在らしい。

「飢野は随分酒にハマったみたいだね」
「……ええ、どこかの誰かさんのせいで」
「今度俺とも一杯どう?」
「わ、ぜひ」

 初めて飲んでからついハマってしまい、お酒を嗜んでいるが、佐疫さんと二人きりで飲んだことはまだなかった気がする。大体誘ってくるのは木舌さんで、私が一人で飲んでいて混ざってくるのも木舌さんだからだ。佐疫さんが泥酔してしまっているのなんて、とても想像がつくものではない。お酒に強いのか、はたまた自制しているかのどちらかであろう。
 図書室の前まで到着すると、佐疫さんが立ち止まったので、私も同じようにした。

「じゃあね飢野。きっと任務だろう。困ったら遠慮なく呼んで」
「ありがとうございます」
「うん。じゃあ、気をつけて行ってらっしゃい」

 控えめにでも大振りにでもなく、外套から覗かせた手を左右に振ると、私はそれに対して軽く会釈をして、執務室の方に向かった。
 廊下の角に差し掛かったときに、ようやく図書室の扉が開く音がしたので、やはり佐疫さんだ。私の姿が見えなくなるまで見送っていてくれたのだろう。その優しさというか、気遣いに、ついつい頬を緩めてしまうが、任務の前にこの気の緩みはいけない、と両頬を手で叩く。

 執務室の前に立ち、三回扉を叩くと、肋角さんからの「入れ」の言葉で戸を開けた。

「失礼します」
「よく来てくれた」

 背の高すぎるこの上司も、私がここに来たときと変わらず、夕焼けを見ながら煙管で紫煙を燻らせていたが、一度それを止めると、私の方を振り返った。相も変わらず、この部屋は少しだけ煙の匂いが染み込んでしまっている。

「今日は飢野は非番だったが、知っての通り木舌にトラブルがあったらしくてな」
「はい」
「それで斬島たちを遣ったのだが、どうやら今回はなかなかに手強いらしい」

 そうして肋角さんから受け取った、今日のことが書かれた書類には、廃校の写真が貼られていた。今回の舞台はどうやら、この世ではなく、あの世との間に位置する場所らしかった。それはまあ、きっと魑魅魍魎たちで溢れていることだろう。移動には便利であるが。ただでさえそれが厄介であるが、今回の目的は亡者の捕捉だという。

「飢野も随分動けるようになったからな。とりあえず廃校に向かってくれ」
「はい!」
「何、また手こずるようであればすぐに佐疫と谷裂を向かわせる」

 許されざる者には罰を。そう言った肋角さんは、また煙管を口に咥えると、毒々しい煙を漂わせた。そしてまた、窓の外を眺め始めたのを確認すると、失礼します、と言って、執務室から出た。

 予備の弾丸は制服の下に、拳銃も使い慣れたものが腿のベルトに、それから靴紐も解けていない。完璧だ。そうして、準備が完璧な状態で館の外へと向かおうとすると、廊下の曲がり角で、何か柱のようなものとぶつかった。

「う、わっ」
「おっと」

 衝撃でよろけて、後ろに体重が崩れそうになったが、それは何かによって支えられたので、尻もちをつかずに済んだようだった。反射的に目を瞑ってしまったが、何が起こったのかを整理しようと、力を込めて閉じていた瞼を開けると、これまた背の高い男性が至近距離にいた。どうやらぶつかった災藤さんが私の腰を持って支えてくれたらしい。鍛錬はしていると言っても、やはりまだ体幹が弱いのだろうか。

「あ、ありがとうございます」
「どういたしまして。飢野もこれから任務?」
「そうです」

 災藤さんは私を揶揄うのが上手いので、この整ったお顔を至近距離まで近づけてくるが、バランスを崩した私の足がしっかりと地についたのを確認すると、軽く災藤さんの胸を押すことで、奇妙な魅力から解放される。

「絆創膏や包帯は持った?」
「あ、えっと、……絆創膏が数枚」

 準備は完璧だと思っていたが、そうでもないらしい。抹本さんに、あった方が便利だよ、と言われて支給してもらったポシェットを覗くと、執務室から調達できる絆創膏が三、四枚程度と、それから抹本さんが調合した痛み止めの錠剤が入っていた。それを見た災藤さんは、どこからか十枚ほど連なった絆創膏と包帯を取り出すと、私の腰に巻かれたポシェットに押し込んだ。

「あの子たちの何人かは絆創膏を持たないからね。いくら回復すると言っても治りは早い方がいい。あの子たちが怪我をしたら渡してあげなさい」
「はい、ありがとうございます」

 行ってらっしゃい、とにこやかに、綺麗すぎるほど微笑んだ災藤さんは、佐疫さんよりは控えめに手を振った。いつかテレビで見た、天皇陛下がするようなそれだ。やはり、外見も相まってか、大人の余裕なるものが感じられるような気がする。それにまたしても会釈をすると、そのまま館を後にした。

 ☓☓☓

 廃校に着くや否や、やはりあの世とこの世の狭間だけあり、魑魅魍魎が蝿のように集っている。これは早めに応援を呼んだ方が賢明だろう、と思いつつ、腿に取り付けた拳銃を構えて、小さなものから順当に倒していく。これに関しては佐疫さんとの射撃の練習や、谷裂さんとの鍛錬のおかげで命中率も高ければ、そこまで怪異たちの動きが速く感じられない。

「ふう……」

 まだまだ寄ってくるが、これにはキリがないので、一度廃校の中へと入ることにした。外装は見るからに古い、教科書で見た、昭和初期のようであるが、どうやら電気はつくらしい。いつか斬島さんと訪れた廃校に比べるとやはり綺麗さは劣っているが。
 一度中に入って振り分けを確認しよう。もしかしたら私が外の厄介な魑魅魍魎たちを片付けなければいけないかもしれないが、それでもひと息つけることに変わりはなかった。昇降口に足を踏み入れ、そのまま廊下の方へと出れば、ぎし、と古びた木の床が音を立てる。二階や三階もこの調子なら、いつ崩れてもおかしくない。『ろうかははしらない』と書かれた、黄ばんだ紙がまず目に入って、それから視線を下へと滑らせると――

「わっ!」
「うるせぇ」

 私が気がつかなかっただけか、それとも気配を消すのがやたら上手いのか、職員室らしき場所の前の壁にもたれて座り込んでいる影が見えた。その橙色をした眸が私を捉えると、小さく舌打ちをして、顔を歪めた。そんなに不機嫌にならなくても。予期せぬ場所で誰だか知れない人と目が合ってしまったら、誰だって驚くに決まっている。そのまま田噛さんと視線を合わせるようにその場にしゃがもうと思ったとき、横から鈍い衝撃が走った。

「おわっ」
「飢野ー!! 何でここいんの?」
「うるせぇのが増えた。だるいな」

 確認するまでもなく、私に思いきり体当たりしてきたのは平腹さんである。災藤さんなら支えてくれたのに、平腹さんは私をその場に吹っ飛ばしたままだ。そもそも災藤さんは故意に私を吹っ飛ばしたりなんてしないが。それに田噛さんが何気に失礼なことを言っている。私は平腹さんに比べれば決してうるさくないし、少し驚いてしまっただけだ。

「なー、何で? お前も任務?」
「そうです、肋角さんの指令で……」
「あー、まあ今回は厄介そうだからな」
「やっぱり?」

 床に叩きつけられて痛む腰を押さえながら、ゆっくりと起き上がると、意図せずとも田噛さんと視線の高さが揃ってしまったらしい。厄介そうと言いつつも動く気のなさそうな田噛さんは、ツルハシを抱えたまま頷いた。どうやら今日はやる気がない日なのか、根が張ってしまっている日のようだ。
 どうしようかと考えを巡らせていると、背後から私と田噛さんに被るように影が伸びてきたので、そちらを振り向くと、斬島さんの青い双眸が私を見下ろしていた。

「飢野も来たのか」
「ええ。肋角さんが今回は手強い、と」
「助かる」

 よいしょ、と腰を上げると、心配性の私は再度拳銃に込められた弾と、予備に巻き付けた弾丸を確認した。田噛さんは寝る準備万端だし、平腹さんは私に体当たりだけをお見舞してどこかに走っていってしまったようだった。

「俺はこのまま探索を続ける。きっと谷裂たちも来るだろうが、それまで外を彷徨いているやつらをどうにかしてくれないだろうか」
「は、はーい……」

 つい返事が吃ってしまった上に、間延びしてしまったのは、私一人であの量を相手にするのがなかなかに鬼畜だと思ったからである。それを汲み取った田噛さんは、伏せていた目を開けると、三白眼でこちらを見上げてきたので、より三白眼が強調されてしまっているように思えた。目つきが悪い。

「安心しろ、雑魚ばっかだ」
「そうですか」
「田噛、飢野と一緒に行くか?」

 雑魚ばかりという情報と、そういえば先程少し倒したときの手応えもあまり強いものではなかったという事実に安堵の息を零すと、斬島さんが提案をしてきたのだが、田噛さんはというと、今度は座り込むだけに留まらずに、ごろんとその場に横になってしまった。衛生面が気になるところだ。

「俺は寝る。そこまで過保護にならなくてもこいつはそんなに弱くねえ」
「それもそうだな」
「心細い……」

 斬島さんは同意するよりナチュラルにサボろうとしている田噛さんをどうにかした方が良いと思う。しかしまあ、亡者を説得するよりはマシかもしれない。あれから少しの年月が経ち、何度か生前の記憶が頭に呼び起こされることもあったが、今となってはそれも少なくなってきた。時間が経ったことにより記憶が薄くなってしまったからだろうか。やはり何事も時間が解決するのかもしれない。とは言え、やはり対人となってしまうと足が竦んでしまうこともあるため、外を回る方が賢明だ。

「……じゃあ、外回り行ってきます」
「ああ、気をつけて」
「やられるんじゃねぇぞ」

 二人の声にまた、軽く頭を下げると、どこやらを周回してきた様子の平腹さんが田噛さんの近くでブレーキをかけて、ぶんぶんと私に手を振った。それに対して小さく手を振ってから、また昇降口へと引き返す。

「――私、死なないので」

 それだけ言って、また少し振り返ってみると、平腹さんは相変わらず目を真ん丸に、それから斬島さんは静かに頷いて、田噛さんはフラグを立てるな、とだけ吐き捨てた。

 大丈夫です。そんなに簡単にやられないし、死なない。だって私は、獄卒だから。

 ☓☓☓

 死にたくて、死にたくて、仕方なかった。

 生きていてもいいことなんて一つもなかった。死んだ方がずっとずっとマシだと思っていた。もしかすると一つくらいはあったのかもしれないけれど、そうだとしても思い出せないくらい小さなことなのだろう。思い出せないくらいなら、どうだっていい。だから、死にたかった。すべてを終わらせたかった。

 でもそれは、生前の話だ。

 ここでの生活を終わらせたいだなんて、安易にでも口にしたくない。だって、ここで過ごしてきた日々も、皆との関わりも、全部全部大切なものだから。ここでできた繋がりも、初めて得られた幸せも、もう消したくない。絶対に、消さない。

 死にたくなんてない。
 この場所で、生きたくて生きたくて仕方がない。幸いにも私は、死ぬことができない。

 だって私は、獄卒なのだから。


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