04.蒼鉛よりも柔らかな

獄都に来たばかりで、右も左もわからなかった。適応は早かったとは言え、やはりいきなり知らないところに連れられてきたとなると、不安ももちろんあったからだ。今のところこちらにやってきてしたことと言えば、武器を選んで任務に数回、それから二日に一度ほどの鍛錬くらいだ。本当にそれ以外していないと言っても過言ではなく、館の外に出るのは任務のときに限る。

「はあ……」

 零れてしまった溜め息は無意識のものだった。ベッドの上に横たわって、天井に向けていた視線を壁の方に移すと、ハンガーに掛かっている元々着ていたブレザーの制服をぼんやりと眺める。部屋には小物が少なくて、殺風景だ。最低限の机と、ベッド。何か物を増やそうかしら、と思っても、そのためには慣れない外に出る必要がある。今のところ服も、二着の獄卒の制服と元の制服とで回ってはいるのだけれど、非番の日なんかは皆各々好きな服を着ているので、私もそろそろ買わなきゃな、と思ってから数日が経っている。

 どうせここにいたって死ねやしない。それに最近は、特に死ぬ必要もない。することがないなら、街の方に出てみようかな。

 むく、と潔くベッドから身体を起こすと、制服を軽くはたいて気持ち程度ではあるが皺を伸ばす。もう一着はあやこさんが洗濯してくれているところだし、わざわざ人間のときの制服に着替える気にもならないからこの服で良いだろう、と数回行った任務の報酬を手に持って部屋の外へと出た。

 玄関の方で改めて、ブーツの中にカーキ色をしたパンツを入れ込む。今日は特に武器も必要ないだろうから、銃は部屋に置いてきた。片手に小さめのがま口財布を持って、そこには札が数枚だけ。獄都での物価はよくわからないけど、ファストファッション系のお店があれば上下二着ずつは買えるだろうか。ブーツ内側のファスナーを上げ、不安ながらもそろそろ行こう、と立ち上がると、何やら肩を叩かれたような感覚が残った。

「? あ、……災藤さん」
「どうしたの飢野、これからお出かけ?」

 背が高い。最初に挨拶をしたくらいで、こうして対面で話すのは初めてだろうか。背が、高い。肋角さんほどではないけれど、特務室の中ではすごく高い方だと思う。すらっとしていて、人間だった頃に見ていた俳優とかモデルなんかより余程スタイルが良くて、綺麗な人だ。
 つい魅了されたように見上げて動かなくなってしまった私に、災藤さんはにこやかで妖艶な笑みは変わらずに、小首を傾げるだけだった。

「えっと、……服を、買いに行こうかと思って」
「ああ、服ね。そういえばお前は制服以外は着ていないね」
「まだ来たばかりでその、持ってなくて……そろそろ欲しいなって」

 小首を傾げたまま、穏やかな笑みを私に向けた後、その視線は私が手に持っていた財布に移された。なんだかまじまじと見られている感じが落ち着かなくて、一歩、二歩と気づかれるかどうかくらいの歩幅で後退りをすれば、災藤さんは薄い唇を三日月のまま開いた。

「お金は足りる?」
「報酬で貰ったものを使おうかと、」
「報酬ってまだ少ないでしょう? 私が出してあげる」
「えっ!? そ、そんな……」

 ただ見送ってくれるだけかと思いきや、想定外の言葉が飛んできたことにより困惑の色を現してしまう。両手を前に出して、いやいやというように手を左右に振るのだけれど、災藤さんはいいから、というふうに構わず私の肩を掴んで扉の方を向けさせ、外に出るよう促すように押した。ホワイトリリーの甘いけれどもくどくない香りがふわっとその場に広がった。

 ☓☓☓

 結局災藤さんに言われるがままになり、獄都の街を歩いているのだけれど、なかなかに緊張が拭えない。災藤さんの少し後ろを続くように歩くと、陶酔を催すような残り香に包まれた。大浴場にあるシャンプーやボディソープには思い当たるような香りはなかった。香水、だろうか。

「飢野?」
「は、はい!」
「ふふ、そんなに固くならなくても大丈夫」

 無言は気まずいから、もちろん何かしらの話題は提供されるだろうと思っていたのだけれど、いざ話しかけられてみると冷や汗が出てくる始末だった。怖い人じゃないのはわかるし、むしろ田噛さんや谷裂さんより優しいのだけれど、外見も相まってか、それとも考えていることが読めないその表情からか、酷く緊張した。
 話題を振られるならばこの位置関係では会話のラリーが難しいだろう、と考えたので、後ろを着いていたのをわずか前に進み、災藤さんの斜め後ろで並ぶようなかたちとなった。

「飢野はどういう服を好んで着るの?」
「どういう、服」
「前に着ていた服とか」

 服は、好きだ。流行りの服を見るのも、個性のある服を見るのも好きだった。必死に貯めたバイト代で、月に数着ずつ、安いものではあったけれど買っていたことを思い出した。けれど、明確にはどういう服が好きかはわからない。好きな服は結構幅が広く、何でも着てみたいという考えが強かったのもある。だから、割と何でも、かっこいいのも可愛いのも好きだ。
 でももし災藤さんが買ってくれるとなると、やはり安い方が良いだろう。ブランド物をまだ来たばかりの私に与えてくれるとなると、申し訳なさが限界突破してしまう。

「シンプルな……えっと、ファストファッション系を」

 だからこうやって、謙虚な姿勢を見せたし、実際お手軽なファストファッションとはいえ使いやすさはブランド物以上にあるのだ。もう少し稼ぎが増えたら自分で欲しい服を買おう。なのに、災藤さんはといえばそんな私の心を見抜いていたかのように、手袋越しに細くて長い指を揃えた綺麗な手で私の髪をさら、と撫でた。

「気なんて遣わなくていいんだよ。好きなものを買ってあげるから」
「……え、そんな。……なんだか過保護、というか」
「ふふ、そうかもしれないね。私はお前たち皆が大切だから」

 やっぱりこの人は、読めない。そのまま指先が髪をすり抜けると、災藤さんは私にまたしても穏やかな笑みを見せてくれ、だから遠慮なんてしないで、と言った。私は少しばかり考えた。それでも、来たばかりの私にそんなに良くしてくれるなんて、と。けれどもしかすると来たばかりだからこそなのかもしれない。けれど、佐疫さんが言っていた。私たち獄卒は同僚で、友達で、兄弟だと。きっと私が生きていた頃のそういった関係より密接なのではないかと、心のどこかに確信もあった。

「……じゃあ、お言葉に甘えて。ありがとう、ございます」
「うん。お前は礼儀正しくていい子だね」

 その災藤さんの言葉が合図のように、スローペースになっていた足を動かす速さが少しだけ上がる。外のことはあまり詳しくないから、そういう解説も聞きながら。

 どうやら獄都は、私たちが今いる場所だけでなく、色々な区分があるらしい。私からすれば少しレトロで古いように思っていたこの街だけれど、少し交通機関などを利用すれば私が生きていた現代や、反対にもっと前の平安など、色々な区域に分かれているそうだった。確かに館の雰囲気はレトロだけれど、中には私が使っていたようなものや流行りのゲーム機なんかも存在していたので、ここでやっと合点がいった。

「私もショッピングが好きでね、よく近未来の方で特務室にお土産を買うんだよ」
「へえ……私も行ってみたいな」
「あとで時間があったら行こう。とりあえず近くから見てみようか」

 そうしてどこに何があるのかもわからないでいる私を、ショッピングが趣味でもはや庭とも言えるであろう災藤さんが連れてきたのは、ショーウィンドウにある木製のマネキンが可愛らしい服を着ていた店だった。襟に花の刺繍が施されたブラウスに、膝丈より少し長いヴァイオレットのスカート。それからフリルが主張しすぎないチェックのワンピース。所謂レトロガーリーだ。

「可愛い……でも、こういうの着たことないです」
「可愛らしいね。きっと飢野によく似合う」

 女の子らしくて可愛いけれど、こういう服ってそこそこ値が張るし、あまり着ないジャンルだ。けれど惹かれるものは確かにあった。災藤さんの館での服装は結構綺麗めなものだった気がするから、女の子の服だとこういったものが好きなのだろうか。

「さあ、入りましょうか。好きなだけ見ていいからね」
「は、はい」

 不思議な緊張が消えることはなく、ギイ、と音を立てた木製のドアに取り付けられた少し錆びた金色をしたベルがちりん、と音を鳴らすと、どこか懐かしい香りとライラックの香りが混ざって、何とも心地良かった。
 獄都という場所に合わせた設計になっているのか、身長が高い災藤さんでも頭をぶつけないほどの入口になっていて、それに続いて私もくぐり抜けた。

「わ、可愛いなあ……」

 背より低いハンガーラックにかけられたブラウスやスカートを手に取って見ていく。でもやっぱり、着たことのないような服を着るのは多少なりとも勇気がいるもので、そっと元あった場所に服を戻す。やっぱりもう少し控えめな服を探そう、とその場から移動しようとしたとき、後ろから純白の手袋に包まれた手が伸びてきた。やっぱり、この落ち着くはずの匂いは私の緊張を煽る。

「こういうのとかが似合うんじゃない?」
「っ、……私には可愛すぎないですか?」
「そう? とりあえず試着だけでもしてみたら?」

 そうして渡されたのは、胸元が編み上げになっているフレアワンピースだ。やはり膝丈より少しばかり長いので、なんとなくではあるが災藤さんの好みが見えてきたような気もする。これを普段着るかと言われるとまあ、勇気はいるけれど、でも生前の私の姿を知る人はきっとここにはいない。新しく始めるという意味でも、案外ありかもしれない。

「じゃあ、着てきます」

 ☓☓☓

「うん、やっぱり思った通り。よく似合うね」

 どういった体勢で向かえば良いのかわからずに、試着室のカーテンを開けたその手のまま災藤さんの方をちらりと見ると、やはり変わらずの穏やかな笑顔を浮かべた顔付近へと手を持っていき、顎に添えた。思ったより似合わないことはなくて、前から薄くでもメイクをしたり髪を整える習慣があって良かった。これがすっぴんならば、似合ってなさが加速していただろうから。

「……似合いますか」
「ええ、とても」

 こうともなれば調子に乗ってしまおうかな。何より私よりも乗り気そうな災藤さんに、私は試着したままの服のまま、ブーツは咄嗟に履きにくいからと試着室付近にあったサンダルを履いて、ショーウィンドウ近くに掛かっている服を手に取って見せた。

「これ、気になってて。着てもいいですか?」
「うん。好きなだけ着なさい」

 値段が張るとか気を遣うとか、そういうことはもうほとんど頭の中から抜け落ちていて、うきうきした気持ちでブラウスとスカートを手に取って試着室へと向かった。足元が軽くて、ふわふわした気分だ。

 当然そちらの服も、災藤さんのみならず店員さんにも褒めちぎられてしまい、面映ゆい気持ちにはなったけれど、案外似合っていたことが救いだった。

「どうする飢野? それにする?」
「あ、どうしよ、えっと、」
「値段なんて気にしないの。飢野はどう?」

 どうするか、と選択権を委ねられた瞬間に頭に浮かんだのは、もちろん値段の方だった。ちら、と見えたタグに書かれていたのがなかなかのお値段で、特に高校のときのバイト代に換算すると、ワンピースとこの上下を買ってしまえば半分ほどになるだろう。けれど災藤さんには、何やら私の頭の中が見えているようだった。ここで買ってもらう代わりに、また稼ぎが増えたら何かお菓子やネクタイでもお返ししよう。

「……これと、これ。買ってほしい、です」
「素直でいい子」

 俯き気味でそう言った私を上向かせるように、またしても髪を軽く撫でるようにした災藤さんの思惑通りか、灰青色の双眸と視線が絡み合った。試着室に掛かった災藤さんが選んでくれたワンピースと私を連れてレジの方に移動した。これまたレトロな木製の可愛らしいレジだ。
 パーマを当てた可愛らしい店員さんから告げられたお値段は、やはり安いものではなかったけれど、何食わぬ顔で支払っている災藤さんがやはり長年過ごしていた貫禄なのか、稼ぎが多い余裕からなのか、申し訳なさと同時にどこか惚れ惚れするものも共存していた。

「これは着て帰る?」
「はい、そうします」
「うん。よく似合ってるね」
「も、そんなに言わなくていいですから」

 何よりタチが悪いのが、この人はしっかり私と目線の高さまで合わせてこういうことを言ってくるところだ。その不思議な魅力を帯びた目が、私が目を逸らすことを許さない。褒められ慣れていない私からすれば、結果的に恥ずかしさが募るだけなのだ。

 ☓☓☓

 その後結局、寝るときの服や部屋着や動きやすい服も必要と思ったので、現代の区域にあるお手頃な値段のファストファッション店にも行ったのだけれど、そこでも災藤さんは私を褒めることをやめなくて、まあ恥ずかしかった。現代へは割とすぐに行けて、機関車に乗って数十分もすればいつか見慣れたような景色が広がっていたのだ。

「いい買い物はできた?」
「はい、災藤さんのおかげです。これから――」

 これから機会があればどんどん着たいです。そう思ったから、それをそのまま口に出そうとしたとき、喉元で何かがつっかえた。声が出そうなところで詰まって、出てこない。
 それと引き換えかのように、頭の中で聞き覚えのある、二度と聞きたくなかった甲高い声が繰り返された。

『何見てんの? ……は、ウケる、それ自分に似合うと思ってんの?』
『キャラじゃないってー! やめときな? 上野にはこっちの方がお似合いだって!』

 ああ、もう嫌だ。何が『新しい私』だ。忘れた頃にこうやって私の中に現れて、逃がしてくれない。私は結局前のままで、生前の呪縛から解き放たれることはない。やっぱり、不釣り合いだ、こういうの。

「あの、やっぱりこの服返品して――」

 足を止めて勢いよく災藤さんの方を向き直って、この私とはとても釣り合わない可愛らしい洋服を返すことを考えた私の言葉を止めたのは、災藤さんの細い人差し指だった。薄い手袋越しの指が私の唇に押し当てられる。ふに、と形が変わる感触がした。

「飢野は気に入らなかった?」
「えっ、と……」
「私はよく似合っていて可愛らしいと思ったけれど。でも飢野の趣味じゃなかったのなら強制はしないよ」

 そうして離された雪のような手袋の指先が薄らとピンク色に色づいていた。あくまで災藤さんは、私の意思を尊重してくれるらしかった。こういうときこそ、私から視線を逸らさずに、真っ直ぐ目の奥を見てくれていた。さっきと状況は何ら変わらないはずなのに、照れ臭さとかはもちろんなかった。

「私、私は、」

 何も言わずに、ただ見てくれている。私は、この服は可愛いと思っているし、気に入っている。災藤さんも店員さんも褒めてくれた。けれど、頭の中で嫌な言葉が反響して、言葉が出てこない。鎖で引っ張られているみたいだ。視線をずらそうとしたとき、やはり災藤さんは私をずっと見ていて、やはりその視線は優しくて、私を勇気づけるようなそれだった。そう、確かに、怯えるものはここにはない。わずかばかり伏せていた睫毛をゆっくりと持ち上げて、災藤さんの鈍い鉛色のような、けれど透明感のある眸を見ると、まるで催眠術か魔法か、そういう類のように、苦しさがなくなっていった。

「私、この服が好きです」
「ええ」
「だから、……これから機会があればたくさん、着たい」
「そうだね。他の子たちにも可愛い飢野の姿をたくさん見せておいで」

 災藤さんは私の髪を撫でるとき、整えてきたのを崩さないように丁寧に撫でる。なんなら、さらにそれを整えるように、丁寧に触って撫でてくれて、心地良くて、初めの緊張の正体は何だったのだろうか。それくらい今は、安心して、信頼できる人だ。

「皆に何か買って帰ろうかな。何がいいと思う?」
「えっと、マカロンとか、……あ、和菓子もいいな」
「ふふ、どちらも私の好きなものだよ。一緒に考えましょうか」

 やっぱり、災藤さんは身長が高いから見上げると首が疲れてくる。そんな私に気がついたのか、少しだけ腰を落として微笑んだ。特務室の皆に対して何が良いのか、と言うよりも、私が今食べたいものの方が近しいけれど、美味しいということには変わりない。すっかりマカロンの口になってしまったけれど、結果的には何になっても満足だ。
 それから、目的地を目指そうと、夕暮れ時の街灯が光る通りを、今度は二人並んで、ぎこちないながらも会話を弾ませながらも足を進めた。


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