01.新たに舞台で踊りましょう

気がついたら暗闇にいた。ああ、暗闇といっても、真っ暗で自身の姿すら見えない、というわけではなく、自分自身の姿だけははっきりと見えていた。陽の光の下で見る姿と何ら遜色はないのだが、私の周りに広がる闇だけが、大きな相違であった。それはとても現実味を帯びていなくて、不思議な感覚だった。

 というか私、死んだのか。

 ひょっとしたら、ビルの屋上から飛び降りたのも、潰れる音やら生温い液体が溢れる感覚も、夢かもしれない。でも夢にしては、そちらは現実味がありすぎた。そうだとすれば、この暗闇に現実味がないことなんて当然で、もしかするとここがあの世なのかもしれない。
 だとすれば、私の望んでいた“死”とは少し違った。私は死んで、自分の姿なんて認識しない、何も残らない、意識を持たない。そういう状況を望んでいた。けれどまあ、誰の邪魔も受けない、誰にも関与されないなら、ここにいるのも悪くないか。
 死んだときと同じ、ブレザーを身にまとった私は、その場に座り込んだ。産まれてから、短い人生の中では訪れることのなかった平穏だ。ここなら、何も聞こえない。何にも、邪魔されない。

「お前」

 突然の目の前からの声に驚いて、膝を抱え込んでいた両手を後ろについた。低く響く声が、確実に私へと降りてきた。何より、とても気配なんてなかった。足音も聞こえない。けれど、声を発した途端に、地面を踏む音が、確かに闇の中に響いた。

 私以外にも、誰かいる。

 ゆっくりと、確かな声の主を見上げると、赤だった。言葉通り、赤い。具体的には、赤いのは声の主の眸である。その人も、私と同じように姿をはっきりと捉えることができる。声が聞こえるまでは、決して見えなかったのに。
 その姿は、とにかく大きい。私が今座っているからなのかもしれないけれど、そうだとしても、軽く二メートルほどありそうだ。肌の色は、どちらかといえば褐色であるが、その中でもどこか人間離れした血色の悪さをしている。それだけでも特徴的な外見であるが、その上で制服らしきものを着ていて、それを覆うロングコートは赤色と並ぶ大きな特徴になった。
 目の前の大きな人は、座り込んで動こうともしない私に手を差し出すわけでもなく、ただ私を見下ろしていたので、薄気味悪く、けれど不思議と嫌というわけではなかった。

「誰、ですか?」

 嫌というわけではないが、だからといって私が座って、大きな赤い人が立って、それだけでは何も進まないし、きっとこの人だって私に何か用があって声をかけてきたのだろう。居心地の悪くない私だけだと思っていた空間に来たこの人も、私と同じで死んでいるのか、それとも異界の何かか。底気味の悪さからするに、後者の方がすわりが良かった。
 すると大きな人は、顔に似合わずご丁寧に私の目の前で屈んで、視線を合わせてくれた。吸い込まれそうになる、人間離れした赤に一瞬身を引いたけれど、それを表情になるべく出さないよう、唾を飲み込むだけで我慢をした。

「私は肋角。あの世で獄卒をしている者だ」
「獄卒……あの世?」

 獄卒というのは、幼い頃に話を聞いたことがある。絵本で読んだことがある。地獄で亡者を取り扱う鬼、と記憶している。となれば、目の前にいる大きい人は人間や私と同じ亡者ではなくて鬼で、そして私を取り締まるためにやってきたのだろうか。それだと合点がいく。私の望んだ形でないにしろ、もし地獄ならば何回でも死ぬことができるし、転生するならば、きっと私が送ったものより良い人生だろう。普通ならば信じられない状況も、死んでしまったと確信できる今なら、信じるには十分だった。
 その肋角さん、とやらは私に干渉してこなかったが、とうとう私に手を差し伸べてきた。同じ目線なので、今しがたよりは威圧感がなかった。干渉された、私だけの世界に邪魔された、なんてところではあるけれど、きっと私はこれから裁きを受けて、地獄か転生か、はたまた極楽かに進むのだから、嫌な気分はまたしてもなかった。
 差し伸べられた手を取ると、腰を上げて、肋角さんより先に立ち上がった。それにまあ、長い付き合いになるか短い付き合いになるか――望みは後者であるが、お世話になることにはきっと変わりないので、私も口を開いた。

「上野。上野です」
「そうか、上野か」

 肋角さんもまた、紳士のように跪いていた体勢を持ち上げると、自然と私から手を離した。死んだ私と、鬼の肋角さん。どちらも人間ではないから、体温なんてものは伝わってこなかった。余韻も、もちろんなかった。
 お互いに目を合わせた私たち二人は、自ずと足が向かう闇の奥へと歩いていった。

 ☓☓☓

「はあ、……獄卒?」
「ああ、そうだ」

 闇を抜けると、街が広がっていた。振り向いてみても、先程までいた闇なんて跡形もなくなっていた。ここはどこかと尋ねれば、『獄都』というらしかった。日本の現世でいうところの東京都とか、県庁所在地とか、そういった類のものだろうか。
 辺りを見回すと、お化け屋敷や絵本の中で見たような、ろくろ首やら河童なんかが、当たり前のように歩いている。かと思えば私や肋角さんみたいな人型の、しかしここに存在しているということはこの世のものではない妖怪や亡霊、鬼が生活していた。
 私が驚いたのは他でもない、肋角さんから告げられたのは、私がまったく予想も期待もしていなかった言葉だったからだ。

「上野に獄卒という職務を与えたい」

 聞き返した私に、これまた丁寧に、もう一度同じ文言を口にした。肋角さんは喫煙者らしく、私にかからないように、煙を燻らせながら、決して楽観的とはいえない面持ちで告げた。人間以外も喫煙するんだ、なんて感心している場合ではなく、目の前に突きつけられた提案に思考を巡らせた。私が、獄卒。輪廻転生だとか、裁きを受けて地獄に落ちるだとか、そうでなくて、

獄都ここで、生きろってことですか?」
「そういうことになる」

 まあ無理強いはしないがな、と付け加えると、またしても紫色の不思議な煙の出る喫煙具を吹かした。
 つまり、整理すると。最初にいた暗闇で一生独りで過ごすわけでもなく、まず前提としてあの暗闇はこの世からあの世への通過点だった。それから、獄都で閻魔様か何かに裁きを受けるわけでもなくて、ここで生きる。けれど、おかしい。そうだとするならば、私が獄卒として選ばれた理由がわからない。

「私、今から裁きを受けたりするんじゃ?」
「本来ならそうなのだが、お前の場合は少し例外だ」
「例外……」

 詳しくは言えないそうであるが、どうやら他の獄卒たちも、私のように何か理由があって肋角さんに選ばれた者たちだそうだ。どうやら私の生前の行いや境遇からの提案らしく、先程も言われた通り、強制でなければ、拒否ができる。だから、

「私、……」

 拒否しようと思った。与えられようとしている職務を、拒否しようと思ったけれど、よく考えたら、よく考えなくても――拒否する理由、ある? だって、もう私は死んでしまって、姿はそのままといえど、これは違う私だ。新しい人生を、送れるんじゃないかって。
 喉から出そうになっていた言葉をぐっと飲み込むと、椅子に座っていた赤色と目が合った。癖の強い煙の匂いが鼻腔に広がる。
 そう、これは私じゃない、違う私。

「私に獄卒、やらせてください」
「ああ。もちろん歓迎しよう」

 こうして、私じゃない“私”の、新しい人生が幕を開けようとしていた。



 話が終わってから支給されたのは、獄卒でお揃いらしいカーキ色をした制服だった。それから、三階にあるらしい自室の鍵。それから――

『今日からこれが君の名前だ』

 部屋の前に取り付けるプレートには、『飢野』と書かれていた。ああ、本当に、私じゃない“私”だ。


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