07.朝凪はすぐに波紋を呼ぶ

ここ最近は平和が続いている。任務だって、大きな苦労はないし、他の獄卒たちの働きもあってかなりスムーズだ。もちろん気分屋ややる気次第の人もいたりするが、逆に言うとそのおかげで私の経験値が上がっていたりもする。狙撃の腕にもなかなか自信が持てるようになってきた具合だ。
 今日は特に事前に知らされた閻魔庁からの任務もなく、昼食を食べてから自室でゆっくりと読書をしていたら、部屋の扉が三回ノックされた。

「はい」
「飢野? 佐疫です。開けてもいいかな」

 礼儀正しい佐疫さんは、こうして名乗って断りを入れながら入ってくれる。まあ、大抵の人はそうで、いきなり予告なしに入ってくるのは平腹さんくらいだが。おかげで通りがかりのあやこさんの後頭部に怒られているのをよく目にする。
 佐疫さんが来たのは、おそらく何か業務連絡だろう。それをわざわざ私の部屋まで来てくれて、それに休みにもかかわらずこうして働いている佐疫さんにダラダラしている様を見せるわけにはいかないから、もちろん私から扉を開けた。

「何か、ありました?」
「これなんだけど」

 部屋の外から、私が扉に向かうまでの忙しない音が聞こえていたのであろう佐疫さんは、私の姿を見て、笑いながら、ありがとう、と言ってから、私に数枚の資料を渡してくれた。待たせるわけにいかない、と急いで出てきたのがバレていてしまって、恥ずかしい思いに駆られながらそれを受け取る。どうやら任務が舞い込んだらしい。

「今日は斬島と一緒らしいね。時間になったら肋角さんのところに行っておいで」
「あ、わざわざありがとうございます」
「どういたしまして。今日任務に当たってるのは二人だけみたいだから、厳しそうなら遠慮なく呼んでよ」

 それだけ言うと、私の部屋をちら、と見て、読書の邪魔をしたかな、と言うと、そのまま去っていった。手元には他にもたくさんの資料を持っていたし、佐疫さんってやはり忙しいな、などと思う。それにしても、今日任務があるのは私と斬島さんだけだなんて、随分平和なものだ。平和が一番なことには変わりないし、休暇ももちろん必要だが。
 佐疫さんの後ろ姿が完全に見えなくなるのを確認すると、部屋の扉を閉めて、時間まで読書に没頭していた。

 それから数時間後、一冊を読み終えると同時に、本来とは違う用途での目覚ましが部屋に鳴り響くと、それを止めて、本を閉じて机に置くと、部屋から出た。

「来たか、二人とも」
「はい!」

 日が沈む頃、私と斬島さんは肋角さんのもとに集まった。資料で大半はやることを把握しているが、それでももちろんこうして集まることになっている。今回の任務の舞台は廃校で、高校生の亡者が彷徨っているらしい。今回の任務ではそれ以上の詳細が記載しているわけではなく、肋角さんから伝えられるわけでもなかった。

「何、そう厳しい任務ではないが、困ったら非番のやつらを呼ぶと良いだろう」
「はい!」

 やはり肋角さんは煙管が一番似合う。今日は葉巻でも紙巻き煙草でもなく、煙管で毒々しい紫煙を漂わせていた肋角さんは、私たちに、行ってこい、とだけ言うと、夕暮れを見ながら煙を吐き出した。それを確認した私と斬島さんは、目で合図をすると、廃校へと向かった。

 ☓☓☓

 この時間にもなると、この世でも肌寒いものだ。しかし前に一度外套を着てみたとき、着れば暑く脱げば少し物足りない、のような状態だったので、上手く言い換えれば涼しい、今までと変わらない服装を選んだのだ。もっと冷え込む時期になればまた考えよう。
 到着した場所は、廃校と言うにはまだ新しかった。つい最近までは誰かがいたような、面影を感じる。塗装もそこまで剥がれていなくて、私が生前通っていた学校よりも綺麗だ。――って、

「? どうした」
「な、何でもないです」

 生前というワードが頭によぎった瞬間に、自分自身を叱りつけるように頬を両手で挟むように叩けば、斬島さんが驚いたようにこちらを見た。驚き方が割と、表情は変わらずの真顔だが、肩が跳ねるような感じだった。そういえば斬島さんも、思ってるよりも固くなくて、というより無意識か、軽い天然が入っているような感じだ。ここに来てから怖いと思った獄卒は、皆思っている感じと違って、怖くない。

「そろそろ行くか」
「は、はい」
「早く片付けて帰ろう。腹が減っている」
「ふふ、そうですね」

 軽く食べてきたのに、特に斬島さんなんて結構食べていたのにこれだなんて、相変わらずだ。いつ任務に行ってもお腹を空かせている気がする。しかしまあ、近くにコンビニがあったはずだし、もし斬島さんが倒れることにでもなったら買いに行こう。この際人の姿というのはメリットである。この格好で人間のいる場所に干渉するのは気が引けるものもあるが。
 そして、また目で合図を送り合うと、校舎へと足を踏み入れた。

 まだ新しいおかげで、一応照明は生きているみたいだった。廃れたはずの学校の明かりがこの時間についているともなってしまえば、外にいる人間たちは怖くて仕方ないだろう。害のない人間を怖がらせるのはいけない、と災藤さんに教えてもらったことがあるので、やはり長居はせずに早く片付けてしまおう。ちかちか、という擬音が相応しく、明かりはつくものの、やはり不安定であった。

「手分けするか」
「そうですね、そうしましょう」
「ああ。俺は一階を探す。飢野は二階を頼んだ」

 こうした広い場所だと、やはり経験上固まって動くのはあまり効率が良くない。もう少し人数がいれば良かったのだが、そうだとしてもある程度経験を積んだ今だと、二手に分かれる方が圧倒的に任務の進みが早いだろう。

 斬島さんと分かれると、手当り次第、まずは教室から潰していくことにした。経験を積んだと言えど、まだまだそれは他の人たちに比べると浅い。だから、どのあたりに亡者がいそうだとか、そういうことはわからなかった。それにしても、今日の任務は怪異や得体の知れない生物がいないのを見ると、どうやら本当に厳しい任務ではないらしい。学校となると思い出すことも多いが、ここには生きた人間はいない。だから、気持ちも随分楽だ。
 教室を端から探索してみるが、特にこれといったものはなかった。さぞ愛された学校だったのだろう。黒板に寄せ書きがしてある教室があった。これを残した生徒たちにとっては、この学校がもしなくなる日が来たならば、どれほど悲しいのか。私にはわかりもしないし、知らなくても良い。

 教室をひと通り探索すると、トイレに向かった。地図や案内がなくともわかりやすい配置で、非常に助かる。獄卒になってから、未だに男子トイレに入るのは気が引ける。逆に他の人たちがずかずかと女子トイレに入るのを初めて見たときは、本当に驚いた。元が人間でないからこそできることなのかもしれないが、もし仮に誰か入っていようものなら大絶叫である。入っている者の立場で考えると、だ。

「し、失礼しま〜す……」

 ドアがぎい、と音を立てて開くのは、私がゆっくりと押し開けているのが要因として大きいだろう。男子トイレはまだ清潔を保っているものの、消臭剤はとうに切れていて、それは意味を成していなかった。まあ、前に任務で行った廃校よりは全体的に綺麗なため、あまり気にならないのだが。

 何も異常なさそうなのを確認すると、隣に並ぶ女子トイレにも入った。こちらは、先程と違い、堂々とした動きでドアを開ける。一帯を見回すと、こちらも特に何もなさそうだ。そう思って再びドアに手をかけ、

 ――ほんとうざいんだけど。
 ――ああいう子ほんっと嫌いだわ。男子に色目使ってさあ。

 この校舎の記憶だろうか。知らない女子生徒の声が、頭に流れ込んできた。嫌な感じがする。つい、顔が歪む感覚がしたのは、その嫌な感じからだ。怪異や亡者の気配から来る嫌な感じとは違う、文字通り、嫌な感じだ。
 早くここから出よう。一刻も早く、ここから出よう。すぐさまドアを引くと、逃げるように早足でその場から去った。

 ☓☓☓

 それはそうとして、見つからない。亡者の姿どころか、気配もまるで感じない。この雰囲気は、三階か屋上だろう。もしかすると一階で何か発見があったかもしれない。一度斬島さんと合流して、進捗を聞いてから、もしまだ見当がつかないようなら、一緒に三階へ向かおう。

 そうして人気ひとけの少ない、これまたあまり良い気持ちを抱かない階段に近づいたと同時に、鈍痛。頭に鈍痛が走った。谷裂さんに金棒で殴られたような、そんな鈍痛。けれど、外傷というよりは、内側だ。その痛みが思った以上に大きくて、ついその場に倒れてしまう。まただ。また、記憶だ。校舎の記憶? それとも、私の記憶?

 ――いい加減にしろよ!
 ――このこと先生に言ってやってもいいんだよ?

 違う。酷似しているけれど、これは私の記憶じゃない。今度は声だけでなく、私の目の前にある階段と同じ風景が脳裏を駆けた。私じゃない、この校舎の記憶だ。するとまた、頭の痛みが増す。苦しさから、声が抑えきれなくて、呻き声が口から零れる。ああ、これは起き上がれないやつだ。制帽の上から、頭を押さえ込んでいると、聞き馴染みのある声が、流れ込む記憶と共に混入してきた。

「――! 飢野!」
「……ぁ、斬島、さん……?」

 きっと、そうだ。薄目を開けても姿は確かに捕えられないけれど、ここに一緒に来たのは斬島さんしかいない。その安心できる声を聞いたとき、痛みは確かに和らいでいき、はっきりと像を結んだ先にいたのは、青い眸をした斬島さんだった。斬島さんは私の前に立膝をつくと、私を起こして肩に手を置いた。嫌悪感はもちろんなかった。

「何かあったのか?」
「えっと……いきなり頭が痛くなって……」

 というものの、随分その痛みは引いていた。余韻が少し残っているが、気にならない程度だ。しかし未だ手を額に当てる私を見て、斬島さんが口を開いた。

「もし気分が悪いなら館に戻っても構わん。亡者はしっかりと冥府に送るから安心していい」
「いえ、もう大丈夫です! きっと、一過性のものだから……」
「そうか、無理はするな」

 偏頭痛か? と言った斬島さんは、私を起こすと探索の報告をしてくれた。やはり一階も特に発見はなかったらしく、綺麗な校舎であることの感動を添えた報告が返ってきた。真面目だが、やはりどこかずれている気がする。割と不意な天然発言がツボにはまってしまったりもするのだ。それに案外、今は助けられる。

 斬島さんの後ろに着くように、三階への階段を上る。地味に斬島さんのカナキリが、鞘があるにしろ私に刺さってしまいそうだったので、そっと反対側に着いた。

「そういえばこの間平腹や谷裂と任務に当たってな」
「? ええ」

 まさか斬島さんから雑談を持ちかけてくるなんて思わなくて、一瞬困惑を見せてしまったが、それを気にせずに斬島さんは話を続ける。

「二人とも飢野のことを褒めていたぞ。狙撃の腕ももちろんだが、一生懸命だとか、良いやつだとかでもな」
「え、ええっ!?」

 珍しいくらいに大きな声で驚いてみせたのは、褒められていた、という事実からである。自分のいないところで褒めてくれるなんてあまり経験したことがないし、お世辞かと思ったが、斬島さんは正直な性格だからきっと本当の話だ。自分のいないところで自分の話が出て、さらにそれが褒め言葉ともなると、こんなにも嬉しいものなのか。

「他のやつらも褒めていたな。ああ、ただ田噛だけは飢野のことを変なやつだとは言っていた」
「う、うわあ……」
「大丈夫だ、田噛なりの褒め言葉だろう」

 急に喜んで良いのか悪いのか微妙な線が出てきた。ああ、田噛さんが私のことを変って言っているのが容易に想像できる。こればかりは褒め言葉とは捉えにくい。しかし、うざいだのだるいだの言われるよりはまあ、多少は褒め言葉なのかもしれない、なんて、ポジティブに捉えてみたりもしよう。

 ☓☓☓

 他愛もない会話をしながら、先程までのことはすっかり忘れたまま、三階の教室を端から端まで調べていった。何もないですね、なんていうのを定期的に挟みつつ、雑談だ。しかし、一番突き当たりの教室の戸に手をかけたとき、明らかに気配が変わった。
 間違いない、ここだ。この中に猛者がいるに違いない。慣れてきたと言えど、気を抜くのはご法度。息を軽く吸って、斬島さんと目を見合せて、二人いるから大丈夫。がら、と音を立て、ドアを引いて、教室の中へと入った。

「……いた」
「お前が亡者だな。俺は獄卒だ。お前を冥府へと送り届けるために来た」

 窓の外を見つめていた、そこにいたのは、セーラー服に身を包んだ、まだ十六そこらであろう少女だった。ここが廃校になってからも、きっとそれより前から数年間ここを彷徨っていたのだろう。一見大人しそうに見えるが、確かこの子は、人を殺めている。廃校になってもなおこの校舎に近づく人を、殺めている。ただの八つ当たりなんかじゃなくてきっと、特定の誰かを狙っている。だって、生きて帰った人だって何人も、何十人もいたからだ。

「そう……もう、行かなくてはいけないんですね」
「ああ。お前は閻魔様によって裁きを受けなければならない」

 どこかで見たことがある。この子は、先程の記憶の子だ。こちらを振り向いた前髪が目にかかった黒髪の彼女の顔には、ああ、痣がある。先程の記憶とリンクする。大方の予想はとっくについていたけれど、この子はいじめられてて、きっと仕返しに――

「わかりました。私、裁きを受けます」
「物わかりが良くて助かる」

 斬島さんの言う通り、ここまで物わかりが良い亡者は初めて見る。大抵あっさり受け入れるときは、まだ亡者の心が蝕まれていないときで、佐疫さんや木舌さん、なんだかんだで田噛さんが絆しているときだけだった。
 ああ、余計なことを思い出さずに帰れる。

 すると、そう思ったのがまずかったのだろうか。亡者がかたちを変えて、その場で静かに消える際に、先程よりも何倍、何十倍も鮮明に、記憶が頭に流れ込んできた。苦しい記憶と、それと同時に、幸せな記憶だ。喜ばしいはずなのに、私にはそれが息苦しくて息苦しくて、頭に、全身に、痛みが駆けていった。

「う、ぅあ、……」
「飢野? 飢野!」

 これは、誰の記憶? 私? あの子?
 私の記憶じゃない。私の記憶にない。じゃあ、あの子の記憶だ。あの子の記憶が私の中に飛び込んできたんだ。この苦しさは、何? 幸せそうなあの子の表情が、微笑ましいはずなのに、どうして?

 私って、生きてて幸せなことなんてあったっけ。

 斬島さんが私の名前を呼ぶのも、私の身体を揺するのも、今は不快だった。不快で不快で仕方ないから、この状況から早く逃げたい一心で、意図的に意識を宙に放り投げた。

 ☓☓☓

 目が覚めると、自分の部屋にいた。このどこか癖の強い秒針の音と、布団に染み付いた安心できる匂いと、少し色褪せたタンス。うん、自分の部屋だ。
 起き上がると同時に、まだ頭に残る痛みに、その部分を手で押さえる。もちろん無駄なことだった。どこが痛いだとかは、明確にはわからないのだから。

 鳥の声が、煩わしい。秒針の音も、衣擦れの音も、邪魔で邪魔で仕方ない。自分の息遣いすらも、妨げになっていた。ああ、誰とも極力会いたくないな。というか、頭が痛い。ここにいるのも面倒だ。
 誰かが運んでくれたのだろう。制服のまま布団に入っていた私は、腿の部分の違和感に起き上がった。紛れもない、拳銃だ。

 私とあの子って、何が違うんだろう。どうしてあの子はここに来なくて、私は獄卒として拾われたのだろう。私とあの子は、何が違う?

 何が違うなんて、自分にいくら問いかけても、とっくにわかっていた。わかりきっていた。ここにいるのが煩わしくなった。

「今なら、もしかしたら」

 ありえないなんてわかっている。空想だって、思い込みだってわかっているけれど、死にたかった。死にたくて死にたくて仕方なかった。深く考えなくてもいい。そう思っていたし、実際そうだった。楽しかった。
 けれど、過去は消えてくれない。私の中に存在し続ける。こんなに苦しい思いをまた、これからもするのなら、やっぱり私は。

 頭に銃弾を撃ち込んで、その音のせいで誰かがこちらに来るような、廊下を走る音が聞こえたから、ああ、まだ意識がある。撃ったところが悪かったんだ。だから、確実にもう一発。震える手で、左胸を、前の訓練で佐疫さんに撃たれたのと同じところを撃ち込むと、今度こそ、確実に、意識がなくなった。


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