ぺトリコール・レコード

 随分と席が離れた。真ん中の列のさらに真ん中と、一番右の一番前。後ろの窓から風が送り込まれ、安っぽい風船みたいにカーテンが膨れ上がる。二学期になってもなお、『放課後ボヨヨンアワー』の新曲が流れている。お昼時にまったく似合わない、禍々しい音楽だ。

「次移動だよね」
「うわ、だる。金工室遠いんだよな」

 カチャリ、お箸を片づける音。教卓に置かれたコンテナに、通りすがったついでのように青い牛乳パックが置かれていく。給食のおばちゃん泣かせだな、と思いながら、私も自身のそれには手をつけていない。
 一番右の一番前の席。手入れされていない黒髪は、癖があるようにも見える。彼の机にはもう食器やお箸は置いていなくて、ノートが一冊。何やら必死に、後ろ姿からもわかるくらい楽しそうに、シャーペンを走らせている。それを眺めながら、スープを口の中に流し込んだ。

「――な、名前」
「ん? なに?」
「聞いてなかったのかよ」

 通路を挟んだ左側の席の天宮に、突然話題を振られるけれど、席が離れて話す回数が減ってしまった彼のことを見ていたから、もちろん聞いていたはずがない。それに天宮の話は大体が隣のクラスの仲良くもない男子の話だ。

「ごめんごめん、この曲に聞き入ってた」
「ふーん……てか名前は夏休み何してた?」
「突然だね。部活か家にいるかだった。たまーにアマゾネスとゆっちと遊んだ。だよね?」

 夏休みが明けてもう二週間は経過していて、中弛みの時期かつ文化祭が差し迫っているというのに、今更夏休みの話だなんて変な人だ。聞き入るほど魅力はないのに、想像のつかないこのバンドの他の曲も聞きたいと思うあたり、アマゾネスの言っていた「二年以内にくる」は本当なのだろう。天宮の話が耳に入らなかった真の理由は、遠くはないが近くはない席の彼のせいであるけれど。アマゾネスとゆっちに顔を向けて確認すると、二人とも遠くの席から「そうだよー!」と元気に返事をした。

「夏祭りには来てねぇんだよな?」
「あー……用事だって言ったじゃん。ごめんちょっと返してくるわ」

 天宮の口から出た「夏祭り」というワードについ右斜め前に目を向けると、彼のシャーペンを動かす右手が止まっていた。こちらを向くことはないけれど、そのまま動かなくなって、数秒後にぎこちなく右手を動かし始めた。
 これ以上この話題を広げられて、ボロが出ると困る。もし「お前のことを見かけた気がする」なんて言われても、「人違いでしょ」と笑えばいいのだけれど。この話はここで打ち止め、とやんわり伝えるように、空になった食器とストローすら挿さっていない牛乳を載せたプレートを持った。

「あげる」
「は?」

 教室の前にプレートを返すついでに、左右田くんの机に牛乳を置いた。決して彼をコンテナ扱いしているわけではない。コーラが好きな彼の健康を気遣っているのだ。彼がシャーペンを握ったまま、驚いたように私を見上げたので、その表情にぷくく、と抑えきれなかった笑いが漏れる。

「それ飲んで背大きくするんだよ〜」
「もうオメーより高ぇし。つーか飲まねぇと骨折れやすくなんぞ」
「保健医かよ」

 左右田くんが私の分まで骨強くしてくださーい、と言うと、彼は渋々ストローを挿した。そして新しい案を考えるように牛乳を飲んでは、またシャーペンを走らせた。隠すことをしなかったそのノートの中身は、想像通りのものだった。またしても、頬がゆるんだ。

「早く高校生になりたい」
「うえ、受験したくね〜」

 席に戻って何気なくぼやいた言葉に、友人たちが舌を出した。

 ⊗⊗⊗

 紙と芯の擦れる音がする。黄色と白の粉が舞うと、制服がその色に汚れて、誤魔化すように手で払った。教壇を拭いたときの膝の汚れも、同じようにした。明日の日付を書くと、そこの部分だけ少し黄色くなっているのがわかる。日直の欄には、ランダムで決まった明日の日直の二人の苗字を書いた。本来ならここにいるのは私じゃなかったのに、と四時三十分になりそうな時計を見た。

「なんで苗字がいんだ?」
「ゆっちの代わり。どうしても部活休めなかったんだって。私も今日は休みだし」
「あー、なんかこれ以上休んだら外周とか言ってたな。運動部だっけか?」
「美術部だよー」

 私が日誌を書くことはできないし、ゆっちも嫌だったようで、今日一日の彼女と同じように黒板係に徹している。彼はなんとかして『今日の出来事』欄を埋めようと、強い筆圧でシャーペンを走らせている。芯が折れるのは二度目だった。

「あとは久しぶりに左右田くんと二人で話せるからね」

 彼の隣の席の椅子を下ろす。左右田くんの右手が一瞬だけ止まって、前髪の奥から私を盗み見ている。それに気がつかないふりをして、彼の書く日誌に視線を落とした。

「一番前の席なのに今日のクラスの様子とかわかんないよね」
「まあいつもと変わらずって感じで書いた」
「体育頑張ってましたって書いとこ」

 残り二行をどうするかとシャーペンを揺らす左右田くんに横からのアドバイス。絵でも描いて埋めればいいのに、と思いつつも、彼のことだからそうはいかないだろうと、私にしてはまともな助言。再び彼の右手が動き出すのをじっと見ていると、そんなに見るなと空いている左手で隠された。

 職員室前の集配棚に学級日誌を返すと、いつもと同じように、二人で肩を並べて決して広くはない通学路を歩く。朝は別々の時間帯だし、こうして帰れるのも、運が良くて週に二回。帰る時間が被るとわかったときは、その瞬間から楽しくて仕方がない。そんな気分と見合わず、空には今にも降り出しそうなどんよりとした雲が浮かんでいる。運動部の一年生の元気な声が聞こえてきた。

「苗字ってヘルメット被ってんのか?」
「んー? ノーヘル」
「だよな。……の割には持ってきてんだな」
「生徒指導の先生がたまーに立ってるじゃん。あのとき被るからね」

 ハンドルにかかったヘルメットを見ながら言うものだから、内心は今更かよ、と思った。ヘルメットに拒否感があるわけじゃなくて、髪型が崩れるから被らない、というだけだ。左右田くんが自転車通学だったら絶対に被るんだろうな、と思うと、その姿が安易に頭に浮かんだ。
 いつも通りの橋を渡る。川がいつもより激しく波打っている。遠くに見える山に目を向けると、分厚い雲が広がっていた。降りそうだね、と言っていると、間もなく頬に冷たい感覚が伝わってきて――

「うわ、降ってきた」
「マジか、マジだ」
「今日レインコート持ってないんだよね。五時から雨予報だったから耐えかと思って」
「五時からだったら持ってこいよ!」
「そういう左右田くんも傘持ってないじゃん。お互い様!」

 ギリギリ家まで持つだろうか、と顔を見合わせたのもつかの間、すぐさま激しい雨が地面を叩きつける。冷たい、というより、痛いが勝つような雨だ。うわ、とお互いに声を漏らして、自転車を押しながらもやや走り気味になった。蛇口を捻ったみたいな雨の隙間に彼の姿を捉えると、覆えるはずがないのに、手を傘のようにして私を見た。

「とりあえず屋根あるところまで走る?」
「とりあえず、だな」
「私自転車乗るから頑張って着いてきてよ」

 雨が私たちを包囲する。自転車に跨って斜め後ろを見ると、左右田くんがこくんと頷いたので、親指を立ててから立ち漕ぎを始めた。絶え間なく降り注ぐそれは、シャワーだなんてかわいらしいものではなく、しかしプールに入る前に浴びるシャワーだといわれれば、その通りだと思った。
 三分ほど自転車を漕ぐと、いつもシャッターが閉まっている、もう閉店したのかもしれない店の屋根に入った。シャッターギリギリまで寄らなければ濡れてしまうほどのオーニング。しかしシャッターにもたれて背中に変な粉やらがつかないようにした。先程まで水気なんて知らなかったコンクリートが水溜まりを作り、私たちの姿を反射している。

「ふう……これ通り雨かな? 止むかな?」
「あ、ああ……」
「って、通り雨なわけないよね。予報で明け方までって言ってたし」
「だな……」

 前髪から雫が落ちる。ワイシャツが肌に張り付いて気持ち悪い。一度シャツを摘んでみて、また離せば肌にじっとりまとわりついた。気持ち悪いのに、どこか癖になる。数分前の三倍は重くなったスカート。そちらも太腿に張り付いて、裾を絞るようにしてみるけれど、そんなに水分は含んでいないらしく水は一滴も落ちなかった。
 激しく地面を打ちつける雨をぼんやりと捉えながらも隣にいる彼に会話を振るけれど、どうしたのか煮え切らない返事。不自然だとそっと視線を移せば、左右田くんがちらり、ちらり、と私を見ては逸らして、見ては逸らして、その繰り返しをしていた。彼のワイシャツも私と同じように張り付いていて、肌色が透けている。私からはわからないけれど、きっと、私も同じようにそうなのだろう。

「……見ないでよ、えっち」
「見て……! なくはないけど…………ごめんなさい」
「素直に言われると恥ずいな。私も左右田くんの見るからおあいこで」

 頬がわかりやすく赤く染まる左右田くんは、なんだよそれ、と言いながらボタンを一つ開けた。黒髪の先から、雫が絶えることなく落ちる。眼鏡が濡れて、水でさらにレンズの奥がぼやけている。
 何分間ここに留まっていたのだろうか。ほんの少し、雲の色が薄まった。雨足が弱くなってきたような気がする。

「こっから私の家近いからちょっと上がりなよ。傘貸すし。今日体育あって良かったね。ついでに着替えていいよ」
「えっ。いいのか?」
「モチのロン助〜」
「悪い、助かる」
「いーえ。靴下とパンツは我慢してね」
「パンツまで濡れてねーよ!」

 家が近いのは、左右田くんの家に比べれば。しかし、雨も弱まったし、なるべく早く着替えたいだろう、とま顔を見合わせた。目的地が決まれば、あとは走るだけ。手汗か雨かわからないもので湿ったハンドルを握ればそれが合図。ペダルを踏み込むと、少し遅れて水がはねる音が聞こえた。

 ⊗⊗⊗

「ただいまぁ」
「……お邪魔します」
「はーい」

 おばあちゃんはいるだろうか。共働きの我が家のこの時間帯はいつだって静かだ。扉を閉めると、独特の鼻につく匂いが消えた。襖の奥に見える座卓に、乱雑に本が散っているのは見つけないでほしい。左右田くんを玄関に置いたまま、ぐじゅ、とまたしても気持ち悪い音を立ててローファーを脱ぐと、靴下も一緒に脱いだ。

「ちょっと待っててね、タオル取ってくる」
「サンキュ」
「ん!」

 床に忙しなく、ペタペタという音を立てながら足跡をつける。あとで拭かなきゃな、と思いながらも脱衣所に置いてあったバスタオルを適当に二枚取って、恥ずかしくないようにフローラルな柔軟剤の香りが漂っているのを確認した。

「はいどーぞ。私あっちで着替えてくるし……ここタオル敷いとくからなんか気合いで頑張って」
「ああ。サンキューな」
「どいたま〜」

 洗濯機に諸々を放り込んだりスカートを干したりすると、バスタオルで身体を拭いた。スクールバッグを開けて体操服を取り出して、濡れたノートを見て現実逃避をするように目を逸らす。左右田くんのサービスシーンに遭遇しないように、ゆっくりめに着替えて、しかし我慢できずに手早く着替えて、脱衣所を出た。まだ少し、足の裏が湿っている。

「開けていい? 開けるよ〜」

 時間稼ぎと、真正面から着替えシーンに出遭ってしまわないように少し遠回りして、既に半開きの襖を許可なく開けると、お揃いの体操服に身を包んだ左右田くんがその場でしゃがみこんでいた。

「ん?」
「……ああ、苗字」

 ぴょん、と框から土間へと下りて、サンダルを履くと左右田くんの隣に腰を下ろす。左右田くんがその体勢のままわずかに身を引いた。何をしていたのかと眉をひそめると、視線の先には丁度大きな機械があった。ああ、と声を出すと、左右田くんが口をもごもごと動かす。

「いや……前によ、精米機の調子が悪いとか言ってたから見ようかと思ってだな」
「うずうずしてんだ?」
「そういうわけじゃ――」
「うん、まだ直ってないの。見て見て。あ、でもうち工具箱とかあったかな……」

 機械が好きなのはもう私には割れてるんだから、そう隠さなくても良いのに。業務用の少し大きい精米機をじっと見つめる左右田くんのために、工具箱があったかも、とそれを探しに小屋へ行こうとする私の手首を、覚えのない体温が包んだ。左右田くんの私より大きな手が、私の手首を掴んでいる。予想外に固まってしまうと、もう空いている手が彼のスクールバッグを探った。
 カチャカチャと音を鳴らし始めてから三秒、その手に渡ったものを見て目を見開いた。

「ええっ! 持ち歩いてんの!?」
「……んだよ。引いたか?」
「いや、めっちゃ感心してる」

 彼の手には、筆箱や彫刻刀ケースとほとんど大きさが変わらないプラスチック製の箱が出てきて、見た目だけで工具セットだとわかる。スタイリッシュに開いたそれからは、ドライバーやペンチなどが顔を覗かせた。それだけで直るのかと訊ねれば、一度精米機のスイッチを押した。音だけで、おおよそどこが悪いのかがわかるらしいのだ。はあ、と感嘆の声が漏れる。

「お金払った方がいい?」
「学生同士のコミュニケーションに金はいらねぇだろ。……オメーには世話になってるし」
「優しいよね。私だったらお金貰ってるよ」

 待ちきれないといった表情で、口角を上げながら、ドライバーを回した。そして機械の音を聞きながら、私の声にも耳を傾けると、機械か、私か、どちらに不調があったのか顔を顰めた。おそらく機械の不調だろう、と手元を覗き込むと、至近距離で彼との目が合った。わずが十センチ、目と鼻の先。息を呑んだ。彼は一度口を開きかけて、きゅっと結んでから、目を手元に逸らした。

「いや、オメーも金はとらねぇだろ」
「そう見える?」
「おう」

 左右田くんの目に映る私は、そこまで良心的な人間らしい。意外だ、と言いながらその場に座り込んだ。濡れているし、普段下靴で歩いている地面だけれど、自分の家なのと、体操服だからという安心感によるものだ。彼は私の怠惰な様子をチラ見しては手元を見て、「これくらいならすぐ直る」と違う工具を取り出した。
 機械の電源を落とすと、雨の音がより大きく聞こえる。左右田くんも足が疲れたのか、その場にあぐらをかいた。靴下は脱いだらしく、そのまま履いたスニーカーに足が臭くなるな、とぼんやり考える。アイボリーのバスタオルが水を吸って、泥で汚れて、無造作に敷かれている。皺が濃く寄っている。
 ガチャガチャという工具の音、雨が少し強まる音、隙間風から揺れる障子。そこに新たな音を生み出したのは、左右田くんだった。

「あっちによ」
「ん?」
「教科書とか散らばってたけどよ。勉強してんのか?」
「あー……」

 今は閉めてあるけれど、先程まで半開きだった襖の奥の座卓を見たのだろう。部屋に行くのが面倒なときの、私の第二の部屋。なんて言うか迷って、言葉を探して、その間も左右田くんは休みなく手を動かす。こういうのって、キャラじゃない。そう思いながらも、後ろについている手に体重をかけた。

「そう。そうなんだよね。左右田くんに教えてもらってからさ、ちょっと楽しくなってんだ。……もしかしたら、結構いい高校とか行けんのかもって」

 どこに隠していたのか、喉の奥で絡まっていた言葉がすらすらと飛び出る。たったクラス十位。変わらない文系脳。そのレベルで喜んで、調子に乗って、彼の目に私はどう映っているだろうか。第一、キャラじゃない。こうやって口に出したことで、「私」がすり減るような気がした。彼は、相槌を打つでもなく、私を横目に見てから、またドライバーを手にとった。今度は、芯を付け替えた。

「意外だな。……いや、そうでもねぇか。オレに教えてって言ったときから根は真面目なのかもって思った。もっとヤベー奴かと思ってたからよ」
「あは、ヤベー奴は失礼すぎ。……真面目ではないよ。見かけの通りだって。アマゾネスたちには言えないかも」

 一緒に馬鹿やってる友達が、本物のクソ真面目になったらどうするんだろう。そんなことで嫌われないだろうと思いつつも、すり減っていく「私」に頭を悩ませる。家で机に向かっているときや、学校で馬鹿やってるときは、こんなことは考えなかったのに。左右田くんとの二人の空間が、私の心に潜んでいた悩みを引き出した。
 雨で既に暗い空間を、これ以上私情で重くするのは駄目だ、と笑顔をつくって、膝を抱えた。

「でもさ、こういうのってキャラじゃないよね」
「まあそうだな」

 ズキン。私から言ったのに、すぐに肯定された事実に胸が痛む。面倒くさすぎる自分に嫌気がさして、溜め息が漏れそうだった。けれどそれは、すぐに彼が抑えてくれた。

「でもよ、オメーみてぇなヤバそうな奴がクソ頭良かったらめちゃくちゃカッケェだろ」

 めちゃくちゃカッケェ。その言葉に、頬がゆるむ。なんて単純で、絆しやすい女なのだろう。どんなに馬鹿な私でも、どれだけ真面目な私だって、全部全部「私」だ。だったら、めちゃくちゃカッケェ「私」になれば良い。
 んふふ、と気持ち悪い声が抑えきれずに漏れると、彼も柔らかな息を漏らして、ドライバーを工具セットにしまい込んだ。それから、今は見えない襖の奥に視線を向けて、先程までの私と同じように、後ろに手をついて体重をかけた。

「わかる。勉強、楽しいよな」
「うん。へへ、楽しい」

 ふふ、と笑うと、左右田くんも声を出しながら笑う。雨の音が遠くで聞こえるこの空間に、私と左右田くんの笑い声が静かに響く。どこの部屋にいたのか、二人きりだと思っていた空間に、襖の奥から腰を曲げたおばあちゃんが現れた。

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