月白の残滓を見た
――怖い。
足が縫い止められたみたいに動かなかった。思い出したくもない惨劇が、網膜の裏で何度も明滅する。血に濡れた床、軋む船内、宇宙を漂う影。その記憶だけで、身体の芯から震えがせり上がった。
誰かがグノーシアに襲撃されたり、コールドスリープしていったり――そんなことは、もう何度も経験してきた。だから、とっくに誰かを失うことには慣れてしまったと思っていた。それなのに。あの騒動を目の当たりにしてしまった今は、セツを、ラキオを、そして自分自身を失った感覚だけが、生々しく胸に残っている。
今回のループに、彼女はいるのだろうか。この扉を開けた先に、誰一人いなかったら。血に沈んだ羽根が脳裏をよぎった瞬間、首筋から後頭部にかけて、粘ついた悪寒がぞわりと這い上がった。
見飽きるほど繰り返し見てきたはずの、重厚な扉。その前で立ち尽くしたまま、私は動けずにいた。前回のループがあまりにも異様で、いつものように気持ちを切り替えることができなかったのだ。また、同じことが起こるかもしれない。もしかしたら、既に。
――すると、よく聞き慣れた、何度も何度も私を腹立たせてきた声が、背中に降ってきた。
「邪魔なンだけど」
吸い寄せられるように、反射的に後ろを向いた。目の前がチカチカする程の青だった。煩わしげに眉をひそめて、相変わらずの宝石のような瞳が私を捉えた。
「ラキオ……」
依然として美しい顔。少し前のループでは、見るだけで私の神経を逆撫でしていたはずなのに、いささかその気が起きない。私、ラキオとどうやって話していたんだっけ? ふと表情を確認するように、自身の頬に手を当てた。
「何をこんなところで突っ立っているンだい? 入るのならさっさと入りなよ。それとも君がグノーシアだから会議に参加したくないのかな?」
彼が言葉を発する度、胸の奥で強張っていた何かがほどけていくみたいに、視界が滲んだ。間もなく、張り詰めていたものがふっと緩んで、気づけば涙が頬を伝っていた。ラキオが居る。ラキオが、そこに居てくれる。安堵した途端、抑え込んでいた恐怖まで一緒に溢れ出してしまった。
「……は?」
急に泣き出した私を見て、彼は影を落とすほど長い睫毛を数回瞬かせると、縹色の瞳がわずかに見開かれた。まさに呆気にとられたような。そんな表情を向けられたのは初めてだった。それでも今は、それを気にする余裕すらなかった。気がつけば、涙は拭っても拭っても止まらなくなっていた。涙を流し続ける私と、そんな私を眉をひそめて見下ろすラキオ。慰めの言葉ひとつないのに、彼が立ち去らないせいで、空気だけが妙に気まずかった。
すると、そんな空気を壊すかのように、甲高いヒールの足音が、一直線にこちらへ近づいてくるのが聞こえた。
「ラキオがナマエ泣かせてる! ムムッ。もしかして、もしかしなくても修羅場ってやつですかNA? 名探偵SQちゃん、動きます!」
声の主はするりと私たちの間に入り込むようにして、顔を覗かせた。赤色の髪と大きなピアスを揺らして、くるんとカールさせた睫毛がぱちぱち瞬いている。私とラキオを交互に見ると、SQは私の肩を抱き寄せ、ラキオに向けて疑うように目を細めた。甘い匂いがした。
そんな疑いの目を向けられている本人は、やれやれと言いたげに深く溜息をついて、やる気なさげに手をひらひらと振っている。
「騒がしいね。僕のせいにしないでくれないか。ナマエが勝手に泣き出したンだ。意味がわからない。まったくもって理解不能だ」
「ええ〜? そうなのナマエ?」
SQは髪の流れを整えるみたいに、ゆっくりと私の頭を撫でてくれていた。それでもなお、ラキオには胡乱げな視線を向けたままだ。
この涙は、誰かのせいで流れているわけじゃない。むしろ逆だ。誰も失っていないことへの安堵が、張り詰めていた感情を決壊させてしまったのだ。けれど、このループの皆にその理由が伝わるはずもなかった。
涙は少しずつ落ち着いてきたものの、まだ頬を濡らし続けている。私はそれを拭いながら、どうにか二人へ笑みを向けた。
「うん……ごめん、ラキオは何も悪くないよ」
それだけ言うと、SQは何度か睫毛を忙しなく揺らし、それならいいけど、と唇に弧を描いた。ラキオは鼻を鳴らし、細い髪をなびかせながらメインコンソール室へと入っていった。
SQが宥めるみたいによしよしと頭を撫でながら、その場に留まってくれている。そこへ遅れてやってきたセツが状況を目にすると、心配そうに私の肩を軽く叩いた。
「ナマエ、大丈夫? しんどいなら今日の会議は休んだっていいよ」
「大丈夫、ありがとう。……ちゃんと出るから」
「そう。無理はしないようにね」
眉を下げて案じるような視線を向けるセツを、また安心させるように微笑む。とても上手に笑えているとは思わないけれど。せっかくまた皆に会えたのだ。今回のループでも、必要最低限の犠牲を目指したい。もう一度袖で涙を拭うと、そばに居てくれたSQにただ頷いてはメインコンソール室へと足を踏み入れた。
案の定、ラキオを責める声が聞こえる。彼は今回ばかりは何もしていない、むしろ私を助けてくれたまであるのに、申し訳ないことをしたな、と彼の隣についた。彼は私にヘイトを向けるかと思いきや――ただ、何も言わずに目を合わせては、ふうと息をついたのだった。
「黙ったままだとコールドスリープに選ばれるンじゃない?」
まさかここに来て、彼の気遣いが垣間見えるなどと思わず、今度は私が目を見開いた。
「……ありがとう」
「まあ君が少しでも不審な動きをしたら、すぐにでも冷凍庫送りにしてやるけどね」
ラキオは「助言を与えたつもりはない」と言いたげに目を細めると、円卓に手をついた。セツ、ラキオ、SQ。皆のために、グノーシアを探し出さなければ。パン、と両頬を叩いてやれば、向かいに立っているセツが私に薄い笑みを向けた。
⊕⊕⊕
誰もコールドスリープしない、なんてあり得るんだなあ。
自室のベッドに腰かけ、壁にもたれながらぼんやりと考えた。一日目、いつも通り誰がグノーシアかなどと検討もつかず、私とラキオの関係をひたすら茶化していた沙明に票が集まったかと思うと――
『すいませんッしたぁー!』
彼は砕けそうな勢いで額を床へ打ちつけ、深く頭を垂れた。そう、土下座だ。そのときの皆の表情はというと、まるでつまらないものを見ているかのようなものであった。実際、つまらないものなのだが。今回ばかりは誰もコールドスリープしない、と結論づけたのは、誰でもない夕里子だった。
『余興にしたってつまらない。そんなもの、凍らせる価値もないでしょう』
夕里子の発言力は、乗員の中でも群を抜いていた。誰もが彼女の不思議な魅力の前では口ごたえできないのだ。
ククルシカだって、前のループの片鱗もない。まるで悪い夢を見ていたかのように、無垢で可憐な天使のような少女だった。しかし、『鍵』に記録された「レムナンと留守番になると、全員殺害する」という特記事項が、前回の宇宙を嘘ではないといっていた。セツはループの旅に全員の性格までが変わるわけではないと言った。ならば、私たちがループを抜け出せる頃には、彼女についても何かわかるのだろうか。
それに、いつもならば土下座ひとつでグノーシアかもしれない人間を見逃すなどと、あまり許されるものではなかっただろう。今回のループでは違った。私は少しでも、この船の皆と一緒に居たかった。それは、ククルシカだって同じだった。
ならば誰かに会いに行かなければ。そう考えては食堂から持ってきた保冷剤で泣き腫らした目を冷やしていると、扉が電子音と共に解放された。ラキオとはまた違う、派手な色。綺麗な肌の上にはハートのスートが主張していた。
「やほやほ、ナマエ!」
「SQ」
SQは軽く手を振りながらにっこり笑うと、遠慮など知らずに私の部屋のベッドにどんと腰を下ろした。まるで、初めて会ったあのループのときのようだった。
彼女は私の顔をじっと覗くと、桃色の唇を尖らせ、眉を寄せた。
「そろそろ元気は出てきましたかNA?」
「うん、ありがとう」
SQはじっと私の顔を覗き込むと、不満げに眉を寄せた。そして保冷剤を取り上げたかと思えば、次の瞬間、むに、と両頬を遠慮なく摘ままれる。彼女の細い指が、頬に容赦なく食い込んだ。
「ムム、とてもそうは見えないケド」
「大丈夫だって……いひゃい!」
彼女は「ホントにぃ?」と胡乱げに目を細めると、数秒してからようやく手を離してくれた。摘ままれていた頬がじんじんと熱を持っている。
するとSQは、勢いよくベッドから飛び起きるように立ち上がった。身体を左右にぐっと伸ばしてからこちらを振り返り、真ん丸な目でぱちりとウインクしてみせる。
「ねね、ナマエ。ちょっと付き合ってくんNE? あっ、ラヴの方じゃないよ? もちろんナマエはラヴリィだけど」
「えっ、どこに」
「いいからいいから!」
「わっ!」
SQは時折突拍子もない行動をする。私の手首を掴むなり、有無を言わせず部屋の外へ引っ張っていく。カンカン、とヒールが廊下を鳴らす。私はされるがまま、揺れる赤髪を追いかけるように廊下を駆けた。
彼女は脚が長いせいで、ついていくだけでも一苦労だった。両膝に手をつき、荒く呼吸を繰り返す。「大丈夫かにゃ?」とSQがケラケラ笑う。もちろん、全然大丈夫じゃない、と首を振った。彼女は見た目の割にやや幼い言動を見せるときがある。
さて、私がSQに連れられて来たところはというと、他でもない、シャワー室であった。遠回しに風呂に入れと言っているのか? と自身の服を嗅いでいると、SQはゆっくり扉を開け、隙間からそっと顔を覗かせた。
「んふふ。やっぱりまだ使ってるみたい」
彼女はこちらを振り返ると、「しーっ」と人差し指を立て、それから足音を忍ばせながら中へ入っていった。彼女の言う通り、天井に反響するようなシャワーの水音が絶え間なく響いていた。
何をする気だろう、と怪訝に思いながら後を追っていると、SQが不意にこちらを振り返り、不機嫌そうに手招きした。嫌な予感がした。というより、SQが企むことなんて、絶対に碌でもない。
「えっ、SQまさか」
「そのまさか。異常な長さだし、もしかすると誰か中で倒れてるかもだし」
「確かに……」
私の予想は外れたようだった。なるほど、純粋な心配だったのか。ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間――
「てことでタテマエ成立ね。こりゃノゾかない手はないですZE、ダンナ!」
「えぇっ!」
彼女は勢いよく個室のドアに手をかけた。待って、それは良くないのでは! 仮に中が女の子だとしても気まずいし、絶対に嫌われたくない。シャワーを使っているのがジョナスだったらどうだろう? はっきり言ってジョナスのシャワーシーンなど絶対に見たくない。
私がSQを止めるより先に、彼女が扉を開けるより先に、水が床を打つ音が止まると――
「うるさいな」
ゆっくりと扉が開いた。湯気の向こうから、不機嫌そうな声が落ちてきた。立ち込める湯気の奥から、恐ろしいほど整った顔立ちがゆっくりと現れる。誰だ、この美人は。
思わずSQと顔を見合わせると、目の前の人物は深く溜息をついた。
「シャワーくらい静かに浴びたいンだけど? やれやれ、雑念を洗い流して思索にふけっていたのが台無しだよ」
その声を聞いて、ようやく目の前の人物と記憶が結びついた。目の前にいたのは、メイクを落としたラキオだった。風呂上がりの熱を纏った甘い香りが、不意に鼻先を掠めた。
濡れた髪を無造作にかき上げながら、不機嫌そうにこちらを見る。その仕草ひとつ取っても絵になってしまうのだから、本当に腹立たしい。いつもは丁寧に施されている化粧も落ちていて、露わになった素顔は、普段よりずっと幼く見えた。
化粧で飾り立てられた美しさじゃない。作り込まれたものを削ぎ落とした先にある、生まれつき完成されてしまった顔立ち。濡れた睫毛は影を落とすほど長く、湯気を纏った縹色の瞳は、宝石よりもずっと柔らかい光を宿している。
ぼうっとその美貌に見惚れているうちに、耳に入っているはずなのに理解できていなかったSQとラキオの会話が、ようやく意味を伴って頭へ入ってくる。
「――それに、いずれは汎化処置を受けることになるしね」
その言葉でようやくハッと意識を現実に戻した。セツやラキオは汎性であるのは知っていたが、まさかそれが生まれ持った性別でないとは思わず、ラキオに向けて数回瞬きを繰り返した。彼は私のその反応を見るや否や、何か文句があるのか? と言いたげに端麗な顔を歪める。
「汎って後天的なの?」
私の質問を聞いてか、ラキオは濡れた髪を指先で払いながら、呆れたように溜息をついた。水滴が白い首筋を伝って落ちていく。そんな何気ない仕草まで妙に様になっていて、視線の置き場に困る。そんな私の思いなど知るはずもなく、彼は気怠げに口を開くと、淡々と言葉を紡いでいった。
「……まさか記憶喪失もここまで酷いとはね。それとももとの君がそれほどまでに馬鹿なのかな? まあいいさ。教えてあげよう。汎性は生きていく中で自ら選べるンだよ。そもそも性別など取るに足らない問題さ」
「へえ……」
「なるほどねぇ……」
今回のループで、そしてSQのおかげで、ようやくラキオについて新しいことを知れた気がした。いかにもラキオらしい考え方だ、とつい笑みを零す。
しかし当の本人は、私ではなくSQへ胡乱げな視線を向けて顔を顰めた。それもそのはずだ。SQはまじまじとラキオの身体を見つめていたのだから。
「ううん、でもモッタイナイなぁ……」
「SQはさっきからどこを見て言ってるンだい。……まったく付き合っていられないな。僕は失礼するよ」
彼女の視線を振り払うように、濡れた身体を無造作にバスタオルで拭うと、ラキオはそのままシャワー室を後にした。
「ラキオ、裸で出てったんだけど……」
SQが瞬きも忘れたみたいに、目を真ん丸にして彼の背中を見送る。私はというと、彼女みたいに堂々と眺めることなど到底できなかった。
裸で平然と歩き回るところも、以前私に向けられた「裸体に興味がない」という言葉も、今回の話を聞けば妙に腑に落ちる。ラキオは、それほどまでに性というものへ執着が薄いのだ。その一貫した価値観に、思わず小さく息が漏れた。
――それにしても、普段の化粧をしたラキオが美しいのは言うまでもない。けれど、素顔の彼もまた、息を呑むほど綺麗だった。
「綺麗だったなあ」
ぽつりと零した瞬間、SQがにやりと口角を上げる。
「やっぱり?」
「そうじゃない」