二度目の初恋
その日、私はひどく疲れていた。
朝起きてすぐ、ママが“食い患い”を発症したとの報告を受けた。今回のお題は、フロニャルド。バターを塗った型に果物と生地を流し込んで焼き上げたお菓子である。作るのは無論シュトロイゼンだが、果物を使った焼き菓子と言うことで、17歳になって“フルーツ大臣”に任命されたコンポートと、“こんがり大臣”に就任予定のオーブン、“バター大臣”の私も協力することになり、寝起き早々怒濤のフロニャルド作りに励む羽目になったのだ。
ようやくママの癇癪を収めた後は、ショックと恐怖で震える幼い弟妹を付きっきりで宥め、被害に遭った島民達を慰安し、ペロスペローと共に復興支援を手配。その間もずっと弟妹を張り付けたままだった。ようやく弟妹が落ち着き始めたと思ったら、今度は彼らよりも少し年上の10歳前後の兄弟──自分達よりも下の兄弟を優先して我慢していたらしい──が、私から引っ付いて離れなくなった。それを見て、さらに上の子達が便乗してまとわりついてくるので、私はほぼ一日中鈴なりに弟妹をくっつけた状態で過ごしながら、仕事をこなすことになったのだ。地獄かな??
全てから解放された時は、とっくに陽は沈んでいて、疲労困憊した私は、自分の今日一日は一体何だったんだと腹立たしく思った。久々の休みだったのに、ママのせいで丸潰れになってしまった。せっかく、ゆっくり部屋に引き込もって「痛くない怖くない苦しくない自殺プラン」を考えようと思ってたのに!
ホールケーキアイランドから船でマーガリン島へ移動し、港から屋敷に帰るまでの道すがら、私はこれまでの人生で一体何回ママの“食い患い”に付き合ってきただろうかと考えてみる。多分100回は越えている。死ぬまでに、あと何回癇癪を収めればいいのか。考えるだけで気が遠くなりそうだ。……はぁ、さっさと死にたい。
そんな鬱々な私の心の声を知らないマーガリン島の人々は、ママの癇癪を見事収めたこの島の主である私に、まるでアイドルの出待ちをしているファンの如く声をかけてくれる。
「カヌレ様ーっ!」
「ママの癇癪を鎮めてくれて、ありがとー!」
「今日もなんて美しいのかしら…♡」
「さすが、ママのご長女!」
「シャーロット家の誇り!」
どれだけ疲れていたとしても、歓声に応えることをママに義務付けられたのは、その方がマーガリン島、ひいては万国への移住者が増えるから。移住者が増えれば、集められる“寿命”も増える。ママは私を、客寄せパンダとして利用しているのだ。戦場に送り出されるよりはマシだけど。
本当に、ママは娘を何だと思っているのだろうか。人生二周目かつ今生に何の夢も希望も抱いていないので、別にママからどう扱われようと気にならないが、普通の感覚の持ち主だったら実母からの扱いの酷さに発狂していると思う。そこだけ思えば、「前世」の記憶があったのは救いだったのかもしれない。
そう思いながら、島民達に手を振っていた時、私の鼻がどこからか美味しそうな匂いを嗅ぎ付けた。すかさず足を止め、辺りを見渡す。どうかしたのかと尋ねてくる部下に匂いの元を探らせると、大通りから何本か中へ入った脇道に、最近できたばかりのジャム屋があるらしい。
…そう言えば「前世」での我が家は、トーストにはジャム派だったことを思い出す。恋人の家はマーガリン派、親友二人の家は何も塗らない派だけど、親友の彼氏はそれぞれあんこ派とはちみつ派。その六人で遊んだ時、どういう流れでそんな話になったのか、「あんこは邪道!」とか「マーガリンこそ正義!」とか、本当にくだらないことを言い合った覚えがある。
今となっては遠く、懐かしい記憶に笑いが込み上げてくる。帰りたいなぁ。
いつもなら、人前では「前世」のことは考えないようにしているのに、今日は無性にみんなに会いたいと思ってしまう。ホームシック的な。よほど、私は疲れているらしい。
「ちょっと、寄り道してくる」
だから、真っ直ぐ私邸に帰るのは止めて、少し探検してみることにした。せっかく、万国の中に限って一人歩きは許されているのだ。いつもは忙しいからあまり出歩かないけれど、今日は何となくそんな気分なのだ。
私は部下達をその場に残し、甘い匂いを辿って教えてもらったお店へ足を向けた。
目的地にはすぐに到達した。こじんまりとした、シンプルな外観のお店だ。こんなお店があるなんて知らなかった。自分の島のことなのに。
日頃からもっとあらゆるところに気を配るべきだと反省しつつ、私は入り口の扉に手をかけた。ベルが鳴って、店の奥から店員が顔を出す。私よりも背が高くて、だけどとても優しそうな風貌の男性だ。少しばかり年上だろうか。何より。
「いらっしゃ…!?…カヌレ様!?」
朗らかに挨拶しようとした男性は、しかし、自分が店を構える島の大臣の来店に言葉を詰まらせた。それ以上に、私は言葉を失ってしまった。
その柔らかな笑顔も、驚いて目を見開く顔も、全部似ている。「前世」で、私の恋人だった人に。大学時代から7年間 付き合って、結婚の話まで出ていた初恋の人に。
「…急に、…ごめんなさい」
そう告げた声は微かに震えている。言葉が上手く出てこない。彼から、目が離せない。
でも、そんな私の様子に気づいた風もなく、彼は気を取り直したようににこりと笑って言った。
「いらっしゃいませ」
恋人と同じ顔。同じ声。…あぁ、ダメだ。いつもなら、今生と「前世」を重ね合わせるようなことはしないのに。それなのに、今日は、どうしてか…
──きっと、私は疲れていたのだ。朝から働き通して、あらゆることに精神を削られて、本当は休みの予定で気を抜いていたから、いつもよりも疲労を感じていたのだ。だから、普段はしない寄り道をして、普段なら思い出さないことを思い出した。…そうだ、そうに決まっている。私はとても疲れているのだ。
そうでなければ、説明がつかない。家族の異常な愛にとっくに気づいていたはずの私が、「前世」の恋人に似ているというだけで、人を好きになるなんて。恋をしてしまうなんて…
*
恋は人を愚かにすると言うけれど、元々愚かな者が恋をすると、一体どうなってしまうのだろうか。そんなことを考えるぐらいには、私はジャム屋の男性に心を奪われていた。
彼は21歳。つい最近移住してきたばかりで、住まいが決まるのと同時に店をオープンしたそうだ。亡き母がジャム作りが趣味だったらしく、その技術を受け継いだ彼は、以前住んでいた島でも店を持っていたらしい。周辺の町や島で有名になり、資金も十分手に入ったので、今や“お菓子の国”と名高い万国で一旗揚げようと、野望を胸に移住してきたのだそうだ。
穏やかそうな見た目と裏腹に、熱い野心を秘めているところは、恋人のことを抜きにしても好ましかった。話をすればするほど、彼に惹かれていく自分がいた。
会える時間はとても少ない。大臣である私が多忙なのもあるが、一番は家族に知られる訳にはいかないから。
子供達を政略結婚の道具とみなすママは、年長の子供達の異性交遊を基本的に許していない。どこの馬の骨とも知らない人間と子供を作られては事だからだ。…まぁ、みんな勝手に羽目を外さない程度に遊んでいると思うが。知らんけど。しかし、私はママから「おれの人形」とまで言われているお気に入りだ。それが町の男に恋をしているなど知られれば一体どうなるかは考えるまでもないので、今生の私は初恋もまだ。家族以外に接点ないしね。て言うか接点持たせてもらえないしね。ほんと、何でだろうね。怖いからあんまり考えないようにしてるけど、理由なんか一個しかないよね!
……これがヴィーラ族について回る性のせいだと思うと、なんて難儀な種族なんだと哀れまずにはいられない。美しすぎて周りが勝手に独占欲募らせて狂っていくなんて、泥沼恋愛ドラマでもなかなか見ない。仮にそんな設定があったとしても、あれは他人事だから面白いのであって、我が身に降りかかってくるとなると話は違う。迷惑が過ぎる。「前世」とは比べ物にならないぐらい容姿が良くなったのはそりゃあ嬉しいが、物事には限度というものがある。「人を惑わせる美貌」はいらん。欲しくねェよ。フラグじゃねェか。もう立ってるけど!家族相手に色んな意味でフラグ立ちまくってるけどな!!
「…カヌレ様、どうかされましたか…?」
はっと我に返る。彼が、心配そうに眉を寄せて私を見ていた。私は何でもない、と首を横に振る。
「そうですか。…どう、でした?新作のジャムは…」
「とても美味しい。バターの味も濃厚だし、使われている果物もほどよく酸味があって香りも爽やかだし…」
そう微笑むと、彼はほっとしたように息を吐いた。そして、空になっている私のティーカップを見て、「お紅茶のお代わり、淹れてきますね」とバックヤードに下がっていった。私は出されたクッキーにジャムを塗り、かじりつく。
初めてこの店を訪れた時、私は今バタータウンの住民に評判になっているという、イチゴジャムとマーマレードを購入した。いずれもコンポートが治めるフルーツ島産のフルーツを使ったジャムで、非常に美味しかった。私だけでなく、私の屋敷で働いている使用人や侍女達にも好評だったこともあり、私はすぐに彼の店のジャムを、屋敷に卸すよう命じた。以降、彼は定期的に私の屋敷に出入りするようになり、タイミングがあればお礼も兼ねて共にティータイムを過ごすようになり、その縁で新作ジャムの試食を頼まれたという訳だ。
今日わざわざ私が店に出向いたのは、今夜はペロスペローと私の屋敷でディナーの予定になっているので、鉢合わせになることを避けたかったからである。
長く遠征に出ていたペロスペローと会うのは久々だ。ちゃんと会って話をしたのは、ママに私の種族について教えてもらった日。弟妹達との昼寝から起きると、なぜかペロスペローとカタクリ達も一緒に眠っていて、やがて起きてきた弟と話したのがまともに会話した最後の記憶である。それ以降は顔を合わせることはあっても、ほとんど会話らしい会話はしてこなかったので、「たまには長女・長男水入らずで食事でも」と誘われた時は少しだけ嬉しかった。…しかし、あの可愛かったペロスペローも、今や立派な“死体キャンディマン”製造機なんだけどな。優しいのは身内にだけだけどな。
そのペロスペローとの約束は、午後7時。まだ、一時間程余裕がある。
「お待たせしました」
彼が戻ってきた。ティーカップに熱い紅茶を注ぎ、「クッキーの方はどうでした?」と尋ねてくる。
「こっちも美味しいわ。けど、個人的にこのジャムは、パンやスコーンに塗った方が美味しいと思う。バターの味がしっかりしているからかもしれないけど」
「なるほど……クッキーやクラッカーに塗るなら、もう少しバターの味を控えた方がいいでしょうか?」
「個人的には。でも、あまり控え過ぎると、普通のイチゴジャムと変わらなくなるかも」
「…ですよね……」
少し落ち込んだような顔に、胸の奥をぐっと衝かれた気持ちになる。
今回試作させてもらった新作ジャムは、イチゴのバタージャム。フルーツ島産のイチゴと、ここマーガリン島産のバターを混ぜ合わせた、濃厚なバタージャムだった。「前世」も含めて初めて食べたが、贔屓目を抜きにしてもとても美味しかった。もっと味がしっかりすれば、ママに献上するのもありかもしれない。
「だけど、それはあくまで私の意見だから。他の人に試食してもらって、多角的な意見を集めた方がきっといいものができるわ」
それに、私は一応“バター大臣”に任命それているものの、ペロスペローやコンポートのように自分が担当する食材のエキスパートという訳ではない。「前世」で蓄えた技術とシュトロイゼンから教わった技術があって、わりとどんなお菓子でもそれなりに作れる器用貧乏だから、どのお菓子にも使用するバターが割り振られたのだと思う。しかし、弟がキャンディに情熱を注いでいるように、バターに情熱を注いでいる訳ではない私は、専門的なアドバイスはほとんどできない。素人が相手ならまだしも、彼はジャムのプロなのだ。
そう告げると、彼は残念そうな表情から一転して、嬉しげな笑みを見せてくれた。
「ありがとうございます。…ご多忙なカヌレ様に、試食して頂くだけでなく、アドバイスまで……」
「あなたの新作を食べたいと言ったのは私だもの。気にしないで。それに、私はジャムは専門外だから、あまり参考にならなかったかもしれない…」
「そんなことは……っ!…その、っ、……僕も、あなたに…一番に食べて欲しかったので…」
視線が交わる。何となく気まずい空気が流れ、私は目を逸らしながらカップに口をつけた。この感覚には覚えがある。「前世」の恋人と付き合う前、同じ学部の同級生という繋がりしかなかった私達が、互いを“異性”として認識するようになった瞬間と、どこか同じ空気だ。
…ダメだ。流されてはいけない。私が彼に惹かれているのは、「前世」の恋人に瓜二つだから。それ以外に理由はないし、いらない。それに、この世界を捨てる気でいる私は、心残りになるようなモノを作るわけにはいかない──でも。
「カヌレ様、失礼致します!」
そんな、何とも言えない無言の空気を切り裂いたのは、店の外で待機していた部下。顔を向けると、部下はちらりと彼を見た。空気を察して、彼は「僕は奥に行ってますので…」と下がる。その心遣いをありがたく受け取って、私は部下に続きを促した。
「先程ペロスペロー様から緊急の連絡があり、今夜の約束を延期して欲しい、と…」
「何かトラブル?」
「そのようです。なんでも、お菓子の納期が遅れているらしく…」
「あらあら…そりゃ一大事ね。大時化か何かで?」
「いえ。どうもこちら側のミスのようで…」
「?…今月の徴収は誰だった?」
「カタクリ様達です」
「なるほど…」
どんなミスを犯したのかは知らないが、ミスを犯しそうな面子である。三人とも実力は折り紙つきなのだが、問題は揃いも揃って短気で激昂しやすい性格だ。カタクリは二人よりはマシだが、それでも普通よりは気が短い方だと思う。兄か姉がいない限り、あのキレた三人を止められる者はいない。おそらく、何かしら揉め事があって三人が激怒して暴れてしまい、納入予定だったお菓子を台無しにでもしたのだろう。
なぜ見た目は一ミリも似ていないくせに、そんな厄介な所だけは似ているのか。ママが短気かつ我が儘だからか?
「ペロスペロー様は、コンポート様と共に事後処理に追われているとのことで…」
「そう。私も行った方がいい?」
「それが、現在ママが激怒しているために海が荒れており、出港が困難でして…」
「二重に災難ね。…まぁでも、私が必要になったらブリュレを使って呼びに来るだろうから、鏡のチェックをお願いね」
「畏まりました!」
部下を下がらせ、一人になる。今頃、遠くの海にいる三つ子達はママの怒りに恐れ戦いているだろう。キャンディ大臣とフルーツ大臣は直接ママの怒りに晒されながらも、何とか事を収めようと奮闘しているに違いない。ママが落ち着くまで、何人犠牲になるか。我が子と言えど、ママは決して容赦しない。五人の命を心配だ。しかし、だからと言って安全圏から出ていこうとは思わない。行ったところで役に立たないし、そもそも海へ出られないし。
(薄情な姉ちゃんで、ごめんな……)
ヴィーラの性に惑わされているとは言え、私を慕ってくれる弟妹達。特に、長い時間を過ごしている上の子達には申し訳ないけれど、あの子達がママに似た怪物になっていくに従い、愛する気持ちよりも恐怖が大きくなってしまった今、わざわざ赴いて代わりにママの怒りを収めようと思えない。死にたがりの癖に、ママを恐れるなんておかしな話だ。別に殺されたとしても、本望が叶うだけなのに。…人間の生存本能と言うものは、感情とは別に働くらしい。こんなんで、私はちゃんと死ねるのだろうか。
深い深い溜め息を吐く。窓の外を見ると、空がどんどん暗くなっている。雷も鳴っている。これは、相当怒っているな。
「急に荒れてきましたね」
振り向くと、店の奥から彼が現れた。私は頷きながら、手にしていたカップをソーサーに置いた。カチャリと、陶器のぶつかる音が響く。
「今日は、招いてくれてありがとう。とても美味しかった。もっと頂きたいけれど、雨が降り出す前に帰らないと…」
私は椅子から立ち上がり、離れようとした。だが。
「!」
彼が左手を掴んできた。彼の顔を見上げる。頭の中に、彼とよく似た恋人の顔が過った。本当に、近くで見れば見るほど…
「…もう少しだけ……!」
消え入りそうな声。ぎゅっと強まる手の力。切実な思いを秘めて震える眼差し。その全てに魅入られて、私は掴まれている腕を振り払えない。
離れるべきだと、理性が警告する。離れてはいけないと、本能が叫ぶ。結婚まで考えた、もう二度と会えない恋人に似た彼。恋人に似た所も、似ていない所も、とても、とても…
「…少し、だけなら……」
私の返答に安堵したのか、彼が体の力を抜いた。
ゴロゴロと、近くで雷が鳴っている。店の外を行き交う人や部下達が、慌てて軒下に逃げて行くのが見える。私が再び椅子に座り直した頃には、雨が降ってきた。ゼウスが降らせた雨は、瞬く間に強く地を叩く大雨になった。それを見つめながら、私はそっと呟いた。
「…雨が止むまで、…ここにいても?」
目が合った。彼の口許から、心底嬉しそうな笑みが溢れる。あぁ、似ている。懐かしい人と同じ顔だ。
「もちろんです」
その幸せそうな顔に、私の心まで温かくなる。彼が嬉しいと、私も嬉しい。この感情の正体なら知っている。とっくに気がついていた。
私は正真正銘、彼に恋をしているのだ。「前世」の恋人に似ている云々は抜きにして、死ぬまでのほんの一時でいいから一緒にいたいと思ってしまうほど。自分が恋をすれば、怒り狂う人がいるとわかっているのに。彼が私に惹かれているのは、私がヴィーラの血を引いているからだろうに。それでも、私は彼が──
彼の名を呼ぶ。彼の手を、今度は自分から握り締めた。赤くなった彼の頬を、夜空を光る稲光が照らした。雨は、翌朝まで止まなかった。
私が自らの選択を後悔したのは、それから1年程経ち、私の20歳の誕生日を目前に控えたある夜のこと。燃え盛る彼の店の前で、香ばしいジャムの香りに紛れた、甘い甘いキャンディの香りを嗅いだ時だった。
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