私の人生
ママ達が万国を出てから、5日が過ぎた。これと言った何かが起こるわけでもなく、極めて平穏な5日間だった。ママの不在をチャンスとばかりに攻め込んでくる同業者や海軍の情報もなく、私は日々の仕事をこなす傍ら、ホールケーキ城に赴いてはガレット・ポワールを筆頭に弟妹の世話をしたり、忙しくも充実した時間を過ごしていた。
そして5日目がもうすぐ終わり、間もなく日付が変わろうとする今、たった一人で墓地にいる。
ここは、バタータウンから少し離れた墓地。中でも、無縁墓が集められた一角だ。その片隅に、つい3ヶ月ほどに新たに加えられた墓がある。 それこそが、私の目的の場所だ。
墓地には誰もいなかった。近くにある小さな教会にはぼんやりと明かりが灯っていたが、教会から離れたこの場所までは光は届かない。私が持っているランタンだけが、闇の中でゆらゆらと揺れている。
今夜は──正確には日付を跨いでからだが──彼が亡くなって3ヶ月目の夜だ。奇しくも、ちょうど弟達が彼の家を訪れたであろう時間帯でもある。
彼の亡骸の一部と思われるモノは、万国に彼の縁者がいないということもあり、教会の関係者が引き取って埋葬したらしい。腕はもちろん、人柄も素晴らしいと評判だった店主の突然の事故死に、マーガリン島の住民達は激しく動揺した。そしてその早すぎる死を悼み、今でも献花が耐えないという。全て侍女達から聞いた話である。
実は、私がここに来るのは初めてだった。どう隠そうとも私は何をしても目立つから、これまで一度も訪れたことはない。弟妹を刺激したくなかったからだ。
しかし、今夜は特別だ。ほとんどの弟妹は万国におらず、すぐ下の弟はここから遠く離れたキャンディ島ににいる。しかも私が屋敷を出てきたことは、侍女も使用人も誰も知らない。いつかのように、自室のバルコニーから出てきたからだ。誰にも気づかれることなく、誰にも邪魔されることなく彼に会いたかった。今夜が最後で、最期だから。
今夜、私は自室に戻り次第自ら命を絶つつもりでいる。気づけば勝手に別世界で始まっていたこの20年の人生を終わらせる日が、とうとうやって来たのだ。祝杯でもあげたい気分である。思うだけで、さすがにあげはしないけど。だってそこまでやったら、正真正銘のヤバい女になっちゃうじゃん。まぁもうずっとヤバい女ではあるんだけど。
自嘲の笑みを浮かべ、それでも私は足を止めることなく墓地を抜けた。そうしてようやく、目当ての墓石の前で足を止め、しゃがみ込む。実に3ヶ月ぶりの再会である。
「ずっと来られなくて、ごめんなさい」
彼の名の刻まれた墓石を指を這わせ、そう溢した。途端に込み上げてくる様々な感情。蓋をすることなどできるはずもなく、勝手に頬を滑り落ちていく涙もそのまま、私は地面に腰を下ろした。供えた白百合は、彼を慕う町人達が供えた花々の中に紛れ込んでしまった。
「でも、もうすぐ会えるよ」
まぁ色々と理由はあるにせよ、家族の愛情を裏切ろうとしているクズが、善人の代表のようだった彼と同じところに行けるとは思わない。でも、また会えたらいいと思っている。死後の世界で叶わないのなら、それこそ生まれ変わってでも会いたい。
“生まれ変わってでも”なんて、昔の私ならば絶対口にしなかった。そんなものはフィクション上の設定で、現実にはあり得ないと思っていたから。
でも、今の自分の状況を踏まえれば、フィクションだなんだなんて言えるわけがない。一度目があったのなら、二度目もあるかもしれないのだから。そう思いたい。思わなきゃやってられない。ゲームみたいセーブデータを引き継いで、次は違うステージでやり直せると思わないと…そう信じ込まないと、あの日から今日まで生きてこられなかった。
そう。この3ヶ月間を何とか踏ん張ってこられたのは、ようやくゴールを見つけられたからに他ならない。終わりの見えないマラソンを走り続けるのは辛いけど、ゴールテープが見えれば俄然頑張れるのは誰しも当たり前だろう。それが私にとっては、“死”だというだけのこと。
溜め込んでいた息を深く深く吐き溢して、座り込んでいた体を更に後ろ傾けて、背中が汚れるのも構わず地面に寝転がる。視界を独占する真っ黒な空には月も星もなくて、せっかくの最期の夜が随分と味気ないものになってしまったのがとても残念だ。万国に限らず、この世界はどこにいても空も海も美しいのに。そこは、「前世」よりもずっとよかったのではないかと思う。…そう言えば「前世」ではよく、恋人と一緒に綺麗な夜景を求めてドライブに行ったなぁ。「めっちゃべたなデートじゃん」って母にも妹にも言われたし、私も恋人も思ってたけど、何だかんだすっごく楽しかったんだよなぁ…
目の前に迫った“死”のせいか、“カヌレ”としての人生だけでなく、「前世」での人生までもが勝手に脳裏に浮かび上がってくる。今生のような美貌もスタイルも色香もない。すごい家系──海賊がいいか悪いかは別として、色んな意味ですごいからね──に生まれたわけでもない。ごくごく普通の見た目で、普通の家族に囲まれていただけ。…でも、今ならば思う。「前世」の私は、確かに幸せだったと。人から羨ましがられるようなものではなくても、あれは私にとって紛れもない幸せだった。失ってみて初めてわかった、なんて陳腐な台詞があるけれど、まさにその通り。
決して手に入らなくなってしまったモノ。頭では理解しているのに、どうしても欲しくて手を伸ばすことをやめられなかった。二度と戻れない「前世」に執着して、現実から目を背け続けてきた。そして今、その報いを受けたのだ。……ホントに、笑えない。
それにしても、私は一体どういうわけで、この世界に生まれ落ちたのだろうか。「前世」の記憶を持っていることの意味はなんだったのだろう。そんなもの最初からなくて、本当にただの神様の気まぐれとやらなのだろうか。だとしたら、自分の運命を憎まずにはいられない。
百歩譲って、私が“この世界に生まれ落ちなければならない宿命”にあったのだとして、それならばなぜ「前世」の記憶というオプションをつけたのか。それがなければ…それさえなければ、こうはならなかっただろう。
だって「前世」を覚えていなければ、“母親”はママ一人だし、“兄弟”はペロスペロー以下の40人だけ。すなわち、“家族”は“シャーロット家”だけ。「前世」の両親や弟妹を思うこともなく、両者を比較してその差に勝手に落ち込んだり、苦しむことも、比較してしまうことへの罪悪感に苛まれることもなく。「前世」の恋人の顔も知らないから、彼に出会って仮に惹かれたとしても、自制することだってできたはず。記憶さえなければ……あぁ、でも、そんなこと言ったって仕方ない。全ては、現状を受け入れ、諦められなかった私が悪い。少しでも抗おうとした私が悪い。
あ"ぁー…もう何も考えたくない。恋人が死んだのは当然身を裂かれるより辛いし、それに対する兄弟への怒りも憎しみもあるのに、これまで抱いてきた愛情が邪魔をして憎悪だけに感情が振り切れない。特に、直接手を下したであろう弟達に向かっては、本当は泣きわめき散らして怨み恨みをぶつけたいのに、その行動の原理にあるのが私への愛──それが私のヴィーラ族の血が作ったものか、幼い頃から面倒をみてきたことに起因するのか別にして──だとわかっているから、手を振り上げることができない。恐れ、憎んでいるくせに、強く求められれば拒絶できない。愛しているのに憎いみたいな、昼ドラも真っ青なくらい私の中で愛憎が渦巻いている。これまで以上に自分が何を考えているのか、何がしたいのかさっぱりだ。言語化できない。
でも、そんなことはもうどうでもいいのだ。何年考えたって、このごちゃごちゃに絡まった気持ちは整理できない。家族が憎くて、けれども愛おしいと思う気持ちは、多分一生揺るがない。変わりようがないのだ。20年間共に過ごしてきた相手を、そう簡単に切り捨てられるだろうか。少なくとも私には無理。
だけど、それでは恋人や、その他私のせいで殺された人を裏切ることになる。どうせ手にかけた家族は“罪悪感”の“ざ”の字も抱いていないのだし、後者については忘れ去っている可能性もあるから、せめて一番の要因となった私だけは忘れないでいたい。そしてその償いの意味も込めて死ぬのだ。正確には、このぐちゃぐちゃに拗れて、どうしようもできない現状から目を背ける“逃げ”の行為だけど、同時に思うのだ。
私が自ら命を絶てば、彼らも少しは気づいてくれるのではないだろうか、と。
いや、どうか気づいてほしい。自分達の真っ直ぐ過ぎる感情が、一人の家族を追い詰め殺したのだと。それが私にできる、唯一の仕返しだ。
それくらいは許してほしい。だって、家族のぶっ飛んだ言動と思考回路で私が精神的苦痛を味わったのは事実だからね?慰謝料的な感じでさ。…まぁ私が死んだら、ヴィーラの血が生み出した愛──弟妹が私に懐いてくれるのは、幼少期から母親の如く面倒みてきたからだろうけど、あそこまでの激しい執着に関しては絶対に種族のせいだと思う、そうであってほしい──は消え去ってしまうかもしれないけど、“家族が死んだ”という事実は残る訳だし、ちょっとくらいは悲しみや後悔してくれたらなぁ。…って言うのは希望的観測過ぎるだろうか。
もううんざりだ。あれこれ頭と心を悩ませるのは疲れた。精神的にも肉体的にも辛くて苦しい。「逃げるなんてズルい」と思われるだろうが、他人から何て言われようと構うもんか。そうやってうだうだやってるうちに、恋人が死んだのだから、私はもう迷わない。躊躇わない。今まで考えてきたことを実行するだけ。私をこの世に繋ぎ止めていた人はもういない。最後の最後に背中を押したのが、他ならぬ血を分けた兄弟とは、世の中皮肉なものである。神様はとことん悪趣味だ。
私は見上げた夜空に向かって、再度大きく深い息を吐き出した。暗くて深い海のように、黒に塗り潰された空。脇に置いたランタンの灯りだけでは、頼りなさすぎて何も見えない。空に翳した手の先もだ。濃い闇が世界を覆っている。私にとっては、明けることのない闇だ。彼が死んで、私は光を失ったのだ。
一頻り、何も見えない空を見上げたあと、私はようやく起き上がった。ランタンを持ち上げて、最後にもう一度彼の眠る場所へ目を向ける。
死んでしまったら、彼の顔や声を思い出すことも、名前を呟くこともできない。私は悪人で、彼は善人だから、死後の世界ですら一緒になれないかもしれない。また生まれ変わる保証なんてないし、生まれ変わったとしても再び出会えるかどうかも何もわからない。だけど、彼に最後に伝える言葉はこれしか思い付かない。
「……またね」
なんとなく、「さようなら」は違う気がする。それでは、なんだか寂しい。
「ごめんなさい」とか、「ありがとう」も違う。だって私が謝れば、「カヌレ様が謝ることなんて、何もありませんよ」と微笑んでくれるだろうから。
私がお礼を言えば、「おれの方こそ、ありがとうございます」と目を伏せるだろうから。
私の妄想でもなんでもなく、彼はそういう人なのだ。謝れば逆に謝られるし、感謝すれば逆に感謝される。その応酬になるから、謝罪も感謝も最後の言葉には相応しくない。どちらも何度言っても言い足りないし、出会えたら何度だって言うから。今は一旦、彼に別れを告げるのがいい。 再会を約束して、「またね」と言うのが一番だ。
私は薄く微笑んで、辿ってきた道を引き返す。心残りはもうない。後は、自分の屋敷の自分の部屋に帰って、この世からもおさらばするだけだ。
鼻唄さえ歌い出しそうな気分を抱えて、ランタンを持つ手を顔の高さへ引き上げる。墓地のある丘からは、私がバター大臣に就任してから建設し、3年間治めてきた町並みを見下ろすことができる。今夜は見えないが、さらにその向こうには、揺らめく夜の海が見えるのだろう。
やはり、なんだかんだ言ってもこの世界は美しいのだと、私はしばしその景色を目に焼き付けた。
*
屋敷の様子は、私が外出した時と何ら変わっていなかった。そりゃあそうだ。時刻は真夜中。住み込みの侍女も使用人はほとんど全員が眠っているし、ママに与えられた部下達は町にある自宅へ帰っている上に、ホーミーズ達だって夢の中だ。今夜私が外出したことを知る者は誰もいない。
この豪華な屋敷もこれで見納めかと思うと、なんだか感慨深い。子供なら誰もが憧れるお菓子の家。窓ガラスはキャンディ、柱や壁はビスケット。マーガリン島に限っては、家具等にマーガリンが使われている。いつも甘い香りが漂う、けれども贅を凝らした造りの屋敷だ。マーガリン島を任されてから2年間は住んだ我が家。今になってみると不思議と懐かしさのようなものを感じる。
裏口から屋敷の中に入ると、足音を立てないように階段を上り、自分の部屋へ向かう。部屋に戻って、身の回りを整理して、腹を括ったら、いよいよ旅立の時である。
部屋に到着すると、鍵穴に鍵を差し込んだ。しかし、すぐに首を傾げることになる。鍵が開かないのだ。…というより、鍵が開いたままになっているのだ。
…私、部屋の鍵、閉めてから出て行ったよね……?
私はしばし立ち尽くす。昔から、寝るときは必ず部屋の鍵をかけている。料理人見習いが、就寝前に飲むホットミルクや紅茶を運んで出ていった後に鍵をかけるのは、毎夜のルーティンでもある。忘れたことはない。今夜だって間違いなくそうした。バルコニーから出ていく前に、ちゃんと戸締まりは確認した。…今夜に限って忘れていたのだろうか。色んなことに気を取られて、うっかりしていたのだろうか。
だが、すぐに私は気を取り直した。別に、鍵が開けっ放しだったとて、何の問題もないことに気がついたのだ。何かを盗まれたとしても、どうせもう死ぬのだから一向に構わないからだ。そもそも、ここにいる侍女や使用人達の中に、そういう下心のある者はそうそういない。それは私だけでなく、ママを裏切ることになるからだ。それはすなわち死を意味する。盗みごときで命を捨てようとする者もいないだろう。
だから私は、躊躇うことなくノブを握って扉を開いた。部屋の中は暗いが、特に変わった様子もない。灯したままのランタンを一応翳してみるけれど、誰かが侵入した形跡もない。別に全然問題ないけどな。
そう、後ろ手で扉を閉め、内側から鍵をかけた瞬間だった。視界の端で、何かが動いた。
「!!」
その場を飛び退いたのは、体が無意識に反応したからだろう。弾みでランタンが激しく揺れる。上下に動く灯りの中、照らされたのは人影だった。私がついさっきまで立っていた場所にいる。…と思ったら、一気にこちらへと踏み込んできた。
空気を切り裂くような鋭い音がして、私は再び後ろへ退いた。脳を経由することなく、体が勝手に動いている。ママ譲りの運動神経の賜物だろう。
大きく空振りしたせいか、人影がよろめいた。それに気づいた私は、人影の手を勢いよく蹴り上げた。こんなにダイナミックに人蹴ったの、「前世」も含めて初めて。体っていざというときちゃんと動くんだね。
自分で自分に感心していると、カラン、と金属が床を転がる音が聞こえた。ランタンを向ければ、そこには短刀が。人影が取り落としたのだ。空気を裂く音の正体はこれだったわけだ。相手は私を殺すつもりだったらしい。
のけ反った人影が、短刀を取ろうと動き出す。それより早く短刀を踏みつけて、私は人影の脚をヒールで蹴りつけた。小さな悲鳴を上げて、相手が尻餅をつく。いい感じに弁慶の泣き所に入ったから、さぞ痛かったろう。私もまさかここまで見事に決まると思ってなかったから、めっちゃびっくりした。
とにもかくにも、人影が動けなくなったことを悟った私は、一体誰の仕業なのかを確かめようと、ランタンを向けた。そして、大きく息を呑んだ。
「お前は…」
ゆらめく光の中、床に尻餅をついて痛みに呻いていたのは、この屋敷で働く料理人見習いの青年だった。毎夜私の部屋に、飲み物を運んでくれた青年である。その彼が、私を殺そうとしたらしい。……どういうこと?
何がどうなっているのかさっぱりだ。
私は青年の顔を見下ろしながら、どうしたものかと考え込む。
せっかく後腐れなく今夜死ぬつもりだったのに、面倒事持ち込むなよ。
そう言いたいのをぐっと堪えて、私は口を開いた。
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