ある青年の独白
「君だけだもの、本当の私を知っているのは…だから、私達は共犯者だよ」
“運命のあの日”、生きる意味も気力も失った人生を今日まで引き延ばすことができたのは、この心を焼いた復讐心だった。己から全てを奪った海賊に報いを。自分が味わった絶望を彼らにも。その為の生贄は、初めから決まっていた。そもそもの原因は、そいつにあったからだ。
「だから、一緒に堕ちていくの」
ビッグ・マムのお気に入り、シャーロット・カヌレ。その懐に入るのは、難しいことではなかった。カヌレの屋敷にはホーミーズはいないし、カヌレ自身が使用人達を信頼していることもあり、彼らに不審がられることがなければ何も問題はないからだ。
いつでも殺せると思っていた。毎日顔を合わせ、厨房では彼女の口に入る料理に触れている。何よりも、夜には彼女の寝室に飲み物を運ぶ役目も任されたのだ。復讐はすぐに成る。そう思っていた。しかし。
「私達にはもう、失うモノは何もないのだから」
形良い唇が、そんな言葉を溢した。女の顔を見る。血の気の通わぬ白い面差しの中で、瞳の青さが際立っていた。海より空より青いそれは、今まで何度となく間近で見てきた。それなのにこんな状況だからなのか、今夜に限って目を逸らすことができない。ゆえに、呑まれてしまう。自らの意志で動いているはずなのに、ゴブレットを持ち上げる腕が震えているのはなぜだ。思考が青一色に塗り潰されたようなこの感覚は、一体何なのか。
やがて、カヌレが差し出したマッチ箱を受け取り、自分が後戻りのできない領域に足を踏み入れたと理解した時、青年はようやく思い知った。ビッグ・マムの他の子供達と異なり、一切の戦闘能力を持たないカヌレの首に、なぜ懸賞金がかけられているのか。彼女の身に流れるヴィーラの血が、なぜ疎まれるのか。
一顧傾国。一顧傾城。
カヌレには、…いいや、ヴィーラにはそんな言葉が相応しい。
“傾国のカヌレ”。世界政府がそう呼ぶ目の前の女はまさに、理性を溶かし、国を滅ぼす魔性だった。
*
一度カヌレの寝室を離れていた青年が戻ってきたのと、ゴトリという鈍い音が聞こえたのは、ほとんど同じだった。そろりと扉から顔を覗かせれば、カヌレがベッドで仰向けに倒れているのが目に入った。足元にはゴブレットと、中から零れた水に泳ぐ錠剤が転がっている。一体いくつ睡眠薬を隠し持っていたのかと、半ば呆れるように青年は笑った。それは、侍女を始め使用人達が、あの日以来まともに眠らない主人を案じて、善意で用意した代物だというのに。
青年は静かにベッドに近づき、その脇に立った。唯一ビッグ・マムに似た色の髪を払い、その面差しを目に焼きつけるように眺める。美しい人だと、初めて見えた時と寸分も違わない感想を抱いた。そうだ。この人は美しいのだ。1年以上仕えてきたから知っている。カヌレは、容姿はもちろんその心根の奥の奥まで美しいのだと。そしてそれ以上に優しいのだと。彼女を殺す為に生きてきた己が、その決心を鈍らせてしまうほどに。
この海を生きる者の内、“ビッグ・マム”の名を知らぬ者はいないだろう。幼少期より多額の懸賞金をかけられた、凶悪で残忍な海賊。44人の子供達と共に、一つの王国を築いた女王。甘いお菓子が大好きで、お菓子の為ならば国をも滅ぼす。それが、ビッグ・マムことシャーロット・リンリンという海賊である。
子供達も、幼いながら危険な海賊ばかり。中でも長男と次男の危険度は、懸賞金額からも容易に察せられる。今はまだ年少の子供達も、いずれは兄達に勝るとも劣らない海賊になっていくのだろう。
料理人を夢見る若者を演じて、下げたくもない頭を下げて万国に入国し、カヌレの下で働き始めてからも、かねてより抱いていた“ビッグ・マム海賊団”のイメージと実態の間に大きな差はなかった。唯一の例外、カヌレを除いては。
“傾国のカヌレ”の手配書が世に発行された時、その美貌に世間は湧いた。同時に、美しさの下に毒を隠した悪女なのだろうと誰もが思った。青年の故郷が滅んだ後には、「シャーロット・カヌレが気に入ったコーヒー豆を強奪するために、弟妹達に町を吹っ飛ばさせた」という話が出回り、前述の評価を裏付けた。「見てくれが美しかろうとも、所詮は海賊の娘」というのが、大半の人間が描くカヌレの姿である。青年もそうだ。寧ろ、当事者であるだけに彼女への憎悪は、他と比較にならないほどだった。そんな女を殺すことへの躊躇いはなかった。
だが、実際に目の当たりにし、料理人見習いとして仕えるうちに、知ってしまったのだ。ただ美しいだけの、冷酷無慈悲だと思っていた女の素顔を。
「何一つ、知らなければよかったのに…」
例えば、青年が淹れたコーヒーを飲めば、「美味しい」と喜ぶことを。
弟妹達のわがままに振り回されれば、「いい加減にしなさい」と怒ることを。
恋人が微笑めば、楽しそうに笑うことを。
どれも知らなければ、すぐにでも殺せた。ごく普通の、どこにでもいる女性と変わらない内面さえ知らなければ。大切な己の姉と、重ねたりしなければ。いいや、重なるような女性でなければ。世間が思うような、残酷な女だったならば…
己の決心が鈍り始めたのは、いつからだったろう。きっと青年が見てみぬふりをしていただけで、振り上げた刃を落とす先は早々に見えなくなっていたのだと思う。仇を討ちたいという思いと、この人を殺したくないという思いの板挟みで、決心がつかず徒に時間を浪費した。そこへ追い討ちをかけるように、3ヶ月前の事件が起きた。
この屋敷に仕える者ならば、皆知っている。カヌレが気に入っていたジャム屋の店主が、実はカヌレの恋人であったこと。あれは、火の不始末による事故ではなく、カヌレの弟達が引き起こした事件だと。言われるまでもないことだ。そうでなければ、いくらマーガリン島の建造物が燃えやすいとしても、一人の人間が骨も残さず消えるはずがない。誰かの能力でなければ。…それに、あの夜カヌレに同行した侍女達が嗅いだという、キャンディの香りの説明がつかない。
もちろんカヌレも百も承知だろう。それでも、弟妹達の前ではいつも通りの自分を演じているのだ。それと引き換えに、毎夜この部屋で浴びるように酒を飲んで、発狂して泣き叫ぶ。見かねた使用人達が、睡眠薬によって強制的に眠りに就かせなければならないほど、心身ともにボロボロになっている。そんな姿を目の当たりして、なお殺意を保ち続けることができる人間がいるだろうか。少なくとも、青年には無理だった。だが同時に、苦しかった。
大切な者達と一緒に死ぬこともできずにおめおめと生き延びたのに、仇討ちすらもできないのか。
そう、自分を責め続けた。不甲斐ない自分を呪った。そんな中で、カヌレの狂気に気がついた。
青年を除く使用人達は、最近になってようやく主人が平静を取り戻したことを喜んでいる。…が、青年にはわかる。平静に見えるのは、カヌレが一線を超えて、後戻りできないところまで壊れてしまったからだ。青年が一見して“まともな人間”に見えるのと同じように。
死ぬつもりなのだと気づいたのは青年だけ。
奇しくも、恋人が死んで3ヶ月目の夜、ビッグ・マムも大半の子供達も万国を離れる。カヌレはこの日に死ぬだろう。…それならば。どうせ死ぬのならば、誰の手にかかっても同じことではないか?自殺だろうが他殺だろうが、“カヌレが死ぬ”という結末は変わらない。それなら、ここで青年が手を汚せば、仇討ちを果たしたことと同義ではないだろうか。
カヌレを殺すことは避けたい。だが、当の本人が死にたがっている。それを手助けするだけなら、青年が殺したことにはならないはず。だけど、カヌレが死ぬことは確かだから、仇討ちを果たしたことになるのでは…?
青年の思考も、随分前からまともでなくなっていた。でも、この板挟みの感情から逃れるにはこれしかない。だから刃を再び握って、“ビッグ・マム海賊団の為に家族が死んだ”という事実だけを胸に刻み、カヌレを責め立てた。精神的に追い詰められた者を更に追い詰める最悪の行為だが、女の心に傷つく隙間はもう残っていまい。故に、青年の良心も傷つかない。そんな隙間が残っているのなら、自分もカヌレも死を選ばない。唯一心が動かされたとすれば、泣きながら笑う壮絶なその顔を見た時だろうか。
涙を流した理由を、女は答えなかったが、青年にはわかる。使用人達から聞いた話を踏まえれば、察することができた。
青年の故郷が焼け野原になった日から、カヌレは自分を責めていた。弟妹達の振る舞いの根底にあるのは、“姉を守りたい”という純なる思いだと知っている。けれども虐殺を許容できないから、確実に精神は削られる。そこから逃れたくて縋ったのが、ジャム屋の店主。それをまたしても、姉を守ろうとした弟妹によって失った。
憎んで然る家族を、カヌレは責められない。だから、全ての矛先が自分に向かうしかうしかなくて自壊した。一度壊れた人の心は、自力での修復は不可能だ。カヌレにも青年にも、癒してくれる相手がいないから、ただ狂い続けるしかなかった。
「いや…あなたは、おれよりイカれてた」
どれだけ覚悟を決めていても、自死への恐怖は拭えないはずだ。青年もそう。殺される覚悟はあっても、自分で自分の命を絶つ勇気はない。と言うのに、女は自分の手で死にたいと言った。自分の人生だからこそ、最初で最後の自由が欲しいと。こんなに壊れた人間は見たことがない。皮肉にもその壊れ具合は、ビッグ・マムのそれとよく似ていると思った。
青年は、肺に溜まった息を吐き出しながら小さく笑う。契約を持ちかけたカヌレは美しく、全てが壊れていて、それでも恋人への思いは変わらない。弟妹達が知ったならば、嫉妬で狂うくらいに真っ直ぐだ。どのみち、カヌレが死ねば彼らは間違いなく狂うだろうけれど。さすがに気の毒だと思う。何を犠牲にしても守りたかった姉が、自ら命を絶つ。…なんという悲劇だろう。が、最愛を失った者のその後には興味がない。どうなるかなんて、自分の身で味わい尽くしているのだから。
そう思い、カヌレの提案を呑んだ。そして彼女から言いつけられた用事のために一度部屋を離れていたのだ。最後に一人になったカヌレは、何を思っていたのだろう。
…と、カヌレの右手が何かを握りしめていることに気がついた。それは、恋人からもらった青い小花の細工が施されたバレッタだった。それを見て、青年は今度は声を出して笑った。
最期にカヌレが青年に頼んだのは、弟妹からもらった誕生日プレゼントを宝物庫へ運ぶこと。特注の首飾りも、加工された花冠も、愛用していた品々も、メッセージカードの詰め込まれた飾り箱も全て。不思議に思いながら従ったが、なるほど。恋人との思い出だけを抱えて死にたかったのか。
…つくづく、哀れな兄弟達だ。一生報われることのない、徒労に終わるだけの愛を重ね続けるとは。
原因は、カヌレの本心を理解できなかったことだ。その点では、恋人もおそらく同じだろう。骨の髄まで共鳴できたのは、自分だけ。この、誰より美しい女の全てを知っているのは、自分しかいない。しかも、死後に共にあることを望まれている。それがどれほどの優越感を生むのか、カヌレは知っていたのだろうか。
いや、きっと知らなかっただろう。そんな計算などせずとも、ヴィーラは魔性なのだから。意図せずとも理性を溶かし、人も国も簡単に滅ぼしてしまうのだから。現に青年の故郷は滅んだ。次に破滅するのは、青年自身だ。
弟妹達が慕い、憧れるカヌレ。
兄弟の多さゆえに、独占できないカヌレ。それを我が物にできる。彼女を求めた弟妹でもなく、愛し続けた恋人でもなく、憎み続けた己が手にできる。誰の手も届かぬ地の底で。…こんな復讐、他にない。
『君が淹れてくれたコーヒー、とても美味しかった』
そう笑った女が手に入る。自分を待っている。家族にも友人にも恋人にも会えないけれど、恨みを晴らしたかった相手が、焦がれ続けた存在が手に入るのなら――
「…カヌレ様」
取り出したマッチに火を灯す。ゆらりと揺れるその向こうには、最早自力で目覚めることが叶わないほど昏睡したカヌレ。
「先に行って、待っていてください」
ここは、マーガリン島。マッチ一本でもよく燃える。すぐに使用人達を避難させなければ犠牲が出かねない。無実の死者を生み出すことを許容することは、いかに狂ったカヌレにも青年にもできない。が、それさえ終われば自由だ。
「すぐにそっちに行きます」
その前に存分に、あなたを失い泣き狂い、または怒り狂う、あなたの愛する家族の姿を目に焼きつけて、あなたの元へ向かおう。
いつからここまで己の心は歪み、狂ったのだろう。大切な者達を失ったからか。ヴィーラの情熱的な誘惑に負けたのか。多分両方だ。もうどうでもいいことだが。
カヌレを見下ろして、青年は燃えるマッチを床へ落とした。
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