己の罪を問え
あれは、虫の知らせだったのかもしれない。
今ならばそう思うと、カタクリは振り返る。それは、万国を出航する直前の出来事。
…――あの時、見送りに来ていたカヌレの顔を見て、えもいわれぬ違和感を覚えた。何と言えばいいのか、妙に胸がざわめいたのだ。この違和感の正体が知りたくて、姉を呼び止めた。両手を握って、真っ青な瞳を覗き込んだ。呼び掛けて、気のない返事が返ってきて…いつもと変わらないやり取り。だと言うのに、どうしても不安が拭えない。カタクリを見上げるカヌレの顔は、全くいつもと変わらないのに。どうしてこうも離れがたく思うのだろう。たった一月ばかり、離れるだけだ。今までにもよくあったこと。なのに、どうして。カヌレから離れてはいけないと、どこからか声がするのはなぜだろう。
だが、どれほど姉と向き合っても、その名前を呼んでも、違和感の正体を掴むことはできなくて。いつまでもそうしていられないからと、後ろ髪を引かれながら姉に別れを告げたのだ。あれは、虫の知らせだったのだろう。実際にカヌレが死んだ今となっては、強くそう思う。それだけに、カタクリは自分を責めた。
もしもあの時、違和感の正体に気づいていたならば…いいや、カヌレの未来を知ることができたなら、最愛を失わずに済んだのに、と。
*
国を挙げての葬儀が終わり、シャーロット・カヌレの訃報が新世界でも広く知られるようになって数ヶ月。
万国は一見して、あの悲劇から少しずつ立ち直り始めたように見える。だが、シャーロット家の子供達の時は止まったまま、一向に前に進みそうになかった。進めるはずがなかった。だから未だに、巨城の裏手に築かれたカヌレの墓を訪れる者が後を絶たない。兄弟姉妹が皆人目を忍ぶように、一人で姉に会いに行く。ゆえに、色とりどりの花々が絶えない。だがカタクリにしてみれば、美しい花を飾れば飾るほど、その下に“何も埋まっていない”虚しさが募るばかりに思えた。
姉の遺体は見つからなかった。骨の一本、肉片の一欠けらもだ。遠い空を焦がした炎が、姉の全てを奪い去ってしまったから。それでもカヌレの死が確定したのは、カタクリ達が万国に帰国した前日…すなわち、遠征に出てから3週間後、マーガリン島にある森の中で首を吊った青年――身元はすぐに判明した、火事の夜に使用人達を避難させたのが他でもないその若者だったからだ――の遺体と遺書が見つかったためだった。
曰く、青年はかつてビッグ・マム海賊団が滅ぼした町の生き残り。復讐を誓い、ビッグ・マムのお気に入りであるカヌレを殺そうと、万国へやって来た。誰にも怪しまれることなくその懐へ入り、そうしてカヌレを手にかけ、屋敷に火を放ったのだという。ちょうど、青年の故郷が業火に巻かれてこの世から消え失せたのと同じように。
それを聞かされた者達の気持ちが想像できるだろうか。これまでの人生で感じたこともない怒りで、頭がどうにかなりそうだった。
ビッグ・マム海賊団への復讐だというのなら、なぜ実際に町を焼いたカタクリ達へ矛先を向けない。なぜ何の力も持たない姉を狙った?1年間も姉に仕えていたのなら、彼女が人どころか虫も殺せないほど、優しい人だと知っていただろう。なぜそんな人を手にかけることができたのか。
お気に入り、かつ稀少性の高い娘を奪われ怒り狂った母の手で、青年の亡骸は細切れにされて灰も残さずに焼かれたけれど、そんなことで気が晴れる訳がない。
大切な家族を失った。縋りつく亡骸もない。手元には、共に過ごした記憶と写真だけ。今は鮮明な記憶もいずれは色褪せてしまうから、結局は写真でしか姉を偲ぶことができない。そして写真は動かない。あの穏やかな声を聞くことも、優しい温もりに触れることもできない。残されたのは“罪だけだった。
カヌレの死後間もないうちは、青年への激しい怒りでそれ以外のことは何も考えられなかった。だが、葬儀は終わってほんの少しずつ心に余裕が生まれてくると、それまで怒りと悲しみで曇っていた目に、次々と残酷な事実が映り込むようになった。
火事が起きたのは、3ヶ月前にカヌレの恋人が殺されたのと同じ日にち。兄と弟が男の自宅を訪れたのと同じ時間。両者に共通する、“火事”。何よりも明らかなのは、3ヶ月前のお茶会の後から多数の人間――と言っても気が付いていたのは、兄弟姉妹とカヌレの使用人達くらいのものだろう――が認識していた、カヌレの尋常ならざる様子。
あのお茶会の日、すでに恋人の死を知っていたであろうカヌレは、いつもと寸分違わぬ姿を見せていた。恋人が誰の手によって死んだのかもわかっていたであろうに、ペロスペローやオーブンが声をかけても、いつもと変わらぬ微笑と声音で応えていた。だから、安心していたのだ。姉がどんなつもりであの男と恋人関係にあったのかは知らないが、所詮は、その死にもほとんど動揺しない程度の関係だったのだと。やはり姉が一番に愛し、大切に思っているのは、家族なのだと。
だが、お茶会の翌日からだったろうか、カヌレの様子が目に見えておかしくなったのは。
呼び掛けても、返事がない。
子供の時から好きだったお菓子作りに、突然興味を示さなくなった。
嗜む程度だったはずの酒の量が一気に増えた。
化粧で多少は誤魔化していたものの、白い肌にくっきりと残る隈と、充血した目。
…挙げればキリがないが、日を重ねるごとに、姉は“いつものカヌレ”の姿からかけ離れていった。それでも平素と変わらぬように振舞おうとするから、大半の人間はその不調に気づかなかったに違いない。だが、カヌレを愛してやまない弟妹や、身近に仕える使用人達にはわかった。間違いなく、カヌレは精神に異常をきたしている。その原因は、恋人の死であると。カヌレにとってあの男は唯一無二の存在だったのだ。シャーロット家の子供達が長女を唯一無二の最愛と感じていたように、姉にとっては恋人こそが、なくてはならない存在だった。その死に、心を壊してしまうほど。…その事実は、子供達を揺さぶるのに十分だった。
最愛の家族が、家族以外の人間を愛した。家族であっても誰か一人のモノにならない姉を、赤の他人が独占している。実の家族ですら羨む気持ちを止められないのに、それが赤の他人となれば猶更許せるはずがない。何より母が許さない。自分の意に沿わぬ行動を取る者は、我が子であっても絶対に許さないのが母である。真実を知れば、姉も粛正されてしまうだろう。大切な姉を、見ず知らずの他人の為に失う訳にいかない。だから殺したのだ。そこに嫉妬が含まれいたことは事実だが、カタクリ達とてわかっているのだ。男を殺せば、傷ついた姉の恨みを買うことくらい。それでも実行したのは、ただカヌレを愛しているからだ。失いたくないからだ。
そんなある種の覚悟すら決めて、男を殺した。姉は平然としていた。それを見て、カヌレに憎まれる事態は回避できたのだと安堵した。しかし、カヌレは日を追うごとに壊れていった。
姉が壊れていく度に、良心の呵責と狂うほどに愛された男への嫉妬に苛まれた。姉の言動が不可解なものになればなるほど、どれほど恋人を愛していたのか見せつけられているようで、最早怒りすら湧かなかった。この3ヶ月間あまり会わなかったのも、狂っていくカヌレをこれ以上見ていられなかったからだ。久々の邂逅があの港で、若干の窶れは窺がえたものの、顔色もそれほど悪くはなかったし、振る舞いも以前とそう変わらなかったから、少しは立ち直ってくれたのかと思った。このまま時間と共に恋人のことを忘れて、自分達との仲が多少拗れたままでもいいから、せめて事件とは関係のない弟妹達の前でだけでも、いつもの姉に戻ってほしいと願った。その結果がこれだ。
…あぁ、そうだ。首を吊った、あの青年。彼は確かに、カヌレを殺そうとしたのだろう。火を放ったのも彼だろう。だが、そこにあったのは本当に青年の“復讐心”だけだったろうか。愛する男の月命日に、同じ時間、同じ方法で死にたいと願ったカヌレの意図がなかったと言えるだろうか。両者が混じり合ったから、姉は死んだのではないか。母を筆頭に大半の家族が万国を留守にし、共に留守を任されたペロスペローも、火を放ってしまえば手は出せない。そんなしたたかな計算がなかったと言えるのか。もしそうでないなら、なぜそれまで確かにカヌレの部屋に保管されていたとの証言のあった品々が、火の手の届かなった宝物庫にあったのか。どれもカヌレの20歳の誕生日を祝う、弟妹からの心の籠ったプレゼントだったのに。
その思いすら拒むのか。ただ、嘘偽りなく愛していただけなのに。そこまであなたは、あの男を愛していたのか……――
「カタクリ」
顔を上げる。目の前にペロスペローが立っていた。そこでようやく、考え事をしながら歩き回るうちに、カヌレの墓にまで足を運んでいたことに気が付いた。兄は今日もまた、カヌレに会いに来ていたらしい。
「ぺロス兄」
ここに来るつもりはなかったが、カタクリは何となく兄の隣に並んだ。視線の先にある墓には、薔薇の花束が添えられている。ふと、幼い頃にブリュレが、花にはそれぞれ花言葉があって、特に薔薇の花は本数によって意味が異なるのだと教えてくれたことを思い出した。11本の薔薇の花…その意味は一体何だったろうか。
「私が持ってきたんだ。…あれほど、姉さんに相応しい花はないだろう?…まぁ…姉さんの美しさの前には、どんな花も霞んで見えたモンだがな、ぺロリン♪」
カタクリが何を見ているのかに気づいた兄がそう言った。カタクリは黙って頷く。
「おれ達はこの先、決して忘れることはないだろう。カヌレ姉と過ごした日々も、注がれた愛も優しさも、向けられた笑みも」
「……あぁ」
「だが、まだ幼い兄弟達はどうだ?…これから生まれてくる兄弟達は?…あの子達には、写真でしか教えてやれない。“シャーロット家の誇り”と呼ばれた、誰よりも美しくて、優しい姉さんのことを…」
兄の言いたいことはわかる。特に年少の弟妹には、カヌレの記憶は残らないだろう。カタクリ達ですら、どれほど忘れたくないと願っても、当時のままに記憶し続けるのは不可能だ。写真が残っているだけマシだと思うしかない。だが、ペロスペローはそんなカタクリの応答に首を横に振った。
「おれ達兄弟は全員父親が違う。だから、容姿もあまり似ていない。…カヌレ姉は特にそうだ」
「…遺伝的な理由から、ハーフの子供はヴィーラの血を引く親に似ると聞いたことがある」
「そうだ。…事実、姉さんも髪色以外は父親に瓜二つだった」
そこまで聞いて、カタクリは自然と息を呑んだ。ペロスペローの言葉の真意を察してしまったからだ。
例えば一般的な家族ならば。家族のうちの誰か一人が死んでも、他の家族の誰かからその面影を偲ぶことができる。だが、カタクリ達は異父兄弟。カヌレは母にも兄弟にも似ておらず、遺伝的な問題で父親に瓜二つ。そして姉の亡骸はなく、まともに姉の顔を見ることができたのも、3ヶ月前のお茶会くらい。記憶には鮮明に焼き付いているけれど、それもいずれ消える。
そんな時、もしもカヌレによく似た誰かがいればどうか。ほんの少しくらいは、慰めになるのではないだろうか。もしもそれが、カヌレの実父だったらどうか。もしも浮かべる微笑みが、娘にそっくりだったら?それが母のコレクションとして、永遠に母のモノとして在り続けたなら?…いつでも最愛の姉に会えるではないか。
「…ぺロス兄」
「カタクリ」
どろりと、滲んだ感情の名前は何だろう。
「わかっているさ。…姉さんの代わりなんてモンは存在しないし、あったとしても欲しくはない。私はただ、たった一人の姉に会いたいだけだ」
カタクリもそうだ。が、長男にとってのそれとはやはり重みが違う。カヌレは、ペロスペローが唯一寄りかかることができた存在だ。コンポートが生まれるまで、たった二人の姉弟だったのだ。そんな大切な人を、ペロスペローは目の前で亡くした。自分が、姉を守る為に殺した男を追って死んだ。そんな地獄で、狂わない方がおかしい。
「だから、カヌレ姉の父親を探す。何年かかっても構わない。誰が見つけても構わない。捕まえて、ママのコレクションに加える」
そうすれば、男は逃げられない。母は純血のヴィーラがコレクションに加わることを喜ぶだろうし、埋められない喪失感を抱えた子供達の気も紛れる。男の性格が穏やかであれば、姉と同じ笑みを見ることもできるかもしれない。何よりも、最愛の人を忘れないで済む。記憶が薄れようと、写真が色褪せようと、目の前で生きている男を見れば、いつでも愛する家族を思い出すことができる。……それは何と、素晴らしいことか。
「……わかった」
そう思った瞬間、兄の提案に同意を示していた。
男が見つかる保証はない。母に捜索を命じられて2年間、何の音沙汰もないのだ。ヴィーラ族の故郷もわからないし、そもそも母が出会えたことすら奇跡に近いのだ。それをもう一度起こすのは、限りなく困難だろう。だが、それでもやるのだ。ペロスペローが言った通り、何年かかってもいい。言動がカヌレに似ていなくてもいい。欲しいのは、その顔だけだ。
カタクリの同意を得られて満足したのか、ペロスペローはやっといつもの調子を取り戻したように笑った。
自分達が追い詰め、死なせた唯一無二の最愛。カタクリはその罪を背負わなければならない。それが、この手に残されたたった一つのモノだから。でも、だからこそ、もう一度会いたい。それ以外いらない。
そこまで思い至って、カタクリはようやく気が付いた。カヌレの死から数ヶ月、自分もとっくの昔に狂っていたのだと。
*
カタクリがカヌレの実父を万国に連れ帰ったのは、姉の死から10年近く経った頃。かつて母の写真で見た時よりも幾分老けた男は、それでも尚美しく、妹達が思わず涙を溢すくらいにはカヌレによく似ていた。
純血のヴィーラを手中に収めた母は大喜びで、上機嫌にカタクリを褒めちぎった。カタクリも満足だった。幸い男は穏やかな質だ。モンドールの本の中で、永遠に歳を取ることなく美しいまま生き続けるだろう。今はまだ無理でも、毎日顔を合わせていればいつかはカヌレのような笑みを浮かべてくれるかもしれない。そう思えば、これ以上ない成果だった。
しかし、母はそれだけで満足する海賊ではなかった。世界の強者に名を連ねる母は、誰よりも欲張りだ。欲しい物は絶対に手に入れるし、奪われた物は絶対に取り返す。
10年前、母は“ヴィーラのハーフ”という稀少な娘を奪われた。そして今、純血のヴィーラが手中にある。母の次なる目的は明白だった。
果たして、母は男をモンドールの図鑑に閉じ込める前に、31番目の夫として迎えた。母が身籠ったのは間なくのこと。その思わぬ事態に歓喜したのは、他でもない子供達。
母とその夫、カヌレの実の両親。二人の間に生まれる子供は、正真正銘カヌレの兄弟。弟でも妹でもどちらでもいい。ヴィーラの遺伝的理由からして在り得ないことではあるが、いっそ姉に似ていなくてもいい。性別や容姿、性格が異なっていても、その身に流れる血の一滴までカヌレと同じなのだから。10年越しに、姉に会える。失った最愛を、この手に抱くことができる。それだけでいい。
今度こそ大切にする。同じ過ちは犯さない。もう二度と手放したりしない。離しはしない。カヌレに捧げられなかった思いの分まで、大事に、大切にしよう。
——…そうして、月は満ち、待望の兄弟が生まれた。カヌレによく似た、女の子だった。
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