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 目を開けると、三人の心配そうな顔が視界いっぱいに広がっていた。

「カヤ!」
「よかった……」
「気がついたんだね!」

 まだ少しだけ痛む鼻を押さえて起き上がると、マダム・ポンフリーが顔を出した。明らかに機嫌が悪そうだ。

「顔に何かを食らって気絶するのは二度目ですね、ミス・フジミヤ」
「…すみません……」
「謝らなくて結構、気をつけてくれればそれで」
「…全く、仰る通りです……」
「皹の入った鼻の骨は元通りです。赤みも直に治まるでしょう。今日はこのまま泊まって、明日の朝にはもう戻ってもいいですよ」

 平身低頭する私を見て、少しは溜飲が下がったのだろう。マダム・ポンフリーはせかせかと他のベッドを見回りに行った。

「二回ともカヤのせいじゃないんだし、気にすることないわ」
「どっちも私の不注意のせいよ」
「一人であいつらを止めようだなんて、無茶だよ。鼻の骨まで折って!」
「仕方ないじゃない。ロンはマルフォイに馬乗りになってたし、ネビルはタコ殴りにされてたんだもの……ネビルはどう?」

 三人は、私の隣のベッドへ顔を向けた。カーテンで仕切られた向こうに、ネビルが眠っているらしい。「まだ目覚めてないの」と、ハーマイオニーが教えてくれた。

「でも、大丈夫だそうよ」
「そう…よかった」

 私がちゃんとしていれば、もっと早く二人を止められたのに。あの時、うっかり杖を取り落とさなければ…

「あ!」

 その時のことを思い出し、はっとする。

「杖!…ねぇ、私の杖は?」
ネビルを受け止めようとして落としたの。
「スタンド席に落ちてたと思うんだけど…」

 すると三人、特にロンとハーマイオニーが、見るからに落ち込んだ表情を見せた。

「あの、…カヤ、それが……」
「ロンと二人で探したの。他のグリフィンドール生たちにも手伝ってもらって…だけど、ごめんなさい…どうしても見つけられなかったの」

 えっ、と言葉に詰まる。何か言おうとしても、声が出てこない。頭がさっと冷えていく。そんな私の様子に、二人が益々萎縮していくのがわかった。あぁ、二人にそんな顔をさせたくないのに。

「……わかった」

 ようやく振り絞るように出てきたのは、その一言だけ。

「…大丈夫。多分、どこか、スタンドの隙間とかに挟まってるんだと思うから、…明日自分で探しに行くよ」
「カヤ、本当にごめんよ…」
「ううん、謝らないで。…二人が悪いんじゃないもの」
「僕も一緒に探すよ」
「もちろん、私たちも手伝うわ」

 それまで黙っていたハリーが、膝の上にあった私の手を励ますように握ってくれた。ハーマイオニーはもうほとんど泣きかけだった。ロンは無言で下を向いてばかりで、目を合わせてくれない。胸がぎゅっと痛くなる。

「さぁ、面会は終わりです。帰りなさい!」

 地獄のような沈黙を打ち破ったのは、マダム・ポンフリーの一声。私たちは飛び上がった。だが、いつもなら煩わしいそれも、今の私にはありがたい。今はとにかく、一人になりたい。親友を傷つけたくないから頑張って笑顔を見せているが、本当は笑顔を浮かべる余裕なんてないのだ。

「じゃあ、また明日ね、カヤ」
「うん。お見舞い、ありがとう」

 黙ったままの二人に代わって、ハリーは何でもない調子で笑って手を振り、ハーマイオニーたちを引っ張って医務室を出て行った。マダムがすかさずカーテンを引き、三人の背を見つめる私の視界を遮る。


 私は空っぽの両手を見下ろした。

 ついさっきまで、この手の中にあった。私の杖。大事な杖。私を受け入れ、忠実だった相棒は、今ここにない。何よりも大切なものだ。大好きな祖母の形見なのだから。
 目頭が熱くなる。涙が溢れた。一滴、二滴…誰かに聞かれるのが嫌で、声は我慢する。鼻はまだ痛むけれど、心の痛みよりはマシだった。

 ハーマイオニーたちに非はない。杖を落とした自分が悪い。わかっているのに、上手く笑うことができなくて、余計に二人に罪悪感を抱かせてしまった。そんな自分が腹立たしい。
 大事な物を失くした喪失感と、魔法を行使する為の道具を持たない惨めさ、友達を苦しめた自己嫌悪で心がぐちゃぐちゃだ。どうすればいいのかもわからない。
 大勢で探して見つからなかったのなら、杖はあの辺りに無いのだろう。落として転がった拍子に、もっと離れたところへ飛んでいってしまったのだろうか。飛んでいっただけならいい。だが、もし誰かに踏まれたり、何かにぶつかったりして折れていたら…?

 悪い想像が次々頭を駆け巡る。それから逃げるように目を閉じるが、寧ろ映像をより脳裏に刻み込むだけだった。

 溢れる涙もそのままに、私は膝を抱えてそこに顔を埋めた。鼻が膝に押されて痛い、こんな惨めな顔は誰にも見られたくはなかった。しかし。

 急に、シャッと乱暴にカーテンが開かれる音がした。マダム・ポンフリーがやって来たのかと思ったがどうも違う。なら、ハリーたちだろうか。…いいや、彼らはこんな無遠慮なことはしない。一体、誰だろう。

 ゆっくり顔を上げる。瞬間、それまでのごちゃごちゃとした感情が一時的に吹き飛んだ。絶対に私を訪ねてくるはずのない人が、目の前に立っていた。冷めた印象を与える灰色の目──青あざができている、さっきロンがこしらえたものだろう──が、私の顔を認識するなり大きく見開かれた。それを見て、今自分が泣き腫らしたみっともない顔を晒していることにようやく気づく。目を擦って涙を拭いながら、私はやっとの思いで口を開いた。

「…マルフォイ?」

 開いたカーテンの端を握ったまま、ドラコ・マルフォイは無言で立っている。あまりにもそこに突っ立っているものだから、最初は驚いた私も、徐々に冷静になっていく。

 喧嘩に巻き込まれ、鼻の骨を折って鼻血を出して気絶した私。改めて考えれば最悪だし、みっともないことこの上ない。それも、価値観の違いから私を毛嫌いしているマルフォイの前で。どうせ、ハリーたちのいないこの隙に存分にからかいにきたに違いない。そもそもマルフォイが吹っ掛けなければ始まらなかった喧嘩なのに。

「カーテン、閉めてくれない?」
それに、用事がないなら出て行って欲しい。
「見ての通り、言われなくてもわかるくらい酷い顔してるから」

 自分でもわかるくらいふてぶてしい声で言い放つ。噛みついて突っかかってきたなら、マダム・ポンフリーに摘まみ出してもらおう。

 だが、我に返ったマルフォイは慌てたように背後でカーテンを閉じた。今度は、私が呆ける番だった。

(えっ……何で?)

 カーテンの内に入ってきたのは、私に嫌味を言うため?…確かに、彼は人に嫌がらせをする為ならばいかなる努力も惜しまないタイプだと思うが……杖を失くしたショックに打ちのめされている 今、マルフォイの相手をする気力はないのに。

「…ふん。あいつらは、友人の見舞いに来るのに手ぶらで来たのか?」

 さっそく攻撃してきたか、と呆れながらも投げ返そうとした言葉は、マルフォイが美しく包装された箱をベッドの上に置いたことで引っ込んだ。

「……え、っと…何?」
「見ればわかるだろう。僕は君のお友達・・・と違って、手ぶらで見舞いに来るような育ち方はしてないんでね」
『マジか』
「?」
「……何でもない」

 思わず日本語が飛び出るくらいには驚いた。スネイプ先生がハリーに加点したとしても、こんなに衝撃は受けないだろう。

 あのマルフォイが!私の!お見舞い!

 信じられない。仰天している私を無視して、マルフォイは一気に言った。

「僕だって、好き好んで見舞いに来た訳じゃない。ただ、間接的とは言え、君が怪我をしたのは僕のせいのようなところもあるから、このまま無視するのは気が引けたんだ。それに、仮にも見舞いに行くのに手ぶらで行くのは非常識だろう?見舞いと言えば花だろうが、そんなものは直ぐに用意できないし、…幸い部屋に菓子の詰め合わせがたまたま・・・・あったから持ってきただけだ」
「………ありがとう」

 ノンブレスで言い放たれた言葉を理解するのに、数十秒を要した。マルフォイの英語が早くて聞き取りが難しかったのもあるが、聞こえた内容が信じられなかったというのもある。というか、それが理由の大半を占めている。

「あぁ。味わって食べるといい。母上が僕の為に選んでくれたものだ」
「そう…なら、お母様に申し訳ないわ」
「別に。また送ってもらえばいいだけだ」
「…なら、ありがたく頂くわね」

 尊大に顎を逸らす姿が何だかおかしくて、深く沈み込んでいた気持ちが少し軽くなった気がした。マルフォイはそんな私に気づいた風もなく、ポケットに手を突っ込んで何かを取り出した。

「それと…これも…」
「……?」

 伸ばした手の中に、ぶっきらぼうに差し出された何かが落ちてくる。ころり、と掌の上で転がったのは私の杖だった。

「!……なんで、あなたが?」
「スタンドで拾った。ウィーズリーたちに渡し損ねたから、わざわざこの僕が持ってきてやったんだ、から……」

 マルフォイの言葉は、最後まで聞けなかった。一度は引っ込んだはずの涙が、またじわりと滲んできたのだ。目の当たりにしたマルフォイが、どうすればいいのかと視線をおろおろとさ迷わせる。私は杖をぎゅっと握り締めた。

「ありがとう……!」
「あ、あぁ…いや、僕のミスで持ち帰ってしまっただけだ…、お礼を言われるようなことは…」
「あるよ!この杖、私にとって本当に大事な杖なの」
「そりゃあ僕たちにとって、杖は命と同等のものだろう」
「それはもちろんなんだけど……これ、おばあ様の形見なの」

 そっと、杖の優美なシルエットをなぞる。最悪の姿まで想像していただけに、こうして無事に戻ってきてくれたことが嬉しくて仕方がない。私は一頻り杖を撫でたあと、マルフォイの方を見た。もう、涙は引いていた。

「本当にありがとう、マルフォイ。見つけてくれただけじゃなくて、わざわざ返しに来てくれて」
「……別に」

 ふん、とそっぽを向いたその頬に少し赤みが差していた。そう言えば、初めてホグワーツに来た夜、ボートから降りる手助けをしてくれたマルフォイにお礼を言ったとき、何も返事してくれなかった。やはり、彼なりの照れ隠しなのだろう。それにしても。

「あなた、意外といい人なのね」
「なっ……!?」

 思ったままを口にすると、マルフォイはばっと私の顔を食い入るように見つめ、陸に上がった魚のように口をパクパクさせた。やがて、その顔全体が赤くなったかと思うと、くわっと目を見開いて大声を出した。

「!…き、君は僕の何を知っていると言うんだっ!」
「医務室では静かに!」

 すかさず、マダム・ポンフリーの鋭い声が飛んできた。はっと口元を押さえるマルフォイだが、目は恨みがましく私を睨んでいる。私は首を横に振った。

「……何も知らないわ」
「…?」
「何も知らないのに、私、あなたのことを物凄く幼稚で嫌な人だと思ってた…」
「……僕は今喧嘩を売られているのか?」

 マルフォイの問いには答えず、私は記憶を辿ってみる。そうだ、私自身が言った通り、私は彼のことを何も知らない。いつも、ハリーやロンに噛みついたり、ネビルに嫌がらせをする姿しか知らない。それ以前に、彼の個人的なことなんて何一つ知らないのだ。“幼稚で嫌な人”という面が強いから、エスコートしてくれるような一面があることも、都合よく忘れていた。

 でも、実際の彼はお見舞いの品を片手に、非はなくても謝罪し、私の杖を直接返すために会いに来てくれるような、優しいところもある。こんな一面があったなんて知らなかった。大叔父が言った通り、“スリザリンだから”なんてレッテルを貼るのは正しくない。
 彼の性格が最悪なのは事実だけれども、それが全てではない。紳士な面も、優しい面もある。好意や感謝に照れる一面も。

「私、あなたのこと何も知らないわ」
「僕だって、君のことは知らないし興味も…」
「でも、理由はわからないけど…あなたのこと、もっと知りたいと思う」

 その手を掴んで、彼を見上げる。ぼんっという音が聞こえてきそうな勢いで、その顔が赤くなっていく。

 湯気が出そうだなと考えていると、マルフォイは私の手を振り払った。そして、「…っ!……ばっ、…勝手にしろっ!」という捨て台詞を吐いて、カーテンから飛び出して行ってしまった。「走らないっ!!」とマダム・ポンフリーが怒鳴る。

 怒らせてしまっただろうか?本心を伝えただけなのに。それにしても、なんて沸点が低いのだろう。次から彼の性格を語るときは、“幼稚”と“性悪”に加えて“短気”も付け足さないと。

 …まぁ、彼の性格の善し悪しはともかく、杖を返してくれたマルフォイは恩人に値するのだ。今度、何かお礼を渡さないと。

 それに、無事に杖が帰ってきたのだから、これでハリーたちに余計な心配をかけさせずに済む。早く三人会いたい。会って、謝らないと。

 そう思い、返ってきた杖を満足気に見つめてから、私はベッドに身を沈めた。