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「あーあ、平穏な生活って、どんなものかなぁ」
ロンが、近頃彼の口癖となった台詞を吐き出した。すかさずハーマイオニーの氷のような視線が飛んだが、ロンは無視を決め込むことに決めたらしい。そちらを向きもしない。代わりにその視線に晒されたハリーは、居心地が悪そうだ。
「毎日毎日課題の嵐、問題は山積み。“賢者の石”にドラゴン…次は何が来るかな」
ロンの言うことには一理ある。私たちの身の回りを取り巻く難題は一向に減らない。寧ろ増えるばかりだ。
新しい問題は、ハグリッドが賭けに勝ってドラゴンの卵を入手し、それを孵化させようとしていることだった。ハグリッドがドラゴンの本を探していたのは、ドラゴンを飼育するためだったのだ。
その話を聞いた瞬間、私は飲んでいた紅茶を、正面にいたハリーに盛大に吹き出してしまった。当然ハリーは激しく抗議したが、「そりゃ吹き出しもするさ…」というロンの言葉のおかげで、私の反応が至極全うなものであることを知り、ドラゴンという生き物が魔法界においてどう認識されているのかを理解したようだ。
「“賢者の石”はともかく、ドラゴンの次は試験だよ」
そう言うと、ロンだけでなくハリーからも呻き声が上がった。
「もうどの科目も終わってる」
「今から頑張ればいいじゃない」
「僕ら、今から頑張ったところでどうにかなる頭は持ってないよ」
「やってみないとわからないでしょう!」
ハリーは恨みがましい目で私を見た。
「ハーマイオニーも君も、頭が良くて羨ましいよ」
「私が得意なのは変身術だけ。他はまぁまぁのレベルだし、魔法薬学は一番苦手だって言ったじゃない」
「授業中は、そんな風には見えないけどね」
「板書と先生の説明があれば何とか…レポートはとんでもない出来だけど」
少し前に返却されたレポートは散々な成績をつけられて返ってきた。内容が評価に値しないと判断されたことは当然悔しいが、何より山のような文法ミスを指摘されたことが一番悔しかった。英語でレポートを書くとなると、会話や簡単な手紙のようにはいかなくて、どの科目でも苦戦している。特にスネイプ先生の採点は厳しい。大目に見てほしいとは思わないけど、あの人は外国人だろうと容赦がなかった。
「返却されたレポートの出来を気にしてるのは、君とハーマイオニーだけだよ」
普通はレポートなんて、出せば終わり。
「わざわざ読み返したり、指摘されたところを直したり質問に行ったり……ぞっとする」
ロンは顔をしかめた。
「あのねぇ、あなたたち、少しはカヤを見習ったら?カヤは第二言語で、私たちと同じことを勉強しているの。労力は私たちの比じゃないわ」
「ハーマイオニーにそう言ってもらえると嬉しいな」
「それはカヤが特別頭がいいからさ」
「努力しているからよ!地頭の良さに胡座をかいたりしないから!」
褒められるのは気分がいいが、ハーマイオニーから溢れる私への賛辞は少し恥ずかしい。
「それに、カヤはわからないことはちゃんと質問に行ってるもの」
「それは知ってるけど。……でも、まさかスネイプの所には行ってないだろう?」
「行くけど?」
話し相手のロンだけでなく、ハリーまで目を剥いてぐるりと首を巡らせ、教科書から私へ顔を向けた。ハーマイオニーは「ほらね」と笑う。
「……嘘だよね?」
「本当だよ。なんで嘘つくの」
「だって君、あのスネイプだよ?」
「えぇ、そのスネイプ先生よ。多少の嫌みさえ聞き流せば、どんな教科書より参考書よりもわかりやすく教えてくれるもの」
「それって、僕らが知ってるスネイプの話?」
「魔法薬学の先生がホグワーツに二人もいる訳じゃないなら、きっとあなたたちが知ってるスネイプ先生の話よ」
「信じられない…!」
「カヤの心臓には、きっと無数に毛が生えてるんだろうね」と、ハリーが静かに言った。
「そんなに驚かれること?」
確かにスリザリン贔屓のスネイプ先生に質問に行くグリフィンドール生はそうそういるものではないと思うけど。マルフォイといいハリーといい、驚きすぎではなかろうか。
「でも気をつけないといけないよ?」
「?」
「まさか、忘れた訳じゃないよね?スネイプは例の石を狙ってるんだ。もし、僕らが自分を嗅ぎ回ってるなんて知ったら、どんな目に遭わされるか……」
「…それもそうね」
私は神妙な顔で頷いた。ハリーたちの中で、スネイプ先生が“賢者の石”を狙っているのは確定事項だ。私は半信半疑ではあるものの、彼らの推理は特に矛盾点も見当たらないので、ほぼ正解なのだろうと考えている。とは言え、この城の中でスネイプ先生以上に魔法薬学の知識を持つ人はいないのだから、わからないことがあれば先生を直撃するしかないし、それとこれとは話が別だと思って割り切っている。仮に先生が犯人だとしても、私に危害を加えたところで“石”が手に入る訳ではないからだ。
「今はクィレルが何とか頑張ってるから大丈夫だけど、きっとそれもそう長くは持たないだろう」
スネイプは直に、フラッフィーとクィレルが仕掛けた罠の出し抜き方を知るはずだ。
「そうなったら、もう石を守るものは何もない…」
ハリーたちがハグリッドから聞き出した、“賢者の石”を守る罠を仕掛けた先生方の中には、スネイプ先生の名も連なっていたそうだ。ハリーの言う通り、石が奪われるのも時間の問題だろう。
「ほら、さっさとやる!」とハーマイオニーに急かされ、ハリーとロンは渋々自分の課題に向き合い始めたので、私たちの間には再び沈黙が下りてきた。私は教科書を抱えたまま、遠くを見つめる。
今の私はスネイプ先生よりも、その脅しに抗っているクィレル先生の方が気になる。
マルフォイとの初の勉強会の日、指定された教室に向かう途中、クィレル先生に会った。あの時先生に違和感を覚えたことが、どうしても引っ掛かるのだ。なぜ先生は突然、家族の話を振ってきたのだろう。
クィレル先生とはそれなりに親しい。勉強のことだけではなく、他愛ない世間話をすることもある。でも、今まで一度も家族の話をしたことはない。
ただ単に話の流れからそうなっただけなら、別に何てことないのだ。だが、あの時は何の脈絡もなかったし、何より先生はいつもとどこか違っていた。上手く言葉にできないが、何となく嫌な感じがしたのだ。
「カヤ」
不意にかけられたハーマイオニーの声が、考え込んでいた私を揺り起こす。見ればグリーンとブルーの目が、すがるようにこちらを見つめていた。
「……どうしたの?」
「変身術の課題の質問があるんだけど…」
「あぁ、いいよ。いいけど、私よりハーマイオニーの説明の方がわかりやすいよ?」
「そんなことないわ。あなたの方が科目は得意じゃない。それに、私も聞きたいわ」
ハーマイオニーの期待の眼差しに肩をすくめながら、ハリーとロンが指差す箇所を覗き込むと、ちょうど昨日マルフォイが質問してきたのと同じところだった。
「…あぁ、これはね、あれこれ考え込むより、実際にやってみた方が理解しやすいと思うよ」
「実際にやってみてできない場合はどうするの?」
「完全じゃなくていいの。何となくでもとにかくやってみた方がいいわ。…ロン、スキャバーズを借りてもいい?」
「いいよ」
そう言って私は、ロンの膝で眠りこけていたネズミに向かって、すっと杖を振った。途端にそれは、嗅ぎ煙草入れに姿を変える。
「……うん、自画自賛するけど結構いい感じ」
「結構いい感じどころか、完璧じゃない!」
ハーマイオニーは嗅ぎ煙草入れを手に取って、360度から眺め回した。「そんなに完璧に出来たら苦労しないよ…」と、ハリーが呟く。
「イメージすることが大事よ。何に変身させたいのかしっかり思い描くの。コツはそれだけ」
あとはひたすら練習する。
「そうするうちに、理論の意味とか仕組みとか、理解できるようになるよ。…まぁ、本当はちゃんと理論を理解してから実践するのが一番なんだけど、言葉だけだとイメージしにくいからね」
ハリーの眉間に皺が刻まれたままなのを見て、私は自分の説明が至らなかったのだとわかった。同じ内容でマルフォイに説明したときはわかってもらえたから、大丈夫だと思っていたが……
「…ごめん。今の、分かりにくかったよね?」
「ううん、そんなことないよ!…僕の飲み込みが悪いだけだから」
ハリーは優しいからそう言ってくれるが、隣のロンの顔を見れば私の説明が悪かったのは一目瞭然だ。やっぱり、ハーマイオニーが説明した方が分かりやすいと思う。そう言うと、「そうじゃない!」と首を横に振ったのはロンだった。
「いや、そりゃああんまりピンとはこなかったけど…僕は、何で君はそんなに変身術が得意なんだろう、って感心してただけだよ」
「……ロンの言う通りね。カヤの変身術の成績は、私たちの学年でずば抜けているもの」
「マクゴナガルのお気に入りだしね」
「…ありがとう」
「ハリーの箒の才能みたいに、君のも親からの遺伝なの?」
ロンとハリーが聞きたそうにしているのは、単純な興味もあるだろうが、今この場における最大の理由は勉強に飽き飽きしているからだ。私はハーマイオニーと視線を交わした。四人での勉強会を指揮しているのは彼女だ。二人の休憩の采配もハーマイオニーが握っているのだから、お伺いを立てるのは当然のこと。
ハーマイオニーは胡乱そうな目で二人を見たあと、私に向かって肩をすくめた。それを了承の合図と受け取り、私は「…まぁ、そうね…」と答えた。
「お父様も、おばあ様たち四兄弟も、フジミヤの血を引いてる人はみんな得意なの。そういう家系、と言えばいいかのな…」
だからこそ、下の大叔父を抑えてトップを取ったマクゴナガル先生は凄いと思う。“血筋”というアドバンテージのある大叔父が勝てなかったのだから、先生の才能は本物なのだ。
「それに、この杖」
四人で囲っているテーブルに、自分の杖をのせる。
「これ、芯に妖狐の尻尾を使っているから、特に変身術との相性がいいの」
「……なるほど」
「「?」」
納得した様子のハーマイオニーに対し、ハリーとロンはキョトンとしたまま私を見上げている。
「ヨウコ、ってなに?」
「あなたたち、授業以外で教科書を開いてみようと思ったことはないの?『幻の動物とその生息地』にも、ちゃんと書いてあるわ」
「ハーマイオニー、授業中でも教科書を開いているかどうかも怪しい二人が、授業外で読むわけないじゃない」
「それもそうね」
「ちょっと、それは僕らに失礼だよ!」
憤慨する男の子たちには悪いが、そう思っても仕方がない授業態度であることに気づいた方がいいと思う。
「ふふっ…ごめんね。妖狐っていうのは、インドや中国、日本に生息する魔法生物のことよ」
狐みたいな…と言うか見た目はほぼ狐ね。
「見分け方は、尻尾が二つ以上に分かれているかどうか。マグルには、ごく普通の狐に見えるみたい。人間にとり憑いて、命を吸い取るの。吸い取った命の分だけ長生きするそうよ」
私の説明に、二人は揃って「……へぇ」と頷く。ハーマイオニーは呆れたのか、深々と息を吐いた。
「妖狐の最大の特徴は、変身術が得意だということ。それが長生きの秘訣と言っても過言じゃないくらい」
人間にとり憑くと言っても、物理的に憑依する訳じゃなくてね。
「人間の姿に変じたり、成り代わったりしてターゲットに近づいて、相手が死ぬまで纏わりついて命を吸い上げる…」
「だから変身術が得意なんだ?」
私は頷きながら、杖をローブにしまい込む。
「フジミヤ家の家紋は狐を象っているから、一族の人間は芯に妖狐の尻尾を使った杖を作ってもらうのが決まりなの。これはおばあ様の形見だから、おばあ様がホグワーツ入学前に、オリバンダーさんに作ってもらったものよ」
「なるほどねぇ…長く続く名家には、色々あるって訳だ」
「貴族ってのは大変だね」と、ロンは肩をすくめた。魔法界の序列に馴染みのないハリーは、いまいちピンと来ていないようだったが、別に掘り下げる必要のある話でもないし、ハーマイオニーが「マグルで言うところのね…」と説明してくれるのに任せた。
「でも、どうして君の家はその妖狐をシンボルにしてるの?」
しばらくして、ハーマイオニーの説明に合点のいったらしいハリーが尋ねてきた。
「今聞いた限り、妖狐はあまりいい生き物って感じがしなかったけど…?」
「……確かに。人間にとり憑いて命を吸い取るって、とんだ魔法使い殺しだよ」
二人の疑問は当然だ。妖狐は“闇の生物”なのだ、一族を示す家紋には相応しくないように思える。だが。
「うちの家の近所によく住んでる、身近な生き物だからじゃないかな?」
私たちが妖狐と一族を結びつけるのは、それなりの理由──とも呼べないレベルだが──がある。だが、それはあくまでも伝説程度のモノで、確かな信憑性に支えられている訳でもない話。だから、人に話すような話題でもない。“身近な生き物だから”というのが、私や同世代の一族の子供達の共通認識だ。
「そういうものなのね。……じゃあ、そろそろ勉強再開しましょうか?」
だから、ハーマイオニーの宣言に賛同し、強制的にこの話を終わらせた。