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──水中から浮かび上がるように、ゆっくりと意識が浮上する。それに後押しされるかのように、徐々に四肢に力が戻ってきたのを感じる。どうやら私の身は地面に横たえられ、両腕は後ろで縛られているらしい。頭は激しい痛みを訴えているし、胃がムカムカする。今にも吐きそうな、最悪のコンディションだ。でも、なぜ?
直前の出来事を思い出そうとする。
……そうだ、職員室から出てきたスネイプ先生を尾行していたんだった。だけど、途中でクィレル先生に呼び止められて、尾行を中止せざるを得なくなった。そのまま先生の研究室に呼ばれて、勧められた紅茶を飲んで試験の手応えについて話をして、それで……?
頭痛を堪えて考えてみても、それ以上のことは思い出せなかった。と言うことは、信じたくはないけれど、それが全てと言うわけだ。記憶は、クィレル先生と二人きりで話したところで終わっている。そして今、私は縛り上げられて地面に転がされている。つまり。
そう確信を持って目を開けると、真っ先に視界に飛び込んできたのは鉤爪状になった二本の足だった。目線を上へ上へ向ければ、それが背の高い鏡であることがわかった。そして、その前に佇んでいるのが誰なのかも。
「……起きたか」
体を捩りながら苦心して起き上がり、私を見下ろすクィレル先生を睨みつけた。
あぁ、信じたくはないけれど、もう答えは導き出されている。私の記憶が欠けているのは、この人のせいだ。大方、研究室で飲んだ紅茶に薬が仕込まれていたのだろう。私がかつて感じた違和感は、ただの思い過ごしではなかったというわけだ。その理由は、たった一つしかない。
「…“賢者の石”を狙っていたのは、あなただったんですね」
「ほう……そのわりには、あまり驚いていないように見えるが?」
「十分驚いています。…でも、あなたに違和感を感じたことならありますよ」
「残念だ。少なくともスネイプよりは、君に好かれていると思っていたのに」
歪んだせせら笑いから目を背ける。吃りのない話し方といい、堂々とした佇まいといい、まるで別人のようだ。一体誰が思うだろう。いつもおどおどして震えている人が、“例のあの人”の手足となって“賢者の石”を狙っているだなんて。こう言ってはなんだけど、スネイプ先生の方がよほどそれらしく見えるのに。
「……ここは、どこですか?」
「“賢者の石”が隠された、最後の部屋だ。他の教授たちの罠は全て突破した。ダンブルドアも追い払った。君もここにいる」
あとは、石を手に入れるだけ。
「今夜のうちに私はここを去る。そして、ご主人様に“賢者の石”と君を捧げるのだ」
「……私?」
続けられた言葉に思わず眉をひそめた。聞き間違いだろうか。…“例のあの人”に、私を?
私の怪訝そうな顔を見て、先生は再び薄く笑った。
「そうだ。ご主人様は、フジミヤ家の人間をご所望だ。…特に、本家の嫡女である君を」
「!」
私の聞き間違いでないのなら、先生は確かに、“あの人”は藤宮家の人間を求めていると言った。つまり、私を。
“あの人”が私達に求めるものは一体なんだ。純血であること?財力?名声?……いや、どれも他の一族と代替可能なモノばかり。わざわざ私達に求める必要はない。違う。わからない。でも、黙って従う気つもりは微塵もない。
混乱する思考を抱えながらも、私は必死に頭の片隅に残る冷静な部分を働かせる。
盗人の目星が外れていたとは言え、“石を狙う盗人が私を連れ去った”ことは、ハリーたちもわかっているはず。彼らが私の不在をマクゴナガル先生に伝えてくれれば、間もなくこの部屋に捜索の手が伸びる。“例のあの人”が関わっているのだ、ダンブルドア先生もすぐにロンドンから帰還するだろう。そうなれば、この人の目論見は失敗する。…ならば、私のやるべきことは決まっている。今ここで話を続けさせて、時間を稼ぐのだ。
「……何故、フジミヤ家に拘るんですか?」
私の投げ掛けた疑問を受けて、鏡に向き直ろうとした先生が振り返る。その視線の冷たさにぞっとしたが、私は歯を食い縛って目を逸らすことを耐えた。負けてたまるか。“例のあの人”に縋るまでに、悪の道に堕ちた人に。
「それは、君自身がよく知っているのでは?」
「……?」
だが、先生の返答は腹を括った私を動揺させるのには十分だった。私は虚を突かれて口を閉ざしてしまう。
一体何のこと?私自身が、一番よく知っていること……?
疑問符が頭の中をぐるぐると踊っている。そんな私を嘲笑うように、先生は言った。たった一言、「妖狐の呪い」と。
「!!」
吸い込んだ息を吐き出すのを忘れて、私は目を見開いて愕然とその酷薄な笑みを見つめた。懸命に走り出そうとしていた思考が停止して、頭の中が瞬く間に白に塗り潰されていく。
「アジアには、ヨーロッパには生息しない魔法生物が数多く生息している。フジミヤ家の紋章となっている妖狐は、その代表格と言っていい」
まるで授業中と錯覚するほどに淡々と、先生は言葉を紡ぎ始めた。それを、私は必死に追いかける。これがいっそ本当に授業だったら楽だったろうに、混乱し、動揺し、回らない思考を抱えた状態ではいつものように聞き取ることは難しい。でも、できなければ今よりも何倍も最悪の事態になるのは明白だから、ほとんど切れかかっている集中力を完全に切ってしまわないようにするしかない。そのプレッシャーに、額に汗が滲んできた。
「インドや中国、朝鮮半島、日本でよく知られる妖狐は、変身術に長け、人間にとり憑いて命を吸い取る闇の生物。とは言え、命を奪い尽くすような、人間に大きな害を成すような事例は極めて少ない」
それは、それができる個体が誕生することがそもそも稀だから。
「妖狐には、その個体が秘める魔力や生きて年数により、格付けが決まっているという。妖狐のランクは、その尾がいくつに分かれているか…多くの妖狐の尾が二又であるのに対し、上位の妖狐は三又、四又といった具合に尾の数が増えてゆく。その最上が、九つに分かれた尾を持つ“九尾の妖狐”…」
「……」
「そう。君の一族が今に続く栄華を極めるきっかけとなった妖狐だ。…そうだろう?」
問いかけながらも、先生は私の返答は求めていないようだった。そんなものは必要ないのだろう。自分が得た情報が真実であるという自信があるから。現に、それを否定する材料を私は持ち合わせていない。先生が口にしたのは、私が幼少期から聞かされて育ってきた内容と同じだからだ。
フジミヤ家の歴史は長い。10世紀頃にはもう、日本国内でも魔法族の一つだったと言われている。その頃に世を震撼させていたのが、妖狐の中でも格別の存在だという“九尾の妖狐”。それを討ち取ったのが、私の祖となる初代当主にあたる人物。それが、フジミヤ家の栄華の始まり。…でも、その話にはそこで終わらない。先生の顔を見るに、それさえも彼はお見通しのようだ。「しかし、それはあくまでも建前に過ぎない」と続けた。
「初代当主は、確かに妖狐を追い詰めた。だが、瀕死の妖狐の最後の抵抗を受け、呪いをかけられた。その凄まじい憎悪による呪いは一族全体にまで及び、呪いを解く術はどこにもなかったとか。だから、君の先祖は妖狐をフジミヤ家の紋章に選んだ。国を救った英雄の肩書と引き換えに、大きすぎる代償を支払った愚かさを忘れぬように」
そう。私達は妖狐を討伐することで、1000年の栄華と1000年の呪いを手にした。藤宮家の人間なら誰でも知っている、一族の始まりを物語る伝承だ。でも、これをクィレル先生が知っているのは奇妙だ。百歩譲って日本に住む魔法族なら概要くらいは知っている人もいるかもしれないが、ここはイギリス、日本から遠く離れている。ホグワーツに通った祖母達と同世代ならまだしも、クィレル先生と同年代の親戚の中にイギリス魔法界と親しくしている人がいると聞いたことはないから、藤宮家の誰かが漏らしたとも考えられない。そもそも、こんな大して面白くもない話、わざわざ外部の人間に話すだろうか。何せ呪われていると言っても、当の私たちには何の実害もないのだから。
早死にするわけでもない。不治の病に苦しめられるわけでもない。ある年齢に達すれば必ず死ぬわけでもなければ、子供が生まれないとか、生まれても男女どちらかに偏るとかいうこともない。妖狐の影響を受けているものがあるとすれば、変身術に長けているという一点のみ。それも害とも呼べない、寧ろある種才能のようなものだから、そもそも呪いの真偽自体が不明なのだ。…まぁ、一応害と言えば害になるものもあるにはあるが、それは血縁関係に作用するようなものでもないし、ここで言及する必要はあるまい。要は、私達が同じ血を共有しているが為に蒙っている害、すなわち呪いによる悪影響は特に見当たらないのだ。だから、私達はあえて何も気にかけないようにして暮らしている。魔法や呪いは精神に作用する側面があるから、過剰に怯えて足元を掬われないようにしているのだ。そうやって、我が家は1000年続いてきた。
「ご主人様は、君達にかけられた呪いに非常に関心を持っておられる。残念ながらその理由の全ては、私には教えて下さらなかったが……それでも、君が変身術に優れていることをお伝えすれば、“賢者の石”と共に必ず君を連れて行くようにと、私に命じたのだ」
だから、この日の為に君を手懐けようとした。
「尤も、ご主人様の決め手となったのは変身術ではなく、君の祖父だが…」
「……は?」
付け足された言葉に、無意識に言葉にならない声が吐く息と共に落ちた。これまで散々、“例のあの人”が私に拘るのは藤宮家の血筋だからだという話をしておいて、その決定打になったのが、藤宮家に婿入りした祖父?一体どういうことだ。祖父の実家に秘密があるとか、そういった話は聞いたことがない。純血の魔法族で、魔法省高官を輩出してきた家柄という点以外、何か特別な事情なんて……
「とくにかく、私は君をご主人様の元へ連れて行かなければならない。私が石を見つけるまで、そこで大人しく待っていてもらおうか」
言葉を返せないでいる私の様子などお構いなしに、先生は杖を軽く振った。両腕を拘束していた縄がより強く腕を締め付けてきて、その痛みから逃げようと体を捩じれば、その拍子に再び地面と衝突した。擦りむいた額も鋭い痛みを訴えてくる。思わず日本語で悪態をついたが、先生はもう私の方を振り向きはしなかった。完全に私に背中を向けて鏡を調べ始めたところを見るに、もう私の質問に付き合うつもりはないのだろう。時間稼ぎもここまでらしい。無理に聞き出そうとしてこれ以上の危害を加えられるわけにはいかない。ダンブルア先生が隠した“賢者の石”が、そう簡単に見つからないことを信じて大人しくしておくべきか。…正直、与えられた情報が多すぎてまだ上手く噛み砕けていない。命の危機に直面しているこのプレッシャーの中で、いつも通りに正確に聞き取れているのかも怪しい。少し、落ち着いて頭を整理する必要があるだろうか。
クィレル先生が“例のあの人”の為に求めているのは、“賢者の石”と私。私が、“九尾の妖狐”に呪われた藤宮家の人間であるから。でも、決定打になったのは、なぜか、藤宮家に婿入りした祖父。……一体全体、何がどうなっているのだろう。ハーマイオニーのような頭がない私は、もうそろそろ限界に近いのだが。
地に伏したまま、息を吐く。ぶつぶつと何事か呟きながら鏡を調べる後ろ姿を見ながら、早く、誰かがあの人を止めてくれることを願った。
背後の扉が開かれたのは、まさにその時だった。