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 ハリーは、今自分が目の当たりにしている現実を受け入れることができなかった。


 ハリーたちは今夜、“賢者の石”を奪おうとするスネイプを止めるため、そしてスネイプを尾行したきり行方知れずとなってしまったカヤを救うため、この場所にやって来たはずだ。ハリーの役目は、ハーマイオニーたちがダンブルドアを呼び戻すまで、盗人の足止めをするはずだったのだ。
 だが、黒い炎を越えた最後の部屋にいたのはスネイプではなかった。そこにいたのは、スネイプに脅されている・・・・・・と思っていたクィレルだった。そしてその足元には、スネイプに捕らわれたと思っていたカヤが転がっていた。


「カヤ!」
「!?……ハリー!」

 見る限り、カヤに目立った外傷はなさそうだが、実際はどうだろうか。本当は今すぐにでも駆け寄って助けてあげたいところだが、クィレルの口から語られる真実は、ハリーの意識を奪い足を縫い止めるのに十分過ぎた。


「さぁポッター、大人しく待っておれ。このなかなかおもしろい鏡を調べなくてはならないからな」
この鏡が“石”を見つける鍵なのだ。

 クィレルは鏡の枠を叩きながら、ぶつぶつと呟いている。その注意が完全に自分から離れたと悟ったのか、カヤが両手を縛られた不自由な体を捩りながら起き上がり、クィレルから離れようと動いた。ハリーも同じく縛られたまま、カヤの方へじりじりと近づく。幸いにして、クィレルは気づいていない。

 鏡と自分たちから注意を逸らすためには、話を続けさせるしかない。ハリーは悟った。

「僕、あなたが森の中でスネイプと一緒にいるところを見た…」
「あぁ」

 クィレルの返事はおざなりだった。ハリーの行動の意味に気づいたらしいカヤが、「ずっと、スネイプ先生に監視されていたのね」と口を開き、クィレルに話を続けさせようとする。

「そうだ。スネイプは私に目をつけていて、私がどこまで知っているかを確かめようとしていた。初めからずっと私のことを疑っていた。私を脅そうとしたのだ。私にはヴォルデモート卿がついているというのに……」
それでも脅せると思っていたのだろうかね。

 クィレルは鏡の正面に立ち、恍惚とした表情で鏡を見入っている。

「“石”が見える……ご主人様にそれを差し出しているのが見える……でも、一体石はどこだ?」
「でも、スネイプは僕のことをずっと憎んでいた」
「あぁ、そうだ。全くその通りだ。おまえの父親と彼はホグワーツの同窓だ」
知らなかったか?
「互いに毛嫌いしていた。だが、おまえを殺そうなんて思わないさ」
「でも、二、三日前、あなたが泣いているのを聞きました。カヤと一緒に…スネイプが脅しているんだと思った」

 瞬間、クィレルの顔からそれまでの威圧的な表情が消え去って、恐怖と苦悩に覆われた。思わず、カヤの動きが止まった。ハリーもその場に立ちすくむ。

「時には、ご主人様の命令に従うのが難しいこともある……あの方は偉大な魔法使いだし、私は弱い……」
「それじゃ、あの教室で、あなたは“あの人”と一緒にいたんですか?」
「私の行くところ、どこにでもあの方がいらっしゃる」

 呼吸の仕方を忘れたように、息を止めてしまったハリーとカヤには構わず、クィレルはヴォルデモートとの出会いを語った。そして、ガタガタとその身を震わせる。

「過ちは簡単に許していただけない。グリンゴッツから“石”を盗み出すのにしくじった時は、とてもご立腹だった。私を罰した……そして、私をもっと間近で見張らなければならないと決心なさった……」

 クィレルはまた、鏡と向き合った。低く罵りながら石を探し求め、何度も鏡に触れて調べている。ハリーとカヤは、静かに互いににじり寄った。もう少しで手が触れ合う距離まで迫ったところで、ハリーが躓いた。カヤを巻き込んで地に引っくり返る。クィレルは二人が接触したことに気がついただろうが、何も言わなかった。それよりも、“賢者の石”を手に入れることの方が重要らしい。

「ごめんね、カヤ。大丈夫?」
「なんとか…」

 二人で支え合いながら、崩れた体を建て直す。

「この鏡はどういう仕掛けなんだ?どういう使い方をするのだろう?ご主人様、助けてください」

 クィレルが誰かに助力を求めた。一体誰にと思う間もなく、ハリーやカヤ、もちろんクィレル本人のものでもない、第三者の声が響いた。

「その子を使うんだ……その子を使え…」

 声の出所は、どうやらクィレル自身らしい。何が起きているのだろうか。きょろきょろと周囲を見渡していたカヤが、不可解そうに眉を寄せた。


「わかりました……ポッター、ここへ来い」

 クィレルが手を叩けば、ハリーを拘束している縄が落ちた。ハリーはカヤに手を貸しながら、のろのろと立ち上がる。

「ここへ来るんだ。鏡を見て何が見えるかを言え」

 鏡の正面に立ったハリーは、一度目を閉じる。鏡に何が映っても、嘘をつかなければならないとわかっていた。クィレルがハリーの後ろに立つ気配がした。カヤが震えた声で、ハリーの名前を呼んでいる。ハリーは、そっと目を開けた。


 鏡に映ったハリーがにこりと笑いかけてくる。ズボンのポケットに手を突っ込んで、血のように赤い石を取り出した。そしてウィンクを一つ飛ばして、また石をポケットにしまう……その途端、ハリーは自分のポケットにずしりとした重みを感じた。“賢者の石”だ。


「どうだ?何が見える?」

 クィレルが、待ち切れないといった様子で尋ねてきた。ハリーは頭を回転させる。

「僕が、ダンブルドアと握手をしているのが見える。僕……僕のおかげでグリフィンドールが寮杯を獲得したんだ」
「そこを退け」

 クィレルに押し退けられ、ハリーは鏡から離れた。そのままの足で、立ち尽くしていたカヤの方に向かう。

「ハリー……?」

 カヤの目線が、ハリーのポケットに落ちる。不自然に膨らんだそれを見て、彼女の目が見開かれた。「……まさか」という囁きに、頷き返す。
 一体どういう訳なのか、“賢者の石”は今この手にある。ハリーの体を縛る縄はない。カヤも傍にいる。カヤの腕は不自由だが、逃げる足はある。このまま思い切って、走って逃げ出してみようか。

 だが、ハリーがカヤに合図を送ろうとしたのと同時に、またも、クィレルのモノではない甲高い声が叫んだ。

「こいつは嘘をついている……嘘をついているぞ……」
「ポッター、ここに戻れ!本当のことを言うんだ。今、何が見えたんだ?」
「私が話す……直に話す…」

 クィレルは見えない声の主と話している。それはあまりにも異様な光景だった。

「ご主人様、あなた様はまだ十分に力がついていません!」
「このためなら……使う力がある……」

 この場には確かに誰もいないはずなのに、声の主はハリーと直接話をしようとしているらしい。訳がわからない。同じく動揺しているカヤが、ハリーの方へ身を寄せてきた。その体の震えが伝わってくる。二人を息を詰めて、クィレルを見ていることしかできなかった。
 すると、徐にクィレルがターバンをほどき始めた。魔法にかけられたように、目が離せない。その場から動けない。そうするうちに、はらりとターバンが落ちた。クィレルがゆっくりと後ろを向く。瞬間、カヤが小さく悲鳴を上げた。ハリーも愕然として口を開けた。だが、声は出てこなかった。


 クィレルの頭に、もう一つ顔があった。蝋のように白い顔、血走った目、蛇のように裂けた鼻……言われなくても、それが誰なのかわかった。ヴォルデモートだ。


「ハリー・ポッター……この有り様を見ろ」

 恐怖が限界に達したのか、見開かれたカヤの目から涙が溢れ落ちた。でも、それに気遣う余裕はハリーにはない。もうどうしようもないくらい、震えが止まらない。

「ただの影と霞に過ぎない……誰かの体を借りて初めて形になることができる……しかし、常に誰かが、喜んで私をその心に入り込ませてくれる……」
この数週間は、ユニコーンの血が私を強くしてくれた。
「忠実なクィレルが、森の中で私のために血を飲んでいるところを見ただろう……命の水さえあれば、私は自身の体を創造することができるのだ。そして、フジミヤ家の血を引く者がいれば……さて…ポケットにある“石”と、小娘を頂こうか」

 ヴォルデモートは“賢者の石”だけでなく、カヤをも手に入れようとしているのか。だから、クィレルはカヤを連れ去ったのか。でも、なぜ?

 しかし、考えるより先に体が動いていた。ハリーは、声もなく涙するカヤの二の腕を掴んで、後ずさった。「バカな真似はよせ」と、ヴォルデモートが唸る。

「命を粗末にするな。私の側につけ…さもなければおまえも、おまえの両親と同じ目に会うぞ……二人とも命乞いをしながら死んでいった…」
「嘘だ!」
「!……ハリー、……耳を貸さないで…」

 固まっていたカヤが、やっと動いた。今にも挑発に乗ってしまいそうなハリーを止めようと、首を横に振る。

「私はいつも勇気を称える……そうだ、小僧、おまえの両親は勇敢だった…私はまず父親を殺した。勇敢に戦ったがな」
しかし、おまえの母親は死ぬ必要はなかった。
「母親はおまえを守ろうとしたのだ……母親の死を無駄にしたくなければ、さぁ“石”と小娘を寄越せ」
「やるもんか!」

 “賢者の石”はもちろん、カヤのことも渡すものか。彼女は仲間だ。親友だ。ヴォルデモートが彼女を求める理由なんてどうだっていい。カヤは守るべき、大事な友達なのだから。

 カヤを引っ張りながら、ハリーは炎の扉に向かって駆け出した。背後でヴォルデモートが、「捕まえろ!」と叫ぶ。

 次の瞬間、追いかけてきたクィレルが、カヤのもう一方の腕を掴んだ。カヤをハリーから無理矢理引き剥がし、空いた手でハリーの手首を掴む。地面に投げ捨てられたカヤの呻き声と、ハリーの苦痛に満ちた悲鳴が部屋に響いた。傷跡が抉れ、頭が割れそうだ。
 だが、身を捩って抵抗すると、クィレルがハリーから手を離した。痛みが少し和らぐ。見れば、クィレルは苦痛に体を曲げ、自分の手を見下ろしていた。見る間に、その指が焼け爛れていく。

「捕まえろ!捕まえろ!」

 再びクィレルが飛びかかってきた。引き倒されて、両手がハリーの首を締め上げてくる。ハリーは傷跡の激痛と息が出来ない苦しさに喘いだが、クィレルも激痛に悶えていた。

「ご主人様、ヤツを押さえていられません……手が……私の手が!」

 ハリーを抑え込んだまま、クィレルは自分の掌を凝視する。真っ赤に焼け爛れ、皮が完全に剥けている。

「それなら殺せ、愚か者め、始末してしまえ!」

 ヴォルデモートの言うがまま、クィレルが杖を向けてきた。「やめて!」と叫んだカヤが、クィレルに体当たりする。杖がその手から溢れ落ちた。それをカヤが遠くへ蹴飛ばすのと同時に、ハリーはクィレルの顔を掴んだ。恐ろしい絶叫が響き渡る。ハリーが触れた皮膚は、思った通り焼け爛れていた。それを見て、ハリーは理解した。
 理由はわからないけれど、クィレルは自分に触れることができない。ハリーを殺すには、杖を使うしかない。だから、激痛で杖を握れないようにすれば……幸い、カヤのおかげでクィレルは杖を取り落とし、手の届く範囲に杖はない。今しかない。この方法しか、二人とも助かる道はない。

 ハリーは飛び起きて、クィレルの腕にしがみついた。クィレルは絶叫しながら、ハリーを振りほどこうと暴れ回る。

「殺せ!殺せ!」というヴォルデモートの怒鳴り声と、カヤがハリーの名を叫ぶのが遠くの方から聞こえてくる。
 それを最後に、ハリーの意識は深く沈み込んでいった──。