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――パチリと、目が覚めた。浜辺に打ち寄せた波が引くように、すっと眠気が遠くなる。冴えていく頭の中で、今の今まで見ていた夢の内容を思い返そうとした。だが、あれほど鮮明だったはずの夢は、ほんの数秒間のうちに記憶の彼方へ飛んでいってしまったらしい。楽しかったのか、怖かったのかも思い出せそうになかった。しかし、夢とはそんなものだとわかっているから特に気にならない。
繰り返し寝返りを打ったせいで、体に纏わりついていた薄い布団から這い出し、乱れた浴衣を整える。外から差し込む日差しが眩しい。すぐ後ろで、ポンっと弾けるような音がした。
『おはようございます。お嬢様』
『おはよう、椿』
椿は、代々藤宮家に仕える
屋敷しもべ妖精だ。料理上手で、母も時折彼女に料理を教えてもらっている。椿の作る料理は何でも美味しいが、特にアップルパイは絶品で、私の一番のお気に入りだった。
『今日はいいお天気だから、布団を干しておいてくれる?』
『かしこまりました』
椿が指を鳴らせば、たちまち布団は姿を消す。窓辺に寄って見下ろせば、庭の中程にきちんと干されているのが見えた。しもべ妖精の魔法は、家族が使うどんな魔法よりも洗練されているように思えてならない。
『……?』
ふと目をやった青い空に、ポツリと黒い一点が浮かんでいるのに気がついた。何かが飛んでいる。そしてそれは、私の頭がまだ寝惚けていないのなら、段々大きくなっているようにも見える。
もしかして、こっちに近づいてきてる…?
目を凝らすと、やはりそうだ。もう肉眼ではっきりと、それが何なのか確認できる。
『ふくろうだ…』
『…珍しいですね』
『海外からのお手紙でしょうか…』と呟く椿と、あのふくろうを受け止めるのは一体誰だろうと話し合う。
我が家にふくろうが飛んでくるのは珍しい。そもそも日本では、生息するふくろうの数が少なく、そのため大概の日本の魔法使いはハトやカラスを輸送手段として用いている。ふくろうが空を飛び交っていればマグルは不審に思うだろうが、ハトやカラスならば怪しまれないからだ。だから、あんな風に早朝の空を悠々と横切るふくろうを見かけることはまずないし、ふくろうがもたらす手紙の送り主は、海外の魔法使いであることがほとんどなのだ。
この家で他国の魔法使いから手紙を送られるような人物と言えば、去年亡くなった祖母――イギリスの魔法魔術学校に通っていた――か、ここから程近い場所に住む、大叔父または大叔母――祖母の二人の弟と妹――か。後者ならばあのふくろうはすでに目的の家々を通り過ぎたことになる。とは言え、いずれの家も“藤宮家”を名乗っているから、ふくろうが間違えたとしても責めようがない。祖父が婿入りしたように、一貫して家名を守り続けるのが我が家のしきたりだからだ。
そんなことを考えている間にも、ふくろうは着々と我が家に迫り、遂にその丸い瞳と視線が交わった。茶色いモリフクロウだ。
『もしかして、この部屋を目指しているのでは……?』
私が反応するよりも前に、椿が窓辺に駆け寄ってすかさず窓を開け放った。湿った風が頬を撫でたのと同時に、ふくろうが部屋に飛び込んでくる。思わず頭を抱えてしゃがみ込むと、天井近くを旋回したふくろうは、ポトリと運んできた手紙を落とした。そしてホーホーと鳴きながら、窓枠に降り立つ。
『なんてダイナミック登場……』
『!……お嬢様、これを!』
椿の声につられて顔を上げる。彼女が差し出していたのは、黄色味がかった封筒だった。エメラルド色の文字が綴る宛名は、私だった。
受け取りつつ、裏返す。紫色の封印の真ん中に刻まれた“H”を、ライオン・鷲・穴熊・蛇が囲んでいる。その紋章には、心当たりがあった。
『おばあ様のブローチ、とても素敵ね。…熊、のモチーフ?』
『穴熊よ』
『へぇ……珍しいね』
『私が所属していた寮のシンボルだから、それを知ったおじい様が、初めての結婚記念日にプレゼントしてくれた特注品なんだよ』
『おじい様ったら、粋なことするのね。おばあ様にとてもよくお似合いだわ』
亡き祖母との懐かしい会話が蘇る。祖母が何よりも大切にし、共に火葬されたブローチは穴熊がモチーフだった。この封印に描かれているものと同じ。つまり。
『ホグワーツ、から…?』
その言葉にはっとした椿と共に、急いで封を切った。中から取り出した分厚い羊皮紙を開く。細くて綺麗な文字が、目に飛び込んでくる。
校長 アルバス・ダンブルドア
マーリン勲章、勲一等、大魔法使い、魔法戦士隊長、
最上級独立魔法使い、国際魔法使い連盟会員
親愛なるフジミヤ殿
このたびホグワーツ魔法魔術学校にめでたく入学を許可されましたこと、心よりお喜び申し上げます。教科書並びに必要な教材リストを同封いたします。
新学期は9月1日に始まります。7月31日必着でふくろう便にてのお返事をお待ちしております。
敬具
副校長ミネルバ・マクゴナガル
何度読み返しても、同じ文章だ。椿に三回声に出して読んでもらっても、上下逆さまにしても変わらない。所々よくわからない単語はあるけれど、間違いなく、ホグワーツ魔法魔術学校からの入学許可書だ。椿が取り出した二枚目の羊皮紙には、長々と制服や教科書などの必需品の名前が並んでいる。もう、疑いようがない。
『私、ホグワーツに行けるんだ!』
その大声に、傍らにいた椿が驚いて飛び上がった。それさえ今の私には気にならず、反対に『お父様は?お母様は?おじい様は?』と彼女を問い詰める。
『旦那様と大旦那様は居間に、奥様はお台所にいらっしゃいます』
キーキー声が答える頃には、私は階段を転がるように駆け下りていた。『家の中で走るんじゃないっ!』と、祖父の怒鳴り声が聞こえてきた。
『おじい様!お父様!お母様!見て!』
飛び込んだ居間では、新聞から顔を上げてこちらを睨む祖父と、コーヒーにミルクを入れてかき混ぜる父が寛いでいた。奥の台所では、母が卵を焼く傍ら、お皿が勝手に戸棚から飛び出して、焼き上がったトーストをのせて宙を漂っていた。
『おまえは挨拶もせんと、朝から家中を走り回りよって!』
『うっ"…ごめんなさい。おはようございます』
祖父の指摘は尤もで、勢いを殺された私はつんのめるように頭を下げる。
『おはよう。朝ご飯ならもうすぐよ』
『ありがとう、お母様。すぐ取りに行くわね』
『おはよう。今日はいつもより早起きだなぁ』
『急に目が覚めたの。もっと寝ていたかったけど、早起きしてよかった』
『“早起きは三文の徳”という言葉があるくらいだからな』
『全くその通りね、おじい様。本当にその通り』
私はいそいそと手紙を取り出し、二人が囲むテーブルの上に置いた。よく似た目が、羊皮紙の上を走る。一瞬の間。そして。
『…やったぞ!』
先に声を挙げたのは、父だった。続いて祖父が、祖母の名前を叫びながら、不自由な右足――“魔法警察部隊”に所属していた時に怪我をしたそうだ――を引きずって仏間に転がり込んで行く。たった今自分で、『家の中を走るな!』と怒鳴ったことは綺麗に頭から吹っ飛んでいるようだ。
『どうしたの?』
母が湯気を纏った卵が鎮座したトーストを運んでくる。その後ろを、サラダで満たされたボールがふわふわ浮かんでついてきた。
『ほら!』
父は、母の眼前にそれを叩きつけた。近すぎてよく見えなかったらしい母が一歩下がって、羊皮紙をじっくりと眺めた。
『よかった……』
父が放り出した手紙を、今しがた居間に到着した椿がキャッチする。両親がぎゅっと、私を抱き締めた。
『…これでお義母様も一安心ね』
『そうだな。『華耶ちゃんがホグワーツに通う姿を見るまでは安心して死ねない!』って、華耶が生まれたときから言ってたからなぁ…』
祖母と大叔父たち、大叔母の4人は、藤宮家の中で唯一、日本のマホウトコロではなくイギリスのホグワーツに通っていた。しかし父と叔父や叔母、従兄弟たちは、全員マホウトコロに通っていた。祖母たち四兄弟の希望だったそうだ。私のホグワーツ入学も同じく。私の世代では、ホグワーツへの入学を期待されたのは私だけで、従姉たちは7歳からマホウトコロで学んでいる。
理由は知らない。子供たちは何も聞かされていない。だが、聡明な祖母たちが話し合って決めたことだから、きっととても重大な理由があるのだろうと推測している。
『返事、書いてもいい?』
『もちろんよ』
『今すぐ書きなさい。何事も早い方がいい…椿、手紙を運んできたふくろうを小屋に入れて、水と餌を与えて労ってあげなさい』
それから、叔父上と叔母上の所にこのニュースを届けてくれ。
『下の叔父上には私から手紙を出そう』
『承知いたしました、旦那様』
椿が居間を出て行った。私は畳の上に膝を崩して座りながら、母から羽根ペンを受け取った。
祖母が、私がホグワーツに通うことを切望したのは何故なのか、昔は気になっていた。一族全員が揃い、子供たちが集うと話題は決まってそれだった。ああでもない、こうでもないと、何度も話し合ってきたものだ。今でも、気にならない訳じゃない。でも、こうして実際にホグワーツからの手紙を受け取って目の当たりにすると、そんな疑問はあまりにも些細なことだったと気づいた。
理由は何でもいいのだ。いっそなくたって構わないのだ。ホグワーツに通う。最も憧れた祖母が、学生時代を過ごした場所に私も通うことができる。大好きな祖母の思い出を、辿ることができる。ただそれだけでよかった。
どんな素敵な場所なんだろう。そこには何が待っているのだろう。
そう思うと心臓がバクバクと音を立てた。興奮を抑えきれないまま、母が差し出した羊皮紙に返事を認めた。ホグワーツに入学するか、否か。答えは、最早言うまでもない。