いつかあなたは僕のモノ


 激怒した母の姿を目の当たりにすることはこれまで何度もあったが、あそこまで激しく怒り狂った姿は見たことがない。できればもう二度と見たくない、と言うのが、ペロスペロー以下の子供達を含めた、ビッグ・マム海賊団の構成員、そして万国に住む全ての住民達の総意であった。無論、カタクリもである。

 しかし、母がそうなる理由は十分すぎるほどあった。なにせ、最も従順だと信じ込んでいたカヌレが、母が何よりも楽しみにしていた、ビッグ・マム海賊団の威信をかけた大切な茶会をぶち壊したのだから。さらに最悪なのは、その怒りを思う存分ぶつける対象であるカヌレが、恋人──その事実にも母は血管が切れそうな程ぶちギレた──と共に逃げ出したのだ。母にとっては、許しがたきことであったろう。
 本来ならば、どんな手を使ってでも二人を探し出して殺せと命じただろう。だが、カヌレを目の前で取り逃がした年長の子供達の証言から、二人は“駆け落ちした”というより、“心中した”と判断したらしい母は、怒り狂いはしたけれど、それ以上は何も言わなかった。その代わり、発狂する日々がしばらく続いた。

 だが、誰がこんな事態を想定し得ただろう。カヌレが楯突くことなど、誰も可能性がちらりとでも頭に浮かぶこともなかった。あり得ないと、誰もが思っていた。母やシュトロイゼンも、カタクリ達もだ。カヌレには、母に逆らう理由などなかったはずだから。


 カヌレは、子供達の中で誰よりも母に目をかけられていた。それは類いまれなる美貌の持ち主であることや、稀少な種族のハーフであることが大きく作用してのことだが、それでも母が気に入っていたことは間違いない。他の子供達が各々、強さや賢さ、忠誠心を以て母の目に留まろうと足掻く傍らで、幼い弟妹を抱いてあやすカヌレは、それだけで母を満足させることができたのだ。
 家族以外の…部下や国民も同様だ。強さや賢さに秀でた兄弟達を慕う以上に、美しく、優しいカヌレを慕い、その愛を乞うた。そこに在るだけで、カヌレは誰からも愛されたのだ。いっそ妬ましいくらいに。
 醜さを罵られることもなく、疎まれることも、恐れられることも、悪意を向けられることもないカヌレ。誰からも好かれて、愛されて、あの母ですら魅了して、兄弟達が望む全てを手にしていたのに、なぜカヌレは裏切ったのだろう。カタクリにはわからない。きっと誰にもわからない。自分を愛してくれる“家族”を振り切り、たった一人の赤の他人を選ぶ気持ちなどわかりようもなかった。



 事件から、ちょうど1ヶ月が経った頃。

 あの日から物思いに耽ることの多くなったカタクリは、ホールケーキ城の中庭を訪れていた。カヌレがよく、弟妹達と遊んだり、昼寝をしたり、泣き止まない子達を抱いて散歩していた場所だ。今や、カヌレの生きた証を辿ることの唯一の場所である。


 母の怒りは、当初と比較すればほんの僅かだが落ち着きを見せていた。シュトロイゼンがいつにも増して連日連夜、多種多様なお菓子を作っては献上したおかげである。カヌレの駆け落ちの原因の一端は、シュトロイゼンがカヌレを万国から出すことを提案したことにあるから、その埋め合わせの意味もあったのだろうと思う。しかし、母の機嫌を上昇させた功労者が、母を激怒させた張本人が回収してきた最高級の砂糖とは、皮肉としか言いようがなかった。姉のことだ。自分が逃げた後、怒り狂う母から弟妹やシュトロイゼンを守るため、最後の仕事はきっちりと仕上げていったのだろう。だが、そこまで家族を思ってくれるのなら、なぜ捨てたのだろうか。


 長女の裏切りを知った母は、ホールケーキ城にあったカヌレの部屋を、文字通り木っ端微塵に破壊した。カヌレが存在したことの証を消そうとしたのだ。マーガリン島の屋敷も対象になったが、いずれ弟妹の誰かが“バター大臣”の座とマーガリン島を手に入れるのだからとペロスペローが説得し、辛うじて難を免れた。代わりというほどでもないが、男が住んでいた店舗と住宅を兼ねた建物は、プロメテウスの炎によって焼き払われた。焼け焦げる前に店から持ち出された商品は、シュトロイゼンの手によって母の胃袋に収められた。多様な味のジャムを母はいたく気に入ったようだが、シュトロイゼンですら全く同じ味を再現できず、惜しみながらも諦めたという。
 しかし、いずれも子供達にとってはどうでもよかった。母の機嫌が持ち直したのは喜ばしいが、カヌレの不在は変わらない。深く愛し、信頼していた唯一無二の人に、裏切られたのだ。お菓子の味ごときで埋められるはずがない。この、寂しさとも怒りとも呼べない、ぐちゃぐちゃに絡まった気持ちは、そう容易くほどけるものではない。そんなに軽くも浅くもない。
 

『私の可愛い弟妹達』

 瞼に焼きついた、姉の笑み。いつもと寸分違わない。見ているだけで、どれだけ苦しいことがあったとしても、全てを忘れられる。優しくて、温かくて。
 姉の傍にいると、荒れ狂っていた心も落ち着く。カヌレとの時間はとても癒されるのだ。特に、“クールにして完璧な男”とし生きる道を選んでからは、姉と過ごす時間こそが至福だった。「私の前では、“完璧”でいる必要ないんだからね」と、笑って頭を撫でてくれたカヌレ。その手の感触を鮮明に思い出すことができるのに、もう二度と触れることはできない。カヌレが選んだのは、生まれた瞬間から共に生きてきた家族ではなく、たった一年過ごしただけの赤の他人だ。カタクリ達は捨てられたのだ。


「お兄ちゃん」

 ここしばらくずっと涙を含んだままの声が、近くの鏡の向こうから聞こえてきた。視線だけを向ければ予想通り、泣き腫らした目のブリュレが立っている。

「…ぺロス兄が呼んでる。会議室に集まってくれって」
「あぁ」

 ブリュレはカタクリが頷いたのを見届けると、すぐに消えてしまった。あの一件から、まともに妹の顔を見ていない。あれから“鏡の世界”に引きこもってしまったブリュレを、何とか宥めたコンポートによると、カヌレの足止めに失敗したことと、姉に拒絶されたことにかなりのショックを受けているのだという。それはそうだろう。目の前でカヌレを捕らえ損ねたカタクリ達も、愛する姉からの拒絶に、悲しみとも怒りともいえない感情を抱いたのだ。ただ一緒にいたいという純粋な気持ちのまま、必死に呼びかけていたブリュレ達はもっと辛かっただろう。目に見えて悲しみにうちひしがれている妹達、普段と代わらないように見えて心の奥に傷を負った弟達を思えば、カヌレに憎しみさえ覚える。それなのに、“憎悪”以外の感情が消え去らないのはどうしてだろう。

 大切な家族を傷つけられたのに。「お前達は家族ではない」と拒まれたのに。伸ばした手を振り払われたのに。どうして、共に過ごした思い出は色褪せないのだろうか。それどころか、もっともっと鮮明で強烈な光を放つのはなぜだろうか。



 一人で会議室に向かうと、年長の兄弟はカタクリを除いて全員揃っていた。いつもカヌレが気に入って座っていた座席は、部屋の片隅に押しやられてはいたものの、取り払われてはいなかった。誰がそのようにしたのかは不明だが、カタクリとて同じことをしたと思う。

「ようやく揃ったな、兄弟達」

 口火を切ったペロスペローは、平常と変わるところはなさそうだ。だが、この場にいる兄弟にはわかる。カヌレと一番長く過ごしたペロスペローが、誰よりも傷ついていると。あの兄が地面に膝をつくのを見たのは、あれが初めてだった。


「ママからの命令だ。…カヌレ姉の父親について、他の案件に先だって早急に捕まえるように、とのことだ。ペロリン♪」

 兄の言葉にカタクリは、なるほどと心の内で頷いた。
 元々カヌレの父親は、純血のヴィーラとして母のコレクションに加えられる予定で、母に命じられてからカタクリ達がずっと捜索していた男だ。だが、急ぎの案件ではなかったために本腰を入れて捜索しておらず、未だにまともな手がかりは得られていない。ハーフのカヌレが手中にあったから、母もそれほど気にしていなかったのだ。
 だが、カヌレが逃げ出したことで状況は変わった。母はコレクションの欠けた穴を埋めるように、カヌレの父親を欲するようになったのだろう。

「これまでと同じように、各々が得た情報は適宜おれに報告するように。これ以上ママの機嫌が悪くならないように、おれ達で早急にコイツを捕まえよう」

 カヌレによく似た、夢幻のように美しい男。手に入れば、少しは慰めになるだろうか。いや、カヌレの不在を突きつけられて、余計に苦しくなるだけだろうか。…あぁ、そんな気がする。なぜなら、カタクリが男を捕らえたとしても、それがカタクリのモノになるわけではないからだ。結局は母の所有物になる。一時この手に収めたとしても、カヌレだけでなく、カヌレに連なる唯一の人間さえ手中にできない虚しさが募るだけ。


「ペロス兄、話ってのはそれだけか?」
「それならわざわざ集めなくても、電伝虫で十分だったろ」

 オーブンとダイフクが、ペロスペローにそう言うのが聞こえた。カタクリも口にこそ出さなかったものの、兄の用件に少し肩透かしを食らった気分だったので、二人をたしなめることなく黙っていた。
 すると、ペロスペローの顔つきが変わった。それまでの常と変わらぬ様子から一転して、何の感情も読み取れない虚ろな顔に。それに、一同はぎょっとする。「いいや。本題は別にある」と告げた兄の、こんなにも冷たい声音は聞いたことがない。空気がはちきれそうなほど張り詰めた。


「本当は、誰よりも先にママに知らせなきゃいけねェことだが…」

 そう呟いた声に宿る感情を、何と呼べばいいのか。

「ママに知らせりゃ、間違いなくママは二人を殺せと言う。無論、男の方は言われなくても殺すさ。殺しても殺したりねェ…」

 兄の言う“二人”が誰かなんて、愚かな問いを立てる者はいない。誰の脳裏にも、手を取り合って海へ沈んだその背が浮かんでいることだろう。

「だが、あの人は…あの人だけは殺せるはずがない。…ママの怒りを買うことになっても、おれには無理だ…」

 そんなの、カタクリだって同じだ。他の兄弟もきっとそう。

 一思いにこの手で殺せば、カヌレが自分だけのモノになることはわかっている。他の誰にも奪われることはなくなることも。そんな甘美な誘惑が頭を過ったことがないとは言わない。でもそれは同時に、唯一無二の最愛を失うことと同義だから、誰も実行しようとは思わない。裏切られた今でさえ。それが、カヌレを心底憎むことのできない理由だと思う。
 嫌われても、憎まれても、背を向けられても、カタクリ達は姉を求めることをやめられない。惨めなくらい一途に、手を伸ばすことしか知らないのだ。兄弟には、カヌレしかいないのだから。

「だから、おれから・・・・はママに伝えない。だがもし、お前達がママに報告しようと思ったなら、おれの代わりに報告してくれ」

 そうして兄は、部下がかき集めてきた情報を明かした。


 曰く、万国から遠く離れた新世界のとある島で、二人の若い男女が目撃されたらしい。いずれも平均よりも背が高く、様子からして恋人か夫婦のように見える二人だそうだ。男の方はこれと言った特徴はなく、背が高いことを覗けばどこにでもいそうな風貌らしい。だが、女の方は男と正反対。桜色の巻き髪と、海や空よりも深い青の眼差しの持ち主で、誰も見たことがないほど美しかった、と──

「まさか」と溢したのは誰だったか。カタクリは、握り締めた拳に無意識に力が入ったことを感じた。
 間違いない。ペロスペローの部下が集めてきたのは、カヌレと恋人の情報だ。男はともかく、女の情報はどう聞いてもカヌレを指している。ピンクの巻き髪と青い目のずば抜けて美しい女など、この世に姉以外にいるはずがない。加えて高身長となれば、まず間違いなかろう。

(生きていたのか……)

 あの高さから、あれだけ荒れ狂った海に飛び込んで、能力者ではないとは言え生身の人間が無事でいられる可能性は極めてゼロに等しいと思っていたが。まさか、二人揃って生きているとは。百歩譲って、姉は母の頑丈な体質を受け継いだと言えるが、男の方はそうもいかないだろうに。運のいい男だ。

「…まさか、生きていたなんて…」

 コンポートの声音に、隠しきれない歓喜の色が含まれている。アマンド達は口を手で覆い、涼しげな目元を潤ませた。彼女達が、カヌレが生きていたことを喜んでいるのがわかる。だが、どうしてもカタクリはそれに倣えない。


 姉が生きていたのは喜ばしい。生存を知り、安堵した気持ちは確かにある。しかし、無事だったのはカヌレだけではなく、男もだ。そして二人は今、この海のどこかで一緒にいる。男は、家族の目もなく、手も届かない所で、家族の誰もが独り占めすることの叶わなかったカヌレを独占している。実の家族はカヌレを失って傷つき嘆いているのに、どこの馬の骨とも知れぬ男がカヌレの傍にいる──赦せるわけがない。

「話はそれだけだ。ママへの報告は好きにしろ」

 そう言い残すと、兄はさっさと出て行ってしまった。その後を、ダイフクとオーブンが続き、コンポートが四姉妹を連れて出た。会議室には、カタクリだけが残された。沈黙が、荒れた心を少しは落ち着けてくれたが、カヌレの傍で感じた安らぎには程遠かった。
 全身の血が一気に凍って、瞬く間に沸騰して逆流していくような感覚に支配されながら、カタクリは思う。


 ペロスペローは、カヌレ達が生存していることを母には明かさなかった。明かせば母は必ず姉を殺そうとするだろうし、カタクリ達に姉を殺せと命じるからだ。そして兄弟だけに明かしたのは、兄弟が誰も姉の死を望んでいないとわかっているからだ。「ママに告げても構わない」と付け足したのは、あくまでそう言っただけで本心ではない。皆まで言われずともわかる。


 母は姉の死を望んでいる。今はまだ、母はカヌレの生存を知らないが、このままカヌレ達が逃げ続ければ、いずれは母の耳にも届くだろう。そうなればもう誰も止められない。姉の死は避けられない。
 だからそうならないために…そうなる前にカヌレを捕まえる。捕まえて、母の目の届かない場所に隠す。いいや、母だけでなく、他の家族からも隠してしまおう。あぁ、そうだ、そうしよう。


 選択肢があるから、姉の目は他所へ向くのだ。選ぶ道が一つしかなければ、その道を進むしかなくなるだろう。例えば、カタクリしかいない世界なら、カヌレの目にはカタクリしか映らなくなる。もっと早くそうするべきだった。そうすれば、見知らぬ男が姉に近づくことを防げたのに。
 ただでさえ、兄弟の多い家族。カタクリより下の兄弟に姉の目が向くのも当然だ。それは仕方がないし、子供好きのカヌレが幼い弟妹をより構うのは自然なことだ。それに、カタクリ自身も、最愛の姉と可愛い弟妹が戯れている光景を見るのは好きだったから、それは一向に構わなかった。
 だが、もう昔の話だ。今は思わない。なぜなら、先にカタクリを裏切ったのはカヌレだから。ならばもう、カヌレの気持ちなどどうでもいいではないか。家族の気持ちを踏みにじったのは、姉なのだから。


「カヌレ姉…」

 カタクリは片隅に押しやられたカヌレの座席に近づくと、その前で膝を折った。まるで神に祈りを捧げる信徒のように、愛を乞うように跪く。

「今までずっと、あなたが幸せならばそれでいいと思っていた」

 家族の思う“幸せ”と、カヌレが思う“幸せ”は重なっていると信じて疑わなかったからだ。だが、現実は違った。両者は交わっていなかった。前者は“カヌレと共に在ること”を、後者は“家族と離れること”を望んでいた。であれば、カタクリが優先すべきは決まっている。カタクリにとって大切なのは、一にも二にも“家族”だ。姉がカタクリをもう家族と思わないのなら、姉の思いを汲む必要などないだろう。

「だが、もうそうは思わない」

 カヌレのためにその思いを汲むことで、家族から離れていってしまうのなら。
 他の誰かのモノになってしまうのなら。
 母に殺されてしまうのなら。
 どこへもいかないように、誰にも奪われないように、誰にも壊されないように閉じ込めてしまおう。そうすれば、幼い頃から叶わぬ夢と諦めていた、“自分だけの姉”が手に入る。

 カヌレが家族を裏切ったからこそ、念願の夢が叶うとは。無論、手に入るのは子供の頃に夢見たような、カタクリを愛してくれる姉ではないだろう。それで構わない。その分までカタクリが愛するから、全てを捧げるから。ただ傍にいてほしい。もうどこへもいかないでほしい。


 真っ直ぐすぎる願いを込めて息を吐き出すと、やがてカタクリは立ち上がる。そうと決まれば、すぐにでも動き出さなければ。同じことを考えているのはカタクリだけではない。他の家族も同じことを思っているだろう。精神的に参っている兄も、気丈に振る舞っている姉も、未だ込み上げる怒りを消化しきれていない二人の弟も、悲しみに暮れている四人の妹達も。そしていずれは姉の裏切りの全てを知るだろう、今はまだ幼い弟妹も。カヌレを知る者ならば誰もが一度は考えた、“自分だけの姉”を手に入れようとするだろう。

 家族は皆愛おしい。等しく愛している。でも、カヌレだけは譲れない。カヌレだけは渡せない。この思いを何と呼べばいいのか。カヌレに捧げるこの愛おしさは…──


 最後に、カヌレのお気に入りだった椅子を眺めてから、カタクリは部屋を出た。


 さぁ、愛する人を迎えに行こう。必ずもう一度、この腕に抱き締めてみせる。世界で一番愛おしくて、世界で一番憎らしい。唯一無二のあなた。必ず手に入れてみせる。何年かかろうとも、何十年かかろうとも。

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