06
家に行くだけとかなんだかんだ言って、結局カレーを作ってくれているハルカちゃんには感謝しかなかった。
手際良く玉ねぎを切る彼女の手をみて、ちーちゃんはいい同居人を射止めたなあと頷いた。
「そういえばハルカちゃん、有栖川さんと知り合いだったの?」
「バイトが一緒だったんですよ、コンビニのアルバイト。私が入ってから、いおりさん半年ぐらいで辞めちゃったけど。それまでは3年ぐらい続いてたっていう話ですよ。普通に連絡先交換したり休みが被れば一緒に遊んだりとかもしてましたし、その死にたがりの癖……でしたっけ、そんなメンヘラチックなこと全然なかったですけど」
玉ねぎの匂いが目を刺激し、つい目を細めてしまう。
ハルカちゃんは気にせずジャガイモの皮を器用に包丁で剥き始めた。
そっかあ、俺はなんとなく冷蔵庫に貼ってあるカレンダーを眺める。
俺が歌姫を辞めてから10年ぐらい経っている。会わなくなってからも彼女は普通に生きてこれていたのだろうか。
「あー、なんかですね、いおりさんに宮瀬さんのこと話したんですよ。ちょうどチロルと同棲初めて、その養父がハルシオンのボーカルだったって言ったらすごい驚いてました」
何気なく発された風のハルカちゃんの言葉に釘付けになってしまう。
ハルシオンを結成したということは有栖川さんに最後に教えた情報だ。俺がボーカルを務めているぐらいは察しがついただろう。
「で、知ってるなら一緒にライブ行きませんかーって言おうとしたら辞めちゃって。まああそこのスーパーでバイトしてるなら、ここのアパートから数歩でいけますし、退院したら誘ってみようかなー」
ハルカちゃんが続けた言葉の、有栖川さんの行動の意味が分からなくて、しばらく思考が止まった。
ハルカちゃんのコンビニは、ここ三軒茶屋から電車を2本乗り継いだ先にある。わざわざあのスーパーでバイトを始めたということは、有栖川さんとの再会は彼女によって仕組まれていたことになる。
狭い東京だからこんな再会もあるんだなあと勝手に運命めいていた自分が途端に恥ずかしくなり、まだ可能性の段階なのにむず痒くなって肩をすくめた。
しかし、そんな生に執着するような行動をしている彼女が、夢の世界で自殺未遂を繰り返しているのはいまいち意味がわからない。
あの世界が集合的無意識から成り立つ夢であるならば、そこで死ぬことによって他勢から認識されなくなり、やがて存在できなくなる。他勢から認識されて初めて自我が成立する、ということの逆をやろうとしているのかもしれない。
つまり、有栖川さんは彼女を認識した人間全ての記憶から消えようとしている。
こっちの世界で入院しているのは、あの世界から目覚めていない可能性が高い。そう思ったら、今すぐ病院に行くべきじゃないかと焦った。
「病院行ってくる、カレーはちーちゃん呼んで適当に食べてて」
指ぬきの手袋を左手に持ち、玄関先にかけてある鶯色のモッズコートを右手で羽織る。
「はーい。お気をつけてー」
後ろからのんびりしたハルカちゃんの声が聞こえる。
無関心なのかはわからないけど、俺のこういう突発的な行動に慣れているのはありがたい。
小銭入れだけポケットに入っているのを確認して、駅へと駆け出す。
多分、有栖川さんは俺に声をかけて欲しかったんだ。
それなのに、俺は有栖川さんに声もかけず、腫れ物を触るみたいに他人のフリをした。
「ごめん、有栖川さん」
こんな平日の昼間っから歩道を走っているのは、あたりを見回しても俺だけだった。
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