ある病室で.a



「脈拍数、血圧共に正常で、普通に寝ている人と変わりないですが、ここ一週間眠ったままの状態です」 
 
しんと静まり返る白い廊下で気の毒そうに話す看護婦。その前には灰色の髪の男が立っていた。 
そうですか、男は首を傾げると少し考える素振りをし、頭を下げ病室に入る。 
看護婦は、早くよくなるといいですねと静かに言って踵を返す。廊下にコツコツと足音が響いた。 
しばらくして再び静寂を取り戻した廊下の窓からは、病院に併設された老人ホームへの道を彩る桜並木が見えている。地面に積もった季節外れの雪を塗りつぶすように咲き誇る桜は、あと3日もすれば葉桜になりそうだ。 
 
 
「なんでまだ帰ってこないのかな、有栖川さん。もう桜も終わっちゃうけど」 
 
病室に入った男は、独り言のようにぽつり呟いた。 
完全個室の病室で、真ん中の大きいベッドには静かに寝息を立てている金髪の女がいる。肌艶はよく唇にも張りがあり、ただ眠っているだけのように見えるが、布団の上に出ている右腕から覗く点滴の管の太さが病人を物語っている。 
男は女の側に寄り、申し訳程度の丸椅子に腰掛けた。窓から見える桜を眺め、窓際からの春らしい優しい光にあてられながら小さく欠伸をする。ややあってから語るように話し始めた。 
 
「俺さ、周りの大人にいいように使われて、歌姫やってた頃あったじゃん。あの時有栖川さんに会って、本当の自分で生きなよって言われなきゃ、自由に音楽できてる今の俺はないかもしれないんだ」 
 
今思えばこんなオッサンが10代の頃は中性的アイドルだったとか笑い話だけどな、男の静かな笑い声が響いた。女は依然として眠っている。 
 
「地元のスーパーで再会したときは、有栖川さんからすれば捨てたい過去の記憶が蘇りそうで嫌だったかもしれなくてなかなか声をかけられなかったけど、本当は普通に生きている姿を見れて凄く嬉しかった。こう言ってしまうと安っぽいけど有栖川さんは俺の希望なんだ。あの夢の世界がなんなのかは結局わからないけど、まあこれは推測が正しければだけど……、集合的無意識で成形されたあの夢の中で死ねれば、自分とリンクした全ての人の記憶から消えて後腐れなく死ねると思ったんだろ?」 
 
男は眠る女に構わず話を進める。 
少し疲れたのか、咳払いを1つして一息ついた。 
そして自分の手を外の光で透かすようにかざした後、女の右手を包み込む。 
 
「あの頃から何度も言ってるけど、俺は貴方のことが大好きなんだ。俺の記憶から消えて未練なく楽に死ねると思うな、俺はしつこいぞ」 






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