亡霊と少女

「……んん」

瞼の向こうから差し込む月の明かりと喉の渇きで目が覚める。隠れていたはずがいつの間にか眠ってしまっていたみたい。
しかも、ずっと同じ体勢でいたせいか、手足はひどく硬くなっていた。ちょっと動かすだけでも、痺れが迸り、むやみやたらに動かしづらい。軽く呻き声を上げながら、微睡みに溶かされた頭を覚醒させていく。


「おや、お目覚めですか」


暗闇の中、気品に満ちた声が聞こえる。
まともに動かせやしない首を動かし、その声の主を探すと予想した通りの人物が木の幹に凭れ、こちらを見つめていた。目を覚ましたことに気がつくと、彼は心底安心した様子で、私の前で片膝をつき、朗らかな微笑みを一つ落とした。

さっきは暗くてよくわからなかったが、月明かりに照らされて改めて思う。なんて、美しい男の人なんだろうと。男の人に対して、美しいって言葉はあまり似合わない気もするけれど、彼の場合、そんな違和感をも感じさせないほどにその言葉が似合っている。


「私そんなに寝てたんですか」
「ええ、もちろん。それはとても気持ちよさそうに涎まで垂らしていらしたのですから」
「う、お見苦しい姿を……」
「なんて冗談です」


秀麗な顔つきのその人は、愉快そうに目を細めた。

ああ、よかった。自分の寝顔が人に見られるなんて恥ずかしすぎる。

彼の言葉に安堵すると同時に私を殺そうとしていた墓荒らしの存在を思い出し、忘れていたはずの恐怖が再びやって来る。


「さ、さっきの墓荒らしたちは!」
「ご安心ください。もういませんよ」


ほら、と彼が目線で指し示された墓場の中央には男たちの姿はどこにもなく、青白い月光が墓を照らしているだけであった。まるで何もなかったかのように、墓前に供えてある花がゆらゆらと揺れている。この人が追い返してくれたのだろうか?それとも、あの墓荒らし自体が私の夢か何かで初めから存在すらしなかったのでは?

なんだか、そんな気がしてきた。とりあえず、それを考えるのは後にしよう。いつまでも地べたに座っているわけにはいかない。服についた土埃を払いながら、立ち上がればチクチクとした感覚が足先に集中する。


「先程はありがとうございました。危ないところを助けていただいて」
「そんな礼を言われるようなことはしておりません。ただ貴方の前に現れただけではありませんか」
「でも、それだけでもすごく救いになったんです。こう、なんていうんでしょう。その……、自然とかき乱されていた心が落ち着いていくというか……。魔法使いさんがいなかったら、間違いなく、あの男たちに―――」
「……っふ」


私の言葉を遮るように突然、彼の肩が震え始める。笑っている。日焼け知らずの真っ白な手で口元を軽く押さえながら。何か変なことを言ってしまったのかと背中に焦燥感が滲んでいくのがわかる。


「失礼。その魔法使いさんというのは僕のことを指して?」


落ち着きを取り戻した彼が疑問符を語尾につけながら尋ねてくる。私はこくりと頷いた。


「小さい頃、カボチャのパイをくれた魔法使いさんがいたんです。あなたとその人がよく似ていたものですから、てっきり……」


「人違いだったら、ごめんなさい」と保険を後付けする。これで全くの赤の他人。それこそ、魔法使いなんてものは存在せず、全て夢の中での出来事だったりしたら、どうしようか。

それなら、まだ人違いの方がいい。いや、それもそれで困るけれど、あの日の出来事は全て夢でしたという結末だけは避けたい。


「いかにも。貴方のおっしゃる通り、僕がその魔法使いですよ」


望んだ通りの返事だった。ああ、やはり。間違っていなかった。途端に安堵と嬉しさで自分の顔が明るくなっていくのが鏡を見ずともわかる。


「それにしても、魔法使いだなんて。なんだか、懐かしい響きですね」
「懐かしい……?でも、何もないところから、指鳴らし一つでカボチャのパイを出したじゃないですか」


「魔法を使っていたじゃないですか」と言えば、彼は自嘲気味に笑いながら、「そう呼ばれたのは昔の話です」と答えた。今では肉体を失い、墓地に彷徨う亡霊だと。


「ほら、この通り」


ひやり。彼のか細い指が私の指に絡まされ、人の体温とはとても思えない冷たさが伝わってくる。
体温が低く、周りの人から驚かれることが多い私でさえも思わず手を引っ込めたくなるほどであった。

ざあっと木葉が互いに擦れ合う。風で軋み、近くの木たちが、ゴオオ……と低い唸り声を上げ始める。
虫の音もフクロウの声もいつしか聞こえなくなり、そんな中、じぃっと向けられた彼の細められた瞳だけが怪しく光っている。

ごくり。唾を飲み込む音でさえも、やけに大きく聞こえた。


「……でも、魔法使いさんは魔法使いさんでしょう?たとえ、悪魔だろうが亡霊だろうがなんだろうが関係ないですよ」
「面白いことを言いますね。怖くないのですか?」
「そんなの、今に知ったことじゃありませんから。あのとき会ったときから、なんとなく気づいていました。あなたが神父さまが言っていた墓守の亡霊なんだって」


彼は何も答えず黙ってこちらを見つめている。


「あのとき、魔法使いさんに会わなければ、空腹と寒さで倒れていたに違いません。そのときのお礼がどうしもしたくて、だから、こうしてまた会えたことが本当に嬉しくて、嬉しくて」
「僕も嬉しいですよ。貴方とこうしてまたお話しすることができて」


彼はその大きな手で私の頬を包み込むように撫でながら言う。さっきとは打って変わり、穏やかな色を浮かべた瞳で。


「しかし、今日はもう遅い。こんな夜更まで起きていると、悪い霊に連れて行かれてしまいますよ?」
「で、でも、私……、まだ何のお礼も―――」
「こうして貴方の近くにいる。それだけで僕は満足なんです」

―――だから、今日はおやすみ

あのときと同じように額に口付けをすると、フッと優しく微笑む。その途端、次第に狭まっていく視界。手を伸ばそうにもするりと指先から力が抜けていく。まるで温かい泥の中に沈んでいくような不思議な感じ。

現実と夢の狭間に意識が遠く遠く落ちていくのが見える。私はその行く末を見届けながら、微睡みの中に溶けた。

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