開幕



 薄いカーテンから差し込む陽光が顔に当たる。枕元の時計は普段ならシーツを頭から被って二度寝を決め込んでいるだろう時間を指していた。ふ、と自然に意識が浮上し、その勢いのままパッと瞼を開け、素早く起き上がりカーテンを思い切り全開にする。霧の街ロンドンにしては珍しく雲間から太陽が顔を覗かせていた。わたしは裸足のまま日の光を浴びて、大きく伸びをする。

 今日は九月一日。────待ちわびた、運命の日だ。

 ダイアゴン横丁を訪れ、魔法の杖などの学用品を買い揃えた日から約一ヶ月の間、わたしはひたすら教科書を読み漁って過ごしていた。一日の三分の二は活字を追っていたと思われる。大人たちはわたしたちがいなくなる嬉しさと部屋に引きこもることで問題が起こらないという事実を優先し特に何も言ってこなかった。一度、トムが訪ねてきたことがあり、その時に教科書の内容について語り合ったことから彼もわたしと同じように引きこもりと化していたのだろう。絶対そうに決まっている。

 そして漸く今日に至る。普段朝に弱いわたしも流石に今日は早く起きることができたがまだ朝食には早いからと昨日きちんと詰め込んだ荷物を再度確認し、忘れ物がないことを確かめてトランクの蓋を閉める。せっかく時間があるのだからゆっくり熱いシャワーでも浴びようと考え、そうこうしているうちに朝食の時間になった。遅刻もせず時間通りにテーブルにつくわたしを見て大人だけでなく子供達も驚いているようだった。中には二度見をして来る子供もいて、どれだけ普段のわたしが時間にルーズかがよくわかる。テーブルの端に座っているトムは一見して普段通りを装っているが唇が硬く引き結ばれているのをみるとわたしと同じく緊張しているのだろう。

 支度を済ませこの一ヶ月で何度も読み返している教科書に目を通していると漸く九時四十五分を回った。汽車が出発するのは十一時、三十分前には着いているようにとトムに決められた集合時間までもうすぐだ。忘れずに指輪をポケットに突っ込みとても十一歳女子の腕力では持ち上がらないトランクを引きずりながら部屋を出る。ガタガタと大きな音を立て転がすようにして玄関へ向かうと、やはりトムは既に着いていた。傍らにはソワソワと落ち着きのないミセス・コールもいる。

「二人とも、あまり周りに迷惑をかけないようにするのですよ」
「わかっています」
「それじゃあ、また夏に」
「ええ。お元気で」

 丸々一年会わないというのになんとも淡白な別れを交わし、玄関を出る。事前に呼んであったタクシーにトランクを詰め込み、二人で乗り込んだ。エンジンがかけられてふと孤児院の方を見るが既に誰もいない。本当に嫌われているなあと息を一つ零し、正面を向いた。
 車に揺られながらポケットから指輪を取り出す。シンプルなシルバーに小ぶりな青い石が一つ鎮座している。じっと目を凝らすと紺碧の中にゆらゆらと金が揺らめいて見えるこの石を私はとても気に入っていた。そうして外の景色を眺め三十分弱、目的地であるキングス・クロス駅に到着した。親切な運転手がわざわざカートに乗せてくれた荷物を押しホームへと向かう。大勢の人でごった返しているホームを進みながら何度も目を通した汽車の切符を取り出した。
 九と四分の三番線、十一時発ホグワーツ特急。何度見てもそう書かれてあることは間違いない。───が。実際問題、九と四分の三番線なんてものはどこにもないのだ。わたしたちの目の前には九と書かれた看板、その隣は十。間には何もない。

「さて、どうする?」
「駅員に聞いたところでまともに取り合ってはくれないだろう。僕らと同じような荷物の子供を探そう」

 わたしの問いに素早くそう返したトムに倣い踵を返し、ひしめき合う人々の間をくぐり抜けながら辺りを注意深く観察する。たくさんのトランクを乗せた子供、特に猫やフクロウを連れていたらビンゴだ。そうやって人の波をかき分けること十分ほど、どこからかマグル、という単語が耳に飛び込んできた。ハッと辺りを見渡すと、人と人の間にフクロウが入った鳥籠を積んでいるカートが見える。
「トム、見つけた」
「どこだ?」
「あっちに向かった。追いかけよう」

 カートの行方から目を離さずトムに声をかけその後を追いかける。何とか見失わずに追いついたものの、タッチの差でカートを押す黒髪の男の子とその父親らしき姿が改札口の柵の中へと消えて行ってしまった。柵の前まで近づいてみるが、何の変哲もないただの柵にしか見えない。しかし確実にあの親子はこの向こうへと消えたはずだ。恐る恐る柵に手を伸ばすと、触れたのは柵の固いものではなく、ひんやりとした液体のような不思議な感触。驚くべきことに手首から先が柵の向こう側へと消えていた。なるほど、と一旦手を引いて、再度カートを押しながら柵の向こうへと進む。柵が目前へと迫り、カートが盛大にぶつかる寸前で目を瞑る。そのまま歩みを進めてもぶつかった衝撃はやってこない。
 ふと瞼を開けると、そこは大勢の人のざわめきが満ちているプラットホーム、紅色の蒸気機関車が停車していた。ホームの上にはホグワーツ行特急十一時発、と書かれている。背後を振り返ると改札口のあったところに九と四分の三という札が下がり、そこからカートを押したトムが出てきた。

「あれが汽車だって」
「そうか……」

 汽車を眺めたトムは時計に目をやり、そして汽車のそばへと進む。殆どのコンパートメントには既に生徒が座り、楽しげに喋っている。運良く最後尾の車両に空いているコンパートメントを見つけ二人掛かりで重たい荷物を運び入れた。席に着き、大きな窓を開けると目に入ったホームの時計は十一時を刺そうとするところだった。もう少し遅かったら乗り遅れていただろう。やがて鋭く笛が鳴る。子供達は窓から身を乗り出してホームの家族と別れの挨拶をしていた。ゆっくりと汽車は滑り出し、家族たちは笑顔で手を振っている。スピードが増し、ホームが小さくなるまでトムとわたしは冷めた目でそれを見ていた。

 外が鮮やかな緑の草原になるとトムは本を取り出して開き始め、わたしはその様子を横目に草原を眺め続ける。頬を撫でる爽やかな風が心地良い。窓枠に頬杖を着いてどこまでも続く緑を目で追っているうちに、緊張で寝不足気味だった所為かぐっすりと寝落ちてしまった。
 がくっと身体が傾いた衝撃で目が覚める。いつの間にか閉められた窓の外は暗くなり、明かりが点いていた。ぼんやりとした頭で窓の外から正面に視線を戻すとトムは未だ本を読んでいた。寝る前と一ミリも姿勢が変化していないが着ている服が変わっている。白シャツに黒いズボン、黒のローブ、そしてこれまた黒のネクタイ。何を着ても様になるなとふやけた頭で思っているとトムが本に目を落としたまま口を開いた。

「随分お疲れのようだったけれど」
「うるさい。今何時?」
「もう間も無く十八時だ。シャロンもさっさと制服に着替えた方がいい」

 そう言ってパタンと本を閉じたトムは立ち上がり、ホグワーツまであとどれくらいか聞いてくる、と言い残してコンパートメントを出て行った。残されたわたしはずっと同じ姿勢で眠りこけていたためにバキバキに凝り固まった身体をほぐそうと大きく伸びをし、欠伸を一つ。パキゴキと恐ろしい音が響いてのっそりと立ち上がり、事前に出しておいた制服を手に取った。ブラインドを下ろして鍵をかけ、さっさと着替えてしまう。ネクタイを締めローブを羽織るとそれっぽくなった、気がする。最後に指輪を取り出して右手の中指に嵌めてみるとジャストサイズだ。例え親指に嵌めても小指に嵌めてもぴったりでずっと不思議に思っていたものだが、今にしてみると魔法の指輪だったのだろう。………ということは、わたしの親は魔法使いなのだろうか?
 そう考え込んでいるとコンコン、とコンパートメントの扉がノックされる。はあい、と返事をしてから鍵を外し扉を開けるとトムが立っていた。

「おかえり」
「………へえ、まあまあ似合ってるじゃないか」

 わたしの全身を一瞥したかと思えばそう言ってさっさと中に入り、どっかりと腰を下ろした。それはどうも、と適当に返してわたしも元の位置に座る。

「もうすぐ着くそうだ」
「そう。……お腹すいた」

 朝食を食べたきりだったことに今気づき、お腹を摩る。思い出してしまうと途端に空腹感に襲われ始めタイミングよくギュルルと腹の虫が唸る。正面のトムは呆れた顔でズボンのポケットからお菓子の包みを取り出した。

「おまえは相変わらずだな……これでも食べてろ」
「なに?これ」

 箱には百味ビーンズ、と書いてあり中には色とりどりのジェリービーンズ。早速蓋を開け真っ赤な粒を一つ手に取り食べてみる。何故かトムが私を見てニヤニヤと笑っていた。

「何味だった?」
「ん?んー……トマト?」

 普通に美味しい、と言えばあからさまにがっかりしたとでも言いたげな顔をする。なんなの、と聞けば別にとしか言わない。立て続けに何個かひょいひょいと口に放り込めば怪訝そうな表情を見せた。

「………美味いのか?」
「もちろん」

 食べる?と焦げ茶色の粒を摘んで差し出せば、恐る恐るといった様子で受け取り、口に放る。何回か咀嚼して、一度瞬くと意外そうに美味い、と零した。

「味は?」
「コーヒー、かな」
「ふうん。それはまだ食べてないや」

 それから何粒か食べ比べ、トムがハッカ味を当てると同時に、車内にアナウンスの声が響き渡る。どうやらもうすぐ到着らしい。言われてみれば汽車が徐々に速度を落とし始めているようだ。
 アナウンス通り間も無く汽車はゆっくりと停車した。荷物は後ほど届けてくれるそうなので手ぶらでコンパートメントから出る。出口は我先にと降りようとする人でごった返していた。満員電車のようだと思いつつなんとかトムに続いて外に出る。
 そこは小さなプラットホームだった。辺りはもう真っ暗で頭上では星が瞬いている。夜のひんやりとした冷気に触れてぶるりと肩を震わせた。やがてわいわいと騒がしい生徒たちにゆらゆらと明かりの灯ったランプが近づいてきた。

「一年生!一年生はこっちに来い!」

 ずんぐりとした髭面の男が声を上げながら一年生を誘導する。トムとともにそれについて行くとしばらくして先頭のあたりから歓声が聞こえてきた。その声に顔を上げると狭い道が急に開き、大きな黒い湖のほとりに出たところだった。向こう岸に高い山がそびえ立ち、その天辺に壮大な城が見える。大小様々な塔が立ち並びキラキラと輝く窓が星空に浮かび上がっていた。
 視界に飛び込んできた幻想的な景色に周りの新入生の歓声にかき消されるほどの小さな感嘆の声を上げる。

「四人ずつボートに乗れ!」

 案内人の男に促され、新入生は岸辺に繋がった小さなボートに乗り込み始めた。わたしたちに加え女の子二人も近くのボートに乗り、全員が乗り込んだのを確認した男の合図によって一斉にボートが動き始めた。
 ゆらゆらと揺られながら城を見上げる。一緒に乗った女の子たちはもちろん、トムも同じように城を見上げていた。そうして蔦のカーテンをくぐったり暗いトンネルを抜けたりして、船着場に到着した。
 下船し、男が進む方へと新入生はわらわらとついて行く。男の持つランプに導かれ岩の道を登り、草むらの城影の中に辿り着いた。石段を上った先の巨大な樫の木の扉の前に集まり、男は三度、拳で扉を叩く。すぐさまパッと扉が開かれると中から一人の教師が姿を現し、その見覚えのある顔に思わずあっと声を零してしまった。鳶色の髪と顎髭を蓄えたその人はにこりと微笑み緊張の面持ちで見上げる新入生達を見渡した。───ダンブルドア教授だ。

「ご苦労様、オッグ」

 オッグと呼ばれた男はのっそりと会釈をし、そのまま踵を返す。教授は扉を開け放し着いてくるよう言うと生徒たちを中に招き入れた。玄関ホールは広く、松明の炎に照らされた石壁は頭上高くまで続いていた。壮大な大理石の階段が正面から上へと繋がっている。
 先導する教授に従って新入生たちは石畳のホールを横切っていった。入り口の右手の方から何百人ものざわめきが聞こえる。先生はホールの脇にある小さな部屋に新入生を案内し、その窮屈な部屋に全員が詰め込まれた。

「ホグワーツ入学おめでとう!」

 前に立った教授がそう一言挨拶をすれば不安そうにヒソヒソと喋っていた新入生はピタリと口を閉じた。凛とした声が狭い部屋に響き渡る。皆一様に教授を見上げ、次の言葉を待った。

「新入生の歓迎会がまもなく始まるが、大広間の席に着く前に皆さんが入る寮を決めなくてはいけない。寮の組分けはとても大事な儀式で、ホグワーツにいる間、寮生が皆の家族となる。教室で寮生と一緒に勉強し、寝るのも寮、自由時間は寮の談話室で過ごすことになるのだ、ここまではいいかな?」

 そこで一度言葉を区切り、ぐるりと見渡した。新入生はすっかり黙り込み、教授を食い入るように見つめている。それはわたしも、その横にいるトムも同じだ。教授は悪戯っぽく笑みを浮かべるとこほんと咳払いを一つし、再び口を開いた。

「ホグワーツの寮は四つ。グリフィンドール、ハッフルパフ、レイブンクロー、スリザリン。それぞれ輝かしい歴史があって偉大な魔法使いたちが卒業している。学校生活では皆さんの良い行いに対しては自分の所属する寮に得点が与えられ、反対に規則を違反した場合などでは寮の減点となる。学年末には最高得点の寮に大変名誉ある寮杯が授与されるため皆励むように。どの寮に入ったとしても、皆さん一人一人が寮にとって誇りあるよう努めなさい。間も無く全校生徒、職員の前で組分けの儀式が始まる。皆心の準備をして待ちなさい」

 教授は最後にそう締めくくると颯爽と小さな扉へ向かって行った。扉が閉まる直前、こちらに向かってウインクをしてみせたように見えた。取り残された新入生たちは扉がパタン、と音を立てて閉まったと同時に一斉に話し始める。たった今言われた寮や組分けについて、ある子供は不安そうに、ある子供は自慢げに知っている情報を喋っているのを耳が拾う。

「組分けの儀式って何するんだろう?」
「魔法なんて一度も使ったことないけど、大丈夫かな」
「グリフィンドールは勇敢な人が入る寮らしいぜ」
「レイブンクローはソーメー?な人だって。ソーメーって何?」
「家族はみんなハッフルパフなの。あたしもハッフルパフだといいけど………」
「僕はスリザリン一択に決まってる。高貴な選ばれし者のみが入れる特別な寮なんだから」

 皆好き勝手に喋っている中、隣のトムはひたすらに無言を貫いていた。わたしも特に話すことがなく黙り込む。四つの寮、一体どこに入ることになるのだろう。グリフィンドール、ハッフルパフ、レイブンクロー、スリザリン───*。頭の中で寮名を反芻させていく。おかしなことに、先ほど初めて聞いたはずの一つの名前にどこか聞き覚えがあるような気がしてしまう。なぜだろうと思考に沈みそうになった時、部屋の扉が大きく開かれた。

「それでは諸君、行こうか。組分けの儀式が始まる」

 一斉に口を噤んだ新入生たちの間にサッと緊張感が走る。教授によって一列に整列させられトムの前に並ぶと、教授の後に続く列は部屋を出て再び玄関ホールに戻りそこから二重扉を通って大広間へと入った。

 大広間の中はとても幻想的で、ボートに乗る前に城を見た瞬間にも勝る光景が広がっていた。何千という蝋燭が浮かび、上級生が座っている四つの長いテーブルを明るく照らしている。上座にはもう一つテーブルがあり、そこには教師陣が着席している。ふと天井を見上げるとビロードのような美しい星空がいっぱいに広がっていた。満天の星空を切り取ったかのようなその煌めきに目を奪われていると、突然何者かに後頭部を小突かれた。

「転ぶぞ、余所見しないで前を見て歩け」

 そう密やかに後ろから囁かれ、はいはいとわたしも返事を囁く。注意してくれたのはありがたいけど、何も小突かなくてもいいじゃないか。そうこうしているうちに新入生の列は上座前に到着し、教師たちに背を向ける格好で一列に並ばされる。上級生たちの何百という顔が興味深そうに新入生たちを見つめていた。
 先生が新入生の前に四本脚の丸椅子を持ってきてその上にボロボロの古いとんがり帽子を置いた。そして広間中が水を打ったように静かになったかと思えば全員が見つめる先の帽子がピクピクと動き、つばの縁の破れ目がまるで口のように開き、突然歌い出す。

《私はきれいじゃないけれど 人は見かけによらぬもの 私をしのぐ賢い帽子 あるなら私は身を引こう 山高帽子は真っ黒だ シルクハットはすらりと高い 私はホグワーツの組分け帽子 彼らの上を行くこの私 君の頭に隠れたものを 組分け帽子はお見通し かぶれば君に教えよう 君が行くべき寮の名を

グリフィンドールに行くならば 勇気ある者が住まう寮 勇猛果敢な騎士道で 他とは違うグリフィンドール

ハッフルパフに行くならば 君は正しく忠実で 忍耐強く真実で 苦労を苦労と思わない

古き賢きレイブンクロー 君に意欲があるならば 機知と学びの友人を ここで必ず得るだろう

スリザリンではもしかして 君はまことの友を得る どんな手段を使っても目的遂げる狡猾さ

かぶってごらん!恐れずに! 興奮せずに、お任せを! 君を私の手にゆだね(私は手なんかないけれど) だって私は考える帽子!》

 帽子が高らかに歌い上げると広間の全員が拍手をした。四つのテーブルそれぞれにお辞儀をして、帽子はそれきり静かになった。あの部屋の中で囁かれていた話はどうやら本当のことだったようだ。しかし、自分がどの寮になるのか全く見当もつかない。トムはレイブンクローかスリザリンだろうかと考えていると先生が長い羊皮紙の巻紙を手に前へと進み出た。

「ではABC順に名前を呼ばれたら椅子に座り帽子を被って組分けを受けてください」

 短い前置きの後、アクランドと呼ばれた男の子が最初に呼ばれ、転がるように椅子に座り、帽子を被った。数秒後、帽子はグリフィンドール、と大きな声で叫び、同時に左端のテーブルの生徒達が歓声をあげて立ち上がった。真っ赤な顔でそちらに駆け寄る男の子のネクタイが赤色に変わっているのが見えた。アシュトン、エイブリー、ベケット、バーク───何人もの名が呼ばれ、帽子が寮名を叫び、上級生が立ち上がるという流れが滞りなく進む。そしてついに、トムが呼ばれた。

「リドル、トム!」

 ほんの一瞬、きっと隣にいたわたしにしかわからないほどの間だったが嫌そうに顔を歪め、次の瞬間にはスッと背筋を伸ばし堂々と椅子に向かった。トムの顔を見た上級生の女子達がヒソヒソと囁いているのを尻目に思い切り帽子を被る。これまでも帽子を被ってから寮が決まるまでの間の長さは人によってまちまちだったが、トムは中でも最も長い間帽子を被っていたように感じた。大広間を生徒たちの囁き声が支配し、誰もが今か今かと待ち望む中、帽子はスリザリンと高らかに宣言した。一拍遅れて右端のテーブルがわっと歓声をあげる。帽子を脱いだトムはちらりと私を見て、すぐにテーブルへと向かって歩いて行った。
 その時、ふと帽子はなんでもお見通しと歌っていたけど私の眼の力もわかってしまうのだろうか、という疑問が頭を過ぎる。あまり知られない方がいいような気はするが、対策が何も思いつかない。さてどうしようと考え込んでいるうちに、運命の時がやってきた。

「ランドール、シャロン!」

 結局何も思い当たらずもうどうにでもなれと一度息を吐いて椅子に向かい、座る。帽子を被ればあまりの大きさに鼻先まで埋まってしまった。帽子の裏側の闇に包まれると、おや、という少し驚いたような声が耳の中から響いてくる。

「なんとも不思議な子だ……ふむ、ふむ。知的好奇心が強く精神的に早熟している。しかし何事にも淡白で事勿れ主義。ううむ、レイブンクローと迷うものだが───」

そこで言葉を止めて帽子は唸り始めた。冷静に分析されてとても居心地が悪かったから助かるが、そう考え込まれても緊張してしまう。レイブンクローとどこで迷っているのだろうか、もうこの際なんでもいいからさっさと決めてほしい。そう気を揉んでいると突然決めた、と帽子が声をあげた。

「すべてを視る呪われた金眼の子、君はこちらの道を歩むべきだろう──────スリザリン!」

 呪われた金眼の子───?聞き覚えのない、しかし何故か背筋が冷えるその呼び名に、思わず疑問が口から滑り落ちる。帽子はすでに黙り込み、うんともすんとも言わない。意味がわからない、わたしの眼の力はやっぱりバレたのか、呪われたってどういうこと、と動揺しているとパッと視界が明るくなる。傍らに立っていた先生が帽子を脱がせたのだ。

「どうかしたかね?早くスリザリンのテーブルへ向かいなさい」
「は、はい」

 慌てて立ち上がり、右端の歓声を上げているテーブルへと歩みを進めれば先に座っていたトムがわたしに微笑んだ。演技ではなく素の珍しいその表情に曖昧に笑い返す。ああ、緊張した。

「スリザリンへようこそ、ミス・ランドール。私は監督生のマルフォイだ」
「ありがとうございます」

 一番手前にいた男子生徒が差し出した手を握る。プラチナブロンドを靡かせた彼に礼を返し、上級生たちに声をかけられながら偶然空いていたトムの隣に腰を下ろした。

「トムはレイブンクローかスリザリンだと思ったよ」
「おまえこそ、スリザリンだとは予想外だ。随分長いこと被っていたようだけど何か言われたのか?」
「うん、まあ。レイブンクローと迷っていたみたい」
「勤勉のレイブンクロー?おまえが?」
「うるさいよ」

 ボソボソと続く組分けを見ながら小声で話していると最後にヤックスリーという生徒がスリザリンになり、教授は羊皮紙を巻き取って椅子と帽子を片付けた。ディペッド校長が立ち上がり長い話が始まる。教師陣のテーブルについたダンブルドア教授を目で追っていると何故かバッチリと視線がかち合ってしまった。曖昧に口の端を上げながら会釈をすると彼は綺麗にウインクをして見せた。校長が話しているのに教師がそれでいいのかと思ったが、当の本人は特に気にする素振りはない。
 そして長い長い話が終わり、校長がパンパンと手を鳴らすとテーブルの上の金の大皿に突如食べ物が出現した。ローストビーフ、ローストチキン、ポークチョップ、ラムチョップ、ソーセージ、ベーコン、ステーキ、茹でたポテト、グリルポテト、フレンチフライ、ヨークシャープティング、豆、人参、グレービー、ケチャップ、そして何故かハッカ入りキャンディ。

 ご馳走が山盛りになった大皿を前にぽかんと呆気にとられてしまう。こんな光景は初めて見た。孤児院ではちゃんと食事が配給されていたから決して貧困していたわけではない。しかし普通の家庭よりも貧しいのは事実で、肉が出るのは稀、おかわりなんて一度もしたことがなかった。周りの生徒達が思い思いの量や種類の料理を取り食べている。隣のトムがすぐそばのローストチキンに手を伸ばすのを見て我に返り、わたしもそれに倣いたくさんのご馳走を少しずつ皿に盛って食べ始めた。柔らかいステーキにナイフを入れ、ソースに絡める。ステーキなんて随分と久しぶりだ。
 
 「なあ、君名前なんて言ったっけ?」

 唐突に声をかけられて顔を上げると向かいに座った男子生徒が私を見ていた。少し迷い、今まさに口元に運ぼうとしていたステーキを諦めてフォークを離す。肘をついて笑む男子生徒を真正面から見返して。

「人に聞く前に自分から名乗るのがマナーだと思うけど」

 そう返してようやくステーキを頬張ると彼はぽかん、と虚を衝かれたような表情を見せた。何故かその隣の男子までもが物凄い形相でわたしを見る。ステーキを咀嚼しながら首を傾げると、突然正面の男子が噴きだし腹を抱える勢いで爆笑し始める。残りのステーキを切り分けながらその様子を見ているとややあって彼は笑いを収めた。

「いや、君の言う通りだ!俺はエイブリー。ダニエル・エイブリーだ。ダニーでもダンでも好きなように呼んでくれ」
「シャロン・ランドール。よろしく、エイブリー」

 再びエイブリーと名乗った彼は笑いだした。わたしは初対面の相手を気安くファーストネームや愛称で呼ぶような人間じゃない。それも、聞かれるまで名乗りもしないヒトに対しては、特に。

「シャロン、やっぱり君面白いな!俺のことを知らないってことは純血じゃあないだろう?混血か?まさかマグル生まれとは言わないよな?」
「さあ。孤児院育ちだから親のことは知らない。ただ魔法がかけられてる指輪を残していったから少なくとも片方は魔法使いだと思うけど」

 純血というのが魔法使い同士の親を持つ者で混血が魔法使いと非魔法族のハーフだということは知っている。魔法の指輪である中指の指輪を撫でてそう言えば、ふうん、と楽しそうにエイブリーは相槌を打った。

「ま、穢れた血じゃないならいいさ。君もスリザリンなら純血の奴と仲良くしておくといい。前にいた監督生がいただろう?彼も聖二十八血族の筆頭であるマルフォイ家の嫡男だからな」
「……その穢れた血とか二十八なんとかって、なに?」

 聞き覚えのない単語が出てきて思わず聞き返すとエイブリーはニヤリと意地の悪い笑みを浮かべた。吊り上げられた唇にはあからさまな侮蔑が含まれている。

「穢れた血ってのは、マグル生まれの連中のことだ。突然変異だかなんだか知らないが高貴な血も持たない奴らは穢れている。魔法は選ばれし血を引く者だけが使うべきだというのに」

 なあ、とエイブリーがその隣の先ほど凄い形相をしていた男子に話しかけると、彼は緊張を隠しきれずに吃りながら短く返事をした。顔を真っ赤にした彼はその通りですだとかさすが聖二十八血族の方は言うことが違うだとかなんとかペラペラと賛辞を捲したてる。話題を振った張本人であるエイブリーは最初こそ満更でもなさそうだったが賛辞が長引くほどに段々と鬱陶しそうな表情を浮かべた。

「わかったわかった。……こいつウチの傘下の家の奴でさ。色々と便利だがうるさいのが問題なんだよな」
「も、申し訳ございません!」
「ああ、聖二十八血族ってのは間違いなく純血の血筋だとされる二十八の名家のことな。ノット家の当主がリストアップした本を書いたんだ」

 ──────なるほど。魔法界では血筋による差別が横行していて、わたしたちと同い年の子供ですら過激な思想を持っているのか。スリザリンでは特にそれが顕著、ここでうまくやるにはその純血に擦り寄る必要があると。
 魔法界と言うのはただファンタジーなだけでは無さそうだ、と垣間見えた面倒事に内心辟易しているところにエイブリーが話を続ける。

「ところで孤児院育ちってことは親に捨てられたのか?」
「多分そう。純血じゃなくて悪かったね」
「いや?まだ親が純血の可能性もあるだろう?ただ#ランドール#なんてファミリーネームは聞いたことがないから望み薄だが」
「別にどうでもいいよ。仮に親が純血の貴族様だったとしても興味ないし」
「ふうん。さっき君と話していた隣の奴は?」

 隣の奴、と言われてトムを見ると近くにいた女子数名に質問責めにされていた。全く気がつかなかったのが不思議に思えるくらい女子の高い声が辺りに響く。こちらに背を向けているため表情はわからないがかすかに聞こえる声は嘘みたいに穏やかで優しい。

「同じ孤児院育ちなんだ。名前はトム・リドル」
「へえ。おい、リドル」

 女子に囲まれ近寄りがたい雰囲気を物ともせず、エイブリーはトムに声をかけた。それに気づいて背後を振り返り、エイブリーを視界に入れる。

「僕のことかな」
「ああ。……人形みたいな顔だな。女が騒ぐのも納得だ」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
「そうしてくれ。俺はダニエル・エイブリーだ。ダンでもダニーでも好きに呼べ」
「僕のことも好きに呼んでくれ、エイブリー」

 差し出された手を握ろうとする寸前にエイブリーは又しても噴き出した。笑いながらリドルと握手を交わす。

「一緒に過ごしていると似るものなのか?君ら二人とも面白いな!」
「………それはどうも」

 曖昧に返事をすると、目の前の大皿から食べ物が消えた。そして次の瞬間、ピカピカの大皿に山盛りのデザートが現れる。色とりどりのアイスクリーム、アップルパイ、糖蜜パイ、エクレア、ジャムドーナツ、トライフル、いちご、ゼリー、ライスプティング、他にもたくさん。
 出来立てのアップルパイにバニラアイスクリームをトッピングするという発想は極悪だった、美味しすぎる。甘党にとってここは楽園だ。日頃甘いものと言ったらチョコレートのかけらを齧るくらいしかできなかったから涙が出そうなくらい嬉しい。トムは再び女子の群れに意識を戻され、私は引き続きエイブリーに純血の名家について教えてもらうことになった。

「二十八血族の他にも純血の名家はある。ポッター家とかな。あとはクロウリー家なんかもそうだ。あそこは変り種だが」
「変り種?」
「あそこは予言者の血筋なんだ。トレローニーなんかも予言者の家系で有名だが、クロウリーは過去や現在、未来を見るらしい。そこの嫡男がレイブンクローにいる、あの黒髪がそうだ」

 振り返ってレイブンクローの席を見ると黒髪の新入生を見つけることができた。青い目をしている、いかにも気弱そうな彼がそんな力を持つようには見えない。

「クロウリーの者は皆碧眼だと聞くが、あいつもそうみたいだな。もやしにしか見えないが」
「ふうん……」

 青い目の少年を見ながら、そっと目を細める。予言者の家系、過去・現在・未来を見る者。わたしの眼も、そういう家系による者なのだろうか。

「まあマルフォイやブラック家なんかの有名どころを覚えておいて穢れた血と関わらなければなんとかなるさ」
「そう。魔法界も色々とややこしいんだね、勉強になったよ」
「それは良かった」

 肩をすくめて見せたエイブリーとホグワーツの授業や行事について話していると、とうとうデザートも消えてしまった。パイの欠けらも残っていないピカピカの大皿から上座へと視線を移すと校長が立ち上がり、えへんと咳払いをする。そして再び長話が始まるが途中で生徒の大多数が眠そうに目をこすっているのに気づいたらしく、すぐに終わった。

「最後に校歌斉唱!」

 校長が杖を一振りすると金色のリボンが長々と流れ出てテーブルの上高く昇り、クネクネと文字を描いた。そして全員が歌い始めるがどうやら決まったメロディーはないらしく、各々適当に歌っていた。そもそもスリザリンは真面目に歌っている生徒が少なく、エイブリーなんかは大きな欠伸を隠そうともしない。反対に、赤いネクタイのグリフィンドールの生徒は皆大声で大合唱していた。なるほど寮の特色はこんなところにも現れるのか。そして全員が歌い終わり、浮遊していた歌詞が消え去る。

「それでは就寝。監督生の諸君、頼みましたぞ」

 その合図によってテーブルの先頭にいた上級生たちが一斉に立ち上がり、新入生に声をかけ始めた。寮へと案内してくれるらしい監督生に誘導され、列になった新入生は大広間を抜ける。玄関ホールから長い階段を下ると地下牢があり、そこから奥に向かうと湿った石壁へとやってきた。そこで監督生は立ち止まると新入生が全員いることを確かめて、石壁に向き直る。

「サラザール・スリザリン」

 そう監督生が言うと、壁に隠された石の扉が姿を現しひとりでに開いた。どうやら合言葉が必要らしい。監督生に続いてドアの向こうに入ると、そこは天井が低く、細長い地下室だった。壁と天井は荒削りの石造りでどこか寒々しい印象を抱かせる。天井から丸いランプが鎖で吊るされており、緑色の明かりが中を照らしていた。何より目を惹かれるのが奥の大きな窓だ。まるで水族館の水槽のような窓の向こうで悠々と巨大なイカが泳いでいる。

「ようこそ、スリザリンの談話室へ。ここに入るには合言葉を言う必要がある。二週間ごとに変わり、暖炉脇の掲示板に張り出されるから忘れないように。さあ、男子諸君はこちらへ」
「女子のみんなはこっちよ」

 近くにいたエイブリーとトムに挨拶をして、女子の監督生についていく。談話室の壁にはいくつか扉が付いていて、新入生は再奥の大きな窓、その端に扉に案内された。そこを開けると中には長い廊下が続いていて、廊下の左右の扉には何人かのネームプレートがつけられていた。自分の名前が貼ってある部屋を探すよう言われ、扉を確認しながら進んでいくと最奥の突き当たり、唯一正面にある扉に自分の名前を発見した。中に入り、その豪華さに思わず目が奪われる。
 円形の部屋にはアンティークの四本柱のベッドが三つ置かれていて、緑の絹の掛け布がついていた。周りには深緑のビロードのカーテンがつけられている。天井から銀のランタンが吊り下げられ、壁の丸い窓からは水中が伺えた。豪華だけど嫌味を全く感じない。至る所に緑と銀が散りばめられた、品のある素敵な寝室だ。

「退いて、邪魔よ」
「あ、ごめんなさい」

 入り口で内装に見惚れていると、後ろから棘のある声がかかった。慌てて隣に退けば銀髪を靡かせた女の子が入ってくる。ちら、とこちらに寄越した瞳は綺麗なアイスブルー。不機嫌そうに唇を引き結んだ顔はとても同い年とは思えないほどに整っている。その綺麗な顔を彩るカラーリングも相まって氷の女王、というイメージが頭を過ぎった。
 彼女はさっさと右奥のベッドに向かうとトランクを開け始めた。それに倣い、自分の荷物が置かれた正面のベッドで荷解きを開始する。彼女も私も無言で手を動かし、粗方片付いたところで寝室の扉が開いた。

「ここが寝室?なんだ、結構狭いのね」

 部屋をぐるりと見渡した少女は自分の荷物が置かれている左奥のベッドを確認すると蜂蜜色の髪の少女はその自身のベット、ではなく何故か奥のわたしの元までやって来て、ねえ、と声をかけた。

「……わたし?」
「そうよ。貴女、さっきダンと喋ってたでしょう?」

 ダンとは、と一瞬頭を捻り、すぐにエイブリーのことかと思い出す。そういえばダンでもダニーでも好きに呼べと言っていた。

「エイブリーのことなら少し話をしたけど」
「ふうん。見ない顔ね、貴女ファミリーネームは?どこの家の子?」

 ジロジロとこちらを不躾に見下ろしてくる少女に内心またか、と溜息を吐く。スリザリン生は自ら名乗るという礼儀を知らないのだろうか。エイブリーも目の前の少女も育ちの良さは伺えるというのに。

「……ランドール。シャロン・ランドール。きみは?」
「あら、私のことも知らないのね。ジェシカ・セルウィンよ、聖二十八血族の一つセルウィン家の娘。同室なのだもの、仲良くしましょ?」

 にこりと微笑まれて白い手を差し出された。よろしく、と一言返して見た目通り華奢なそれを握り返す。洗い物なんて生まれて一度もしたことがないのだろう、あかぎれは勿論ささくれすら存在しないこの手は、何不自由なく無邪気に生きてきた上流階級の人間の手だ。

「ダンと話をしていたのだから、名家ではないにしろ貴女も純血なのよね?」
「さあ。わたし、親のことを知らないから」
「なあにそれ、どういうこと?」
「孤児院育ちなの。魔法の指輪が残されていたからどちらかは魔法使いだと思う」
「孤児院!私そんな子と喋るの生まれて初めて!」

 エイブリーの時と全く同じ説明をすると何が面白いのか、顔を輝かせけらけらと優雅に手を合わせながらジェシカは笑う。完全にバカにされているようだけど、悪意は一切感じられない。なんだこの子、と尚も笑い続けるジェシカを訝しげに見ているとしばらくして笑いを収めた彼女はエメラルドグリーンの瞳に溜まった涙を指で拭いとった。

「貴女面白いわね!気に入ったわ、私とお友達になりましょう!」
「は、え?」
「ジェシカと呼んで、シャロン。ダンが純血でもない貴女とお喋りしていた理由がなんとなくわかる気がする」

 わたしの両手を白い手に包み込み、ジェシカはにっこりと誰をも魅了しそうな笑みを浮かべた。その表情に悪意は一切見られない。つられてよろしく、と返すと彼女は嬉しそうに笑みを深める。そして奥のベッドでちょうど荷物を片付け終えたところらしい銀髪の少女に声をかけた。

「ねえ!貴女は何て名前なの?」
「……イザベラ・フロスト。先に言っておくけど私はアンタみたいなお気楽お嬢様と仲良くする気はないから。そこの悲劇のヒロインぶってる奴ともね」

 ハン、と鼻を鳴らしてイザベラはベッドの周りのカーテンを勢いよく閉めた。挑発的な言い草に虚を衝かれたが、すぐに普段の環境から暴言は言われ慣れているわたしはまだしもジェシカは相当腹が立ったのではと思い、恐る恐る背後を振り返る。当の本人は何故かきょとりと瞳を瞬かせ首を傾げた。

「気楽なお嬢様ですって。仲良くする気は無いのに、どうして褒め言葉を言ってくれたのかしら」

 心底不思議そうに呟き小さく欠伸を漏らすとイザベラの言葉を微塵も気にした素振りは見せずにおやすみと足取り軽く自身のベッドに戻っていった。わたしやイザベラのものよりだいぶ量の多い荷物から一際大きなトランクの蓋を開けると中からネグリジェを引き摺り出し、カーテンの向こうに消える。
 その何ともマイペースな一連の動作を唖然として見ていたわたしは遅れておやすみ、と返し、前もって出しておいた寝間着に着替えてカーテンを引いたベッドに潜り込んだ。銀色の糸が刺繍されたベッドカバーは手触りが滑らかでふかふかの枕は頭が沈み込んでいくよう。精神的にも肉体的にも疲労困憊していたからか横になった途端、急速に眠りに落ちていく意識の片隅で流石金持ちが多く通う寮は違うなあと感心する。

 ──────呪われた金眼の子。ずっと引っかかっていた、あの帽子の言葉。不可解な謎は胸に染みを落とし、じわりじわりと広がっていく。初めて聞いた、だからこそ驚いたというのに───どうして、こんなにも聞き覚えがあるのだろう。意識が途切れるその間際、いつまでも耳元で響くその声に、そっと蓋をした。

Back/Top