10
「だーかーら!さっきから何度も言ってるじゃないですか!僕にも、分からないんです!」
天沢くんの声が居間に大きく響いた。それは怒りというより、限界ぎりぎりの悲鳴に近い。
けれど、私も自分では止められないくらい必死だった。
「で、でも、発売されてたよ?」
頭の中では落ち着かなきゃと思うのに、漫画に登場していた自分の姿を思うと、冷静でなんかいられるはずがない。
父の家の玄関を開けるや否や、息を整える間もなく靴を蹴り脱ぎ、そのまま目の前にいた天沢くんへ詰め寄っていた。
あの最新話はなんなのか、掲載を止められないか、削除できないか――けれど、返ってきたのは絶望的な答え。
「いつの間にか、パソコンから出版社に原稿が送信されてたんです。先生が描いてたものはまだ完成もしてないのに、見覚えのない原稿の送信履歴だけ残ってて…!僕も何が起きたのか分かってません…!」
「でも、誰かが送ったから発売されてるんじゃないの?」
「それが分からないから、困ってるんですよ……!」
天沢くんは机に両肘をつき、髪をぐしゃぐしゃにかきむしった。細い肩が震え、机の上のマグカップがカタカタと揺れる。
「じゃあせめて、出版社に連絡して今からでも削除してってお願いできない?あ、あんなの……このまま世に出回ってるなんて……!」
「僕だって言いましたよ!何度も!」
自分でも情けないほど、感情が制御できなかった。天沢くんも疲弊していて、このままでは埒があかない。
きっと、編集部や色んなところから私と同じようなことを問い詰められたのだ。本人がいちばんパニックに決まっている。
「そんなあ……」
足元から力が抜けて、私はそのままソファに崩れ落ちた。
漫画に登場していた自分の姿を思い出すたび、羞恥で体が火照る。あのページが今もなお世界中に晒されているなんて。考えれば考えるほど、胃が痛くなる。
「出版社も最初はその原稿に不信感を抱いたそうですよ。だけど、絵のタッチがどう見ても先生のだから、そのまますぐ掲載をしちゃったって」
「そんな…お父さんのじゃないのに」
呟くように言うと、天沢くんは短く息を吐いた。
「…はい。電話で『間違いだ』って言ったら、もう手遅れでした。一万人以上が読んでしまってたから、今さら消したら余計に騒がれるって……」
もう、どうにもならない。
頭がふらつき、視界がぼやける。パズルのピースをはめる暇もなく、気づけば誰かの手によってすべて組み上げられ、公開され、話題になっていた。もう止められない速度で、全世界にあの物語が拡散されている。
私はただ、長く息を吐くしかなかった。
「……それで、お父さんは?」
少し落ち着いたつもりで尋ねた瞬間、天沢くんの表情が苦々しく歪む。
「荷物まとめて、また出て行きました。僕らアシスタントも全員、解散って。『もう描かない』って言い残して」
「……そう」
肩にずしりと重たい何かがのしかかる。
父と話がしたかったのに。この異常事態について、冷静に考えたかった。でも、彼は逃げた。――自分の知らない場所で、作品が勝手に動き出すという支配の崩壊に、耐えられなかったのかもしれない。
「でも……どう考えても、おかしいですよ」
天沢くんが静かに口を開いた。
その目は私と、モニターに映る漫画の一コマとを、何度も何度も往復している。
「この展開……先生が描いたとは思えません。急にりかさんが登場して、安室透を救う?その前までの流れと、明らかにトーンが違うし、キャラの動きも、感情も…なんというか…。なのに絵のタッチはどう見ても先生のだし…」
言葉を探すように途切れ途切れで、それ以上先に進めなくなる。
そのとき、天沢くんの視線がふいに私の服に落ちた。
「……ま、待ってください。りかさん。そのワンピースってまさか……」
動揺を含んだ声。天沢くんの瞳が、信じられないといったように大きく見開かれた。
私は胸がきゅっと鳴った。ようやく、この状況を信じてくれる人が現れたかもしれない。これは、兆しだ。なんとかして彼に信じてもらわなければと、私はそっとワンピースの裾をつまんで、小さく広げて見せる。
「ねえ、天沢くん。このワンピース、いくらに見える?」
「え……?」
天沢くんは戸惑いがちに瞬きしながら、そっと私の服へ視線を落とす。
布地はなめらか。柄は繊細で、縫製も完璧。素人目にも、それが“いいもの”であることは明白だった。
「……八万円なの」
一拍置いて告げたその数字に、天沢くんの肩がぴくりと震える。
「はっ、はち……」
「うん、八万円。こんな服、私が自分で買うと思う?」
――さっき、ここに来るまでにワンピースのタグを外したとき、改めて額面を目にして自分の目を疑った。
ゼロの数を思わず数え直したけれど、見間違いではない。そんな高価なものを、安室さんは何の迷いもなく買ってくれたのだ。レジ前で当然のようにカードを差し出し、涼しい顔でサインをしていた。
今考えると、平手打ちをするなんて、そんな高価なものを買ってくれた人への態度じゃない。安室さんが怒るのも当然だ。
「思わない……けど、意味がちょっと」
天沢くんが目を白黒させながら、手を震わせる。
私もこの状況の異常さが痛いほど分かっていた。それを受け入れてしまっている自分も、意味がわからない。けれど、これをひとりで抱えるにはあまりに重すぎて、誰かに説明するには事実が必要だった。
「それに、朝からずっとお父さんとは顔を合わせてないの。なのに、どうして漫画の中の私は、私とまったく同じ服を着てると思う?会ってもないのに、描けないはずだよね?」
私の言葉に、天沢くんはモニターに映る女性と私とを、何度も見比べた。そして、みるみるうちに顔が青ざめていく。
きっと、とても混乱しているのだと思う。私だって混乱している。いまだに夢だったのかと思うくらいだ。
「た、たまたまってことは……?」
「ない」
その瞬間、天沢くんが糸が切れたように椅子から床にすとんと崩れ落ちる。そして、そのまましばらく黙ったまま動かなかった。
きっと頭の中で、常識というパズルを必死に組み直そうとしている。けれど、そのピースはもう二度と元通りにはまらない。
「し、信じてくれた…?」
「うそです。ぜったいうそです。それが漫画の世界のわけがないです。ただの幻に決まってます」
「私も最初は夢かと思ったけど、記憶があまりに鮮やかすぎるんだもん。あれは、ぜったいに漫画の世界だった。本当に、米花町に行ってきたの」
あの世界の空気の感触は、すぐにでも鮮明に蘇る。風の匂い、人の声、私を見つめるブルーグレーの瞳。
あれが幻だなんて、到底思えない。
「向こうも、この世界と何も変わらなかった。ちゃんとみんな呼吸して、会話して、仕事をして生きてる」
「……そんな、バカな。りかさんがそんなふうに言うから、本当に信じそうになるじゃないですか……」
「本当だってば」
「じゃあ、仮に本当だとしましょう。仮ですよ。りかさんは漫画の世界に入れたのに、なんで僕はだめなんですか?」
「たしかに…それは…私もわからない。ただ、気づいたらいつもあの世界にいたから」
自分でも言いながら、いまだに信じられない気持ちが胸をよぎる。
不思議な体験だった。でも、これは夢ではないし現実でしかない。今の私に出来るのは、この事実を受け止めてこれからのことを考えることだ。
「でもね。いくつかわかったこともあるんだよ」
私は言葉を選びながらそっと続けた。
あの世界は、漫画に登場する主要な人物たちを中心に動いている。彼らと接していないと、私は存在していないも同然だった。自分だけの行動や考えなんて、あちらの世界には映らない。
だから一人でいる時間は、瞬間高速のごとく、瞬く間に過ぎ去ってしまったのだと思う。目の前で、二ヶ月もの時間が一瞬で飛んでしまったのだ。
「だから……」
少し間を置いて、私は言った。
「こっちの世界の五分が、向こうでは何日にもなったりすることもあると思う。時間の流れ方が、全然違うから」
天沢くんは、瞬きもせずに私を見ていた。
話の内容を必死に追いかけているのが分かる。けれど、その眉間には深い皺が寄り、頭の中の引き出しを総動員しても追いついていないようだった。
……たぶん、半分も整理できていない。それでも耳を傾けてくれている。だから私は、間を置かずに言葉を重ねた。
「どうしてそんなことが起こるのか、私なりに考えてみたんだけどね。コナンの連載が始まったのって、もう三十年近く前でしょ?」
天沢くんは、こくりと小さく頷く。
「でも、あの世界では…半年くらいしか経ってない。三十年の月日が、半年に詰め込まれてるの。だから、無理にでも時間を圧縮するしかないんだと思う」
それが、私がこの家にくるまでに出した結論だった。それ以外に、説明のしようがない。
天沢くんは、膝に置いた拳を少し緩めた。だけど、まだ納得しきれない表情をしている。
「でも……どうやって漫画の世界に入ったんですか?」
「たぶんだけど、倒れてる安室透の腕に引っ張られたんだと思う」
「……それで?こっちに戻るには?」
「説明が難しいんだけど、その物語を完結させる必要があるみたい。登場人物に関わって、感情を動かすとか」
私は小さく息を吐いた。
そして、ほんの一瞬、視線を逸らす。
「だから……その、仕方なく……したの」
言葉にした瞬間、ぽっと頬に熱が上がった。
両手で顔を覆い、思わずその場にしゃがみ込む。ただ帰るためだけに、物語を終わらせるためだけに……唇を奪った。その必死さが本物だったことは分かっているのに、それをどうやって説明すればわかってもらえるだろうか。思い返せば返すほど、別の色がにじんでくる。
「……ま、まさか。りかさん。ほんとに……安室透にキ、キスを?」
「し、仕方なかったの!他に方法がなかったんだから!」
反射的に顔を背け、私は早口で言い返した。
天沢くんはしばらく、信じられないとでも言うように黙っていたが、やがてニヤリと口元を歪める。
「……本当は狙ってたんじゃないですか?」
「そんなわけないよ……!大体、そんな余裕なんか……!」
「昔からりかさんが安室透の大ファンだって、みんな知ってますよ?」
「…それとこれとは関係ないでしょ!」
「大アリですよ」
否定の言葉が、熱を帯びた顔に裏切られる。
浮かんでくるのは、車の中での低い声や、手の温もり、指先が髪をかすめた瞬間。そんな記憶たちが、羞恥心と一緒に胸の奥で渦を巻く。
「で……どうだったんですか?」
「は……?」
「漫画のキャラにキスするって、どんな気分なんだろうって。リアルだった?ちゃんと人間の感触、あったんですか?」
無邪気な問いかけほど、答えるのがつらいものはない。悪意がないぶん、たちが悪い。ますます言葉に詰まってしまう。
私は視線を逸らし、頬に触れる髪をいじりながらどうにか言葉を探した。
「……急だったから、気分とかないよ。あの瞬間は…ただ必死で。それに、あの人だって、漫画のキャラって感じじゃなかった。ちゃんと、生きてた。普通に……私たちと同じ、人だった」
真剣にそう思った。それだけは確かだった。
天沢くんはしばし黙ったまま私を見つめていたが、ふいに微笑む。
「へえ。やっぱり、かっこよかったんですね」
「……うん。……それはもう」
認めた途端、胸の奥で何かがちくりと痛む。
“仕方なかった”と繰り返しても、その影にある別の感情を否定しきれない自分がいる。ベッドで見た穏やかな寝顔も、視線が重なった一瞬の温度も――全部が鮮やかに残っている。
だからこそ、あれを“ただの手段”だと思い込もうとするほど、胸の奥に小さな罪悪感が膨らんでいった。
「……まあ、まだ全部を信じたわけじゃないですけど」
低く落とした声。
その距離感が、かえって本音に聞こえる。
「それでいいよ」
私は小さく笑った。全部を信じてもらうつもりはなかった。ただ、ほんの少しでも受け止めてもらえたなら、それで十分だ。
……次に向き合うべきは、きっと父だ。そして、あの人のいる世界のことも。答えはまだ見えないけれど、立ち止まってはいられない。
天沢くんの沈黙を背に、私はゆっくりと息を吐いた。夜の気配が、窓の向こうから静かに忍び寄ってきていた。
*
気がつけば、空はわずかに白み始めていた。
あと一時間もすれば、夜は完全に明けるだろう。
父の居場所を探そうとしたものの、結局、手がかりは何一つ掴めなかった。天沢くんと手分けして動く間も、私はコナンの世界について質問攻めに遭い、そのやりとりで頭も体も限界に近づいていた。
父がこれから安室透をどう描くのかはわからない。もし新しい原稿が入稿されたら、天沢くんがすぐに知らせてくれる手筈になった。今はそれを頼りに、一度家へ戻って休むしかない。
歩き出す足取りは重く、バス停に向かう途中で思わず肩をすくめる。
……寒い。朝の冷え込みにしては、妙に骨の内側まで染みる。そういえば、さっきからずっと軽い悪寒と頭の奥の鈍い痛みが続いている。風邪かもしれない。
そのとき、バスの定期をとろうとして、カバンの中にいつも入っている病院の社員証がないことに気づいた。まさか……と思い、歩きながら再度探るが、やはり手に触れない。
足を止めて深く息をつく。少し遠回りになるが、一度病院に寄って帰ることにした。どうせ今日は非番だし、通勤ラッシュ前のこの時間なら時間のロスも少ない。
人気のないレジデント室は、まだ朝日が差し込まない薄闇の中、蛍光灯の白い光が椅子や机を淡く照らしていた。
金属ロッカーの冷たい取っ手を握り、机の引き出しも念入りに探るが、やはり見つからない。
……困ったな。毎日使うものなのに。
「……まあ、後で出てくるか」
そう自分に言い聞かせるが、頭の重さと首筋の寒気がそれどころじゃないと訴えてくる。今日はやっぱり早く帰って休もう――そう思ったとき、背後で扉が開く音がした。
「…あれ、宮間?今日非番なんじゃなかった?」
振り向くと、当直明けの青木が立っていた。
目の下にはくっきりとクマができ、疲労でまぶたが重そうにみえる。
「…あ、お疲れさま。用事あって一瞬寄っただけなんだけど、私の社員証見てないよね?」
「いいや?無くしたのバレたら教授に殺されちまうぞ」
「だから怖くて探してるんだけど……見つからないんだよね」
半分冗談で返すと、青木は肩をすくめた。
私は鞄からペットボトルの水を取り出し、底の方にあった薬と一緒に一気に飲み下す。冷たい水が喉を滑り落ちた途端、少しだけ頭痛が和らいだ気がした。
「それ、なんの薬?」
「ロキソニン。ちょっと頭痛くて」
「そりゃそうだ。雨の中、そんな季節外れのワンピースで歩き回ったからだろ……」
青木の呆れ声を、苦笑で受け流す。
このワンピースは、私が買ったものじゃないんだけど…。そんなこと、誰にも言えるはずがない。
今は父の家から持ってきた黒いカーディガンを羽織っているが、肌にまとわりつく冷えは隠せなかった。
「俺ももう上がるし、車で家まで送ろうか?」
「ううん、大丈夫。バスですぐだから」
「なら、いいけど……」
青木に軽く別れを告げ、外に出る。
冷たい朝の空気が頬を刺し、息を吸うたびに肺が小さく縮こまる。歩くたび、足元が少しふらつく気がする。やっぱり、どこかおかしい。バス停のベンチに腰を下ろし、カーディガンの前をきつく引き寄せた。
早朝だからか、まだバス帯には誰もいなかった。膝に鞄を抱えたとき、鞄の中でスマホが震える。画面には天沢くんの名前。迷わず通話ボタンを押した。
「天沢くん?お父さんの居場所、分かったの?」
『それはまだ。でも、さっきの話で一つどんなに考えても納得できないことがあって』
「うん?」
天沢くんの声がもどこか遠いのを感じながら、私は曖昧に返事をした。
『漫画の世界へ入ったのは、怪我をした安室透の腕に引っ張られたからって言ってましたよね。でも二度目は?二度目に行ったとき、どうやって入ったのかなって』
「……そう言えば、私も分からない」
たしかに…と思いながらも、ふと、空を仰ぐ。そこまで頭が回っていなかった。
眠っていないせいか、朝日はいつもより白々と明るく感じた。暖かさに、うとうとしてくると、海のなかから太陽を見上げているような気分になる。
『その規則性が分からないと、また漫画の世界に入ってしまうかもしれないですよ』
「……そうだよね」
『真剣に対策を考えないと、りかさんの生活に支障が出ます』
「うん……」
自分の声が少し掠れているのに気づく。
次の瞬間、車の走る音が急に遠ざかり、天沢くんの声も霞んでいく。
『……ちょっとりかさん?聞いてます?』
焦った呼びかけが耳の奥でくぐもって響き――それが最後だった。
私は、世界から音がすうっと消えていくのを感じながら、静かに意識を手放した。
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