09
冷たい風が頬をかすめ、ゆっくりと意識が浮かび上がった。耳に飛び込んでくるのは、車の走行音や信号の電子音、どこかで聞こえる人の笑い声。湿ったアスファルトの匂いが、現実へと引き戻していく。
瞬きを繰り返し、顔を上げた。――ここは…カフェの前?見覚えのあるレンガの外壁と、雨に濡れた看板が視界に入る。
そのとき胸の奥がじん、と熱を帯びる。思わず唇に触れると、まだ指先にぬくもりが残っている気がした。喉の奥が詰まり、息が浅くなる。
「……夢、じゃない」
ふと視線を落とす。淡い水色の花と蝶のワンピース。黒い細ベルトがウエストを締め、裾が夜風に揺れている。安室さんが選び、試着室で着せられたそのままの姿だった。この服が、ここにある。それが何よりの証拠だった。
左手の腕時計に目をやる。針はカフェを出た記憶の時刻より、わずかしか進んでいない。けれど、あちらで過ごした時間を合わせれば、とてもこんな短さでは済まないはずだ。…これだと、つじつまが合わない。
「……行かなきゃ」
小さく呟く。足元には紙袋と、私が立てかけておいた傘。拾い上げると、夏の熱気に包まれていたはずの身体に、現実の夜風がひやりと触れた。
確かめなくちゃならない。あの世界のことも、父のことも、そして――私が本当に戻ってきたのかどうかも。
そう心の中で繰り返しながら、私はワンピースの裾を握りしめ病院へ向けて歩き出した。
*
病院の自動ドアが、静かに開いた。
夜間の受付は人影もまばらで、蛍光灯の白い光がやけに冷たく感じられる。カウンター越しに顔を上げた受付の女性が、私の姿を見て軽く会釈した。
……普通だ。誰も、私を探している様子はない。あれほど急いで駆けつけたのに、拍子抜けするくらい静かだった。
足を進め、エレベーターに乗る。そのまままっすぐにレジデント室へ向かい、扉に手をかけた。恐る恐る足を踏み入れると、同僚たちがデスクで作業を続けていた。
「…あ、宮間。遅かったな。雨止んでた?」
青木が真っ先にこちらに気づき、手を上げる。何気ない声が飛んできて、私は一瞬言葉に詰まった。
――遅かった、って?慌てて壁掛け時計を見ると、確かに私が出て行ってから30分以上経っていた。コーヒーショップまでの往復を考えても、少し長すぎる。でも、向こうで過ごした時間を合わせれば、このくらいでは済まないはずだ。頭の奥で、何かがきしむような違和感が走った。
「宮間が豆からコーヒー作ってきてんのかってみんなで話してたとこだぞ…って、なにその服?買い物?」
「え……あ、うん」
「ずいぶん高そうな服だな。結婚式にでも行ってきたのかと思った」
青木の冗談交じりの声に、私はただ曖昧に笑って誤魔化す。自分のデスクに戻りながら、じんわりと冷えていく背中を感じていた。
「……私、どれくらい……外出てた?」
震える声でそう尋ねると、青木は気にも留めないように肩をすくめる。
「ん?あー…30分くらい?コーヒー代あとで払うな」
そう言いながら、青木は私の手にある紙袋を受け取る。そのままみんなに、少し冷めたコーヒーやフラペチーノを配り始めた。
――30分。やっぱりおかしい。その数字が、耳に焼きつく。向こうでは、2ヶ月もの時間を過ごしてきた。季節をまたいで、安室さんの怪我だって完治していた。それが、こっちではたった30分。信じられないくらいの
どういうこと?もしかして、現実と“向こう”では、時間の流れが違う…?
「そういえばさ、」
ぼんやりしていた耳に、青木の声が滑り込んでくる。
「お前の親父、また出したな」
「……え?」
「ほら、コナンの最新話。さっき見たら配信されててみんなで読んだけど……さすがに今回は、ちょっとびびったわ」
「……コナン……?」
なんで今、その名前が出てくる?
それに…ついこの間、新しいのが出たばかりで、まだ次が更新されるには早すぎるのに。…なぜだろう、嫌な予感がするのは。
私は無意識のうちに、自分のPCのブラウザを開いていた。そのままデスクに腰掛け、電子書籍サイトを開き、『名探偵コナン』の最新話を検索する。――あった。たしかに配信済みになっている。それに、タイムスタンプも今日の日付。指先が勝手に購入ボタンをクリックしていた。
ページが開き、画面に映っていたのは…白衣を着た女だった。めくるごとに場面が変わり、ブティック、白いワンピース、揺れる裾、見覚えのある光の角度。そして、最後のコマで――その唇が、安室透のものと重なった。
「……ひぇっ」
思わず変な声が出た。パソコンの電源を、ほとんど反射で落とす。ブツッという音と同時に、モニターの明かりが消えた。
「……っ、なにあれ……」
どうしよう。どうしよう。頭がついていかない。
まただ。前回と同じ。私が向こうで経験してきた出来事が、そのまま全て漫画になって世界中に晒されている。あの距離も、あの温度も、全部。羞恥と混乱がごちゃ混ぜになって、目の奥が熱くなる。
気づけば、両手で顔を覆っていた。
「宮間……?」
そんな私の様子に、隣から青木の気配が近づく。周りも、何事かとこちらを見ている気配がする。
「なんか見たのか?エラー?」
「……ちが……」
「ちょ、お前泣いてる?」
「……っ、泣いてない……」
即座に否定したけれど、声が裏返っていた。
そのせいで余計に恥ずかしくなって、耳まで熱くなる。青木がぽかんと私を見つめ――不意に手を伸ばした。
カチッ。
「……あっ!!」
青木が、私のPCの電源を再び入れてしまう。慌てて椅子を引き寄せ、青木の手を払いのけるが、再び明るくなった画面にあの瞬間が戻ってしまった。
「……なんだよコナンかよ」
「見なくていいの!!」
そう言って、電源をもう一度呼吸も浅いまま落とす。そして、キッと青木を睨みつけた。対して、彼は悪びれもせず、半泣き状態の私を見て口の端を上げた。
「へえ。なるほど。…宮間、もしかして安室透のファン?」
「………へ?」
私は反射的に顔を上げる。
「それ読んでショックだったんだろ?たしかに、いきなり登場した女とキスとか……衝撃だよなー。ファンの間じゃテロだって言われてるぞ」
「て、テロ……?」
耳の奥がカッと熱くなる。
その単語を思わず拾いかけて、慌てて口元を押さえた。ファンもなにも、誰も私がその“いきなり登場した女”だなんて思わないはず。けれど、背中を這い上がる冷たい汗はどうしようもない。
「SNSもすげー荒れてた。"イカれた女に安室の唇を奪われた"とか」
「ひぇ…」
「"初キスの相手は梓さんじゃないのか?"とか」
「ひ……」
「"安室に女はいらない" だとか……」
「……も、もう勘弁を……」
胃の奥がひゅっと縮む。文字で言われただけなのに、まるで石を投げつけられたみたいにぐさりと胸に突き刺さる。こんなことは、私も想定外だ。今すぐ机の下に潜ってしまいたい。いや、いっそ消えてしまいたい。
青木は、そんな私の動揺を知ってか知らずか、まるで週刊誌の記事を読み上げるかのように淡々と続けていた。
「ま、俺はアリだと思ったけどな。急に現れた謎の女と安室が…って、予定調和じゃないとこが面白いんじゃねえの?最近の漫画って、先が読めてつまんないし」
「……え?」
皮肉にもならない、かすれた声が漏れる。
青木は「え?」とだけ返して、冗談のつもりだったのか笑った。
口を開きかけたけど、もう何も言葉が出ない。だって、否定するにも肯定するにも、胸がざわつきすぎて息が詰まる。一体、この状況をどうすればいいのか。
「いや、それにしてもこのキャラお前に似てるよなー。名前も同じだし……」
「…っ、くしゅ……!」
その時、自分の口からふいに小さなくしゃみが飛び出した。肩が震える。その音に青木が振り返り、私を頭のてっぺんから足先まで眺めた。
「…その格好。夜はまだ冷えるのにさ、薄着すぎるだろ。夏を先取りしすぎなんだよ」
――そうだった。
視線を落とすと、蝶の模様が散る淡いワンピースの裾が揺れた。薄手の、風通しのいい服。あっちの世界では、それでちょうどよかった。でもここでは…寒すぎる。それに、心なしかどこか頭が痛いような気がする。
季節も、空気も、時間も、私は…何もかもずれてしまっている。
「……私、帰る」
できる限り自然に声をあげ、立ち上がった。元は残業中だったし、今帰ったところでなにも問題はないはずだ。
青木が何か言いたげだったが、振り返らなかった。レジデント室の扉を閉め、静まり返った廊下に出る。
とりあえず、父の家へ向かおうと思った。
この現実はひとりで抱えるにはあまりに重すぎる。今起こってるおかしな現象についても、彼と話し合わなければならない。それに、安室透を殺そうとする理由についても、まだ教えてもらっていない。また誤魔化そうものなら、このワンピースを証拠に問い詰めるでもして絶対に話し合う。
その時、ぶると悪寒がして思わず両腕で自分を抱きしめた。次第に頭もじんじんと締めつけられるように重くなってきて、視界の端がわずかに霞む。
…あれ。おかしいな。なんか、調子が悪い。足元が落ち着かず、廊下を歩くたびに白い床の模様がゆらりと揺れる。
きっと、さっきの動揺が体にまで出てしまっているんだ。
エレベーターを待ちながら、鏡面に映った自分をみると顔が赤かった。あの時の感触が、まだ唇にまとわりついて離れない。
息を潜めて触れた一瞬。驚きで見開かれた瞳。こうなるってわかってたら――絶対に、あんなこと……。
「……なに考えてたの、私……」
唇をかすかに噛む。
現実へ戻るためだけに、彼の心を揺さぶるために――キスなんて。無事に成功したものの、思いきりもいいところだ。頬でも良かったはずなのに、確実に動揺させられるよう唇を狙ったのだから。あとから考えれば考えるほど、背筋が寒くなる。
その時だった。
「…おいっそこのお前!!宮間はどこにいるか知らないか!?」
怒声が病棟に響き渡った。
反射的に振り返ると、そこには門川教授が鬼の形相で廊下歩いてきていた。
彼が怒鳴っている理由に心当たりがありすぎて、咄嗟にそばにいた人の影に隠れながら様子を伺うと、教授はすれ違った看護師に詰め寄っていた。
「ど、どうして宮間先生を……?」
看護師が戸惑いながら問う。
そう。私もそれが知りたい。その問いに、教授は怒りを噛み殺すように叫んだ。
「コナンだよ!!“あいつが出たせいで、世界観が崩壊してる”って、クレームを出すんだ!!」
やはり漫画のことだったかと、青ざめる。
今教授に関わるとろくなことにならない。その時、ちょうどやってきたエレベーターへと全力で駆け出し、中にいた数人をかき分けていちばん奥へと潜り込んだ。
あの怒り方は、どう見ても“例のシーン”のことだ。教授も、あれを読んでしまったんだ。
「……ひっ」
その刹那、目の端に嫌でも飛び込んできたもの。斜め前の男性がスマホを傾け、電子漫画の「コナン」の最新話を読んでいる。
筒抜けもいいところだ。あのページも。このページも。私の行動が、誰かの目にさらされている。そっと中腰になり、バッグを抱き締め、視線を落とした。
……どうして、こんなことに。
逃げたい。今すぐ、いなくなりたい。でも、ここは現実だ。どこにも逃げ場なんてない。
押し寄せる羞恥と後悔に、ただ小さく震えるしかなかった。
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