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side: Kazami
「……はい?頬を叩いて、キスをしたと?」
耳を疑い、思わず眉間に皺が寄った。
降谷さんから連絡が入ったのは一時間ほど前――宮間りかが再び消息を絶った、という報告だった。
もはや彼女の“失踪”自体は珍しくない。常識外れの現象が繰り返し起きることも、我々にとっては日常業務の延長にすぎない。だが今回も、“また”奇妙な消え方だった。ブティックの試着室に入ったまま、忽然と姿を消したという。
出入口は一つ。壁を乗り越えられるような構造でもない。
人間が物理的にこうも跡形もなく消えるなど、通常あり得ない。必ず何かしらの仕掛けがあるはずだ。そう考え、現場に急行して事情聴取を引き受けた。
降谷さんは「確認することがある」とだけ告げ、その場を離れた。
しかし――事情聴取の途中で、店員から想定外の証言が飛び出した。
彼女が降谷さんの頬を叩き、その直後にキスをしたと。状況がまるで飲み込めない。意図も不明。冷静に考えれば、常識的判断から逸脱した行為だ。
一瞬、男女間のもつれという単語が脳裏をかすめる。だが、降谷さんに限ってそんな感情的な衝突はあり得ない。任務の最中に私情を挟むような人ではないし、彼の交友関係に女性が関わること自体、極めて稀だ。
……ならば、やはりあの女の行動には別の意図がある。
「……すみません。もう一度、試着室を確認させていただけますか」
「は、はい……どうぞ」
店員は明らかに動揺し、視線を逸らした。
――方法を突き止める必要がある。あの女がどのように姿を消したのか。彼女はあくまで容疑対象。私情は挟まない。
眼鏡の位置を直し、意識を切り替える。
まずは扉の構造を点検。異常なし。
ノブに手をかけ、静かに扉を開ける。
――その瞬間、視界に映った光景に思考が一瞬固まった。
呼吸を整え、胸ポケットからスマートフォンを取り出す。降谷さんの番号を呼び出すと、一度のコールで応答があった。
『風見か?今からそっちへ――』
「降谷さん」
冷静を装いながら、言葉を紡ぐ。
「……本当に、彼女が“いなくなった”のでしょうか」
一拍置いて、事実を淡々と告げる。
「試着室の床で、倒れています」
視線の先、試着室の床。
うつ伏せに横たわる彼女の背中を、静かに見下ろしながら。
*
「……本当に、試着室で倒れていたのか?」
「はい。間違いありません」
降谷さんの低い声に、自分は即答した。
彼が現場を確認した際、残されていたのはひとつのカードと貸し出したスマートフォンだけ。人の姿はなく、気配すらなかったという。
確かに、あの狭い試着室で人間を見落とすなど考えられない。だが現に、彼女は今、店内のソファで眠っている。
降谷さんは腕を組み、顎に手を添え、長く視線を落としたまま動かない。何かを組み立てるように、思考を深く潜らせている。
――まただ。
彼女は脈絡もなく現れ、何事もなかったように消える。前回と同じ不可解な現象。
ソファの上で小さく呼吸を繰り返すその姿は、ただ無防備なだけに見えるが、理由のない現象には必ず裏がある。それを突き止めなければ。
最近の降谷さんの判断には、理解しがたい部分が増えてきた。病院から彼女を一度逃がすと告げられたときは耳を疑った。任務において彼は、対象が一般人であっても監視網から外すようなことは絶対にしない――そう信じていたのに。例外は作らないはずの人が、彼女に関してだけは別だった。
今まで、必死に降谷さんを刺した犯人を探してきた。あらゆる人脈を辿り、情報を掻き集め、動ける限り動いた。
けれど、どんな成果があっただろうか?降谷さんを刺した相手の情報、何一つも見つけられていない。犯行動機もわからない。サイコパスの可能性も低い。髪の毛一つ、目撃者1人も出てこない。
唯一、事案と同時に浮かび上がった存在――それが彼女だ。
にもかかわらず、彼女は消え、そして現れた直後に降谷さんが自ら逃がした。彼は「犯人じゃない」と断言したが、その根拠は自分には見えない。
「……風見」
思考を断ち切るように、降谷さんの声が落ちる。
「今、彼女を刑事部に引き渡せば、詳しく話を聞くことも難しくなる。少しの間こちらで保護しよう」
理屈では理解できる。だが、納得はしなかった。胸の内に、反論したい気持ちが湧いたが、ぐっと唇を噛み飲み込んだ。
そのとき、店員がそっと彼女に近づき、ブランケットを掛けた。その優しさに、また苛立ちが募る。なぜ、誰も彼女を疑おうとしない?なぜ、降谷さんはここまで――この女に――。
降谷さんは小さく息を吐き、ゆっくりと彼女に歩み寄る。そして左手を背に回し、右腕を膝の下に差し入れ、ブランケットごと静かに抱き上げた。
その動作は実に自然で、任務中の冷徹な抱え方ではない。腕の中に収めた身体が揺れないように、ほんのわずかに歩幅まで合わせている。
一瞬、降谷さんの視線が彼女の顔に落ちた。眠っているとわかっているのに、その目は確かめるように長く留まる。額にかかる髪を、指先でそっと払った。
「ふ、降谷さん……何を……」
思わず声が震える。
降谷さんは、こちらを一瞥もせずに言った。
「彼女を一旦保護すると言っただろう。上にはまだ連絡しないでくれ」
「……承知しました」
絞り出すように答えるしかなかった。
「…どちらに?」
「安室の家だよ」
歩き出そうとしたその時、降谷さんはふと足を止め、彼女の肩口を軽く引き寄せ直す。まるで外気から守るように、ブランケットの端を片手で直し、胸元まできちんと掛け直した。
踵を返しかけた降谷さんが、ふと振り返る。
「ああ、それと――ここで彼女を目撃した者を探して口止めしてくれ。動画や写真があれば、すべて消去させるように」
低く抑えられた声には、有無を言わせぬ圧があった。かなりギャラリーがいたことも一緒に伝えられる。
自分は無言で頷いた。命令は絶対だ。
ただ――やり切れない。この気持ちは、きっと消えない。彼の背中を見送る間、視界の端で揺れるブランケットの裾が目に焼きついて離れなかった。
**
ゆらり、ゆらりと揺れていた。温かい。それだけはぼんやりと分かっていたけれど、夢とうつつの境界線に浮かぶ私は、そこから抜け出すことができずにいた。
「……全く。呑気な人ですね」
耳元で、静かに声が落ちる。
あれ――この声、知ってる。よく知ってる。胸の奥に柔らかく染み込んでくるような、心地のいい声だ。だけど、思い出せない。名前が、出てこない。
「どうしても、黒には見えないんですよね。どうして皆そう言うのでしょうか?」
また、そっと囁く声。その響きに胸がざわめく。懐かしいような、切ないような気持ちが、じんわりと広がる。
――安室透?いや、そんな馬鹿な。だって私は、もう現実に戻ったはずだ。二ヶ月が三十分だったと知った。天沢くんと会って、それから……。
……それから、私は?あれ?家に、帰った記憶がない。きっと疲れて、そのまま寝てしまったんだ。
ならきっと、これはただの夢だろう。夢の中でも、またコナンの世界に迷い込んでいるなんて、ずいぶん翻弄されているなあと思う。
「……また、来てしまったんだ……」
思わず、静かに自分の声が漏れた。
「僕も気になりますね。貴方がどうやって消え、どうやって戻ってきたのか…」
声が少しだけ、低くなる。叱るわけでもないのに、どこか怒っているような響き。
――やだな。夢の中でまで、怒られたくない。疲れているのに。眠って、休みたかっただけなのに。身体は重くて、まるで鉛を詰めたみたいに動かなかった。目も、開けられない。
この夢、いつ終わるんだろう。ただ、分かっているのは、誰かに横抱きにされていることだけ。
ふわり、と背中に何か柔らかいものが触れた。そしてそっと、優しく降ろされる。包み込まれるような感触に、私はすぐにそれがベッドだと気づいた。ふわふわとした温かさに、思わず口元が緩む。
――ここはどこだろう。誰のベッドだろう。鼻先をくすぐる、柔軟剤の優しい香り。思わず、すん、と小さく吸い込んでしまった。
「ん……ここはどこ……?」
「僕の家ですよ」
眠たげに問いかけると、すぐ傍で返ってくる声。
その響きに、ふっと意識が浮かびかける。目を閉じたまま、その声を頭の中で
「あぁ……MAISON MOKUBAですね……畳のお部屋の……」
ぼんやりと口にした瞬間――足音が止まった気配がした。そのあとに、小さく息を呑む音が続く。
「本当に、何でも知っているんですね。僕のこと」
「……あなたのこと……何でも……知ってます……」
「他に何を知っているんですか?」
問いかけられて、ゆっくりと記憶を辿る。
なに、って…。安室透は、黒の組織に潜入している公安警察官だってこと。29歳、独身。そして右利き。趣味はボクシング。
本名は"降谷零"。表の顔は私立探偵の安室透で、喫茶店「ポアロ」でバイトをしながら、毛利小五郎に弟子入りしている。
組織では"バーボン"というコードネームを与えられ、探り屋として活動していて、常に多忙な人。
ああ、あと、それから……
「……初恋の相手は、病院の先生……」
ぽつりと、思わず寝ぼけ声に出していた。沈黙が落ち、すぐ傍で誰かが息を呑む。
でも、これは私がずっと好きな設定だった。あの人の中にも、誰かをまっすぐに想った年相応の一面がある。
任務や嘘や演技に覆われた世界に生きる彼が、ただの少年らしくに気持ちを抱いていた頃。想像するだけで胸が温かくなる。
それに、自分が女医であることを少し誇らしくも思えたりもするのだ。
「…面白いですね。他には?」
促されるように、私はさらに記憶をたどる。
他に――他に、彼に関する情報と言えば……。
彼にはとても悲しい過去があるということ。
「……あなたの大切な友達……みんな故人で……。親友を亡くしてからは……赤色にトラウマができた……」
声が次第に沈んでいく。
自然と眉が寄り、胸の奥がぎゅう、と痛んだ。
「どうして、それを……あなたが知っているんですか?」
耳元で、静かな――けれどどこか震える声。
「だって……見たから……」
「……どこで?」
問われたけれど、すぐに答えることはできなかった。思い出すだけで、胸がきしむ。私はあのシーンが、どんな無残な殺人現場の描写よりも一番苦手だ。
「……ビルの屋上の……穴の開いたスマホ……あのシーン……」
ぽつり、ぽつりと、言葉がこぼれていく。
彼の悲しみに触れるたび、胸の奥が裂けそうになる。
だからこそ――もし、それが自分のせいだったと彼が知ってしまったら。きっと、その痛みは何倍にも膨れ上がるだろう。大切な友人を次々と失い、それでも正義を貫き続けて戦う彼が……ある日突然、糸の切れた人形のように壊れてしまうのではないか。そんな想像が、頭から離れなかった。
けれど、それ以降、安室さんからの返事はなかった。ただ、静かな空気が流れている。
――ほんの一瞬、彼の指先が私の首元に触れた気がした。それが夢なのか現実なのかも分からないまま、私は意識を手放す。
悲しい記憶に触れたけれど、次は、少しでも幸せな夢が見られたらいい。そんなことをぼんやりと思いながら、また深く、深く、眠りに沈んでいった。
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