39.5


和室の窓を開けた。
ちょうどお昼を過ぎた時間。太陽はじりじりと照らし、ベランダの物干し竿に丸い影を落としている。
胸の奥で、何もせずに待っているだけでは落ち着かない気持ちがもぞもぞと動いた。
——泊めてもらって、毎日ご飯まで用意してもらって。せめて、帰ってくるまでに部屋を整えておこう。
シーツを取り込み、代わりにタオルを干す。野菜プランターの土に指先を差し入れ、乾いている部分にだけ水を垂らすと、土の匂いがすこし濃くなった。
掃除機をかけ、枕を裏返し、ベッドの端を持ち上げてシワをのばす。体を動かしていると、考えごとは少し遠のいた。

キッチンへ行く。
シンクを軽く磨いて、手を拭った瞬間、空腹が小さく主張した。そういえば、もうお昼過ぎだ。
——お腹、すいたかもしれない。
視線を棚に向けると、透明な保存容器の中に、スコーンがあと一つだけ残っていた。これを食べようと、オーブンの扉を開けて中に置くと、スイッチを入れる間にも、バターと小麦の甘い香りがふわりと広がる。数分後、温め直された生地を皿に移すと、香りはさらに濃くなった。
ひとりで椅子に腰掛け、小さくひとくち齧る。外はほんのりやわらかく、中はしっとり。舌の上でほどける間、なぜか胸の奥がぎゅっと小さくなった。

「おいしい…」

家事をしていないと、急に部屋が静かだ。外からは蝉の声が遠く、かすかに混ざって届く。その静けさに、ふと、以前はじめてここに来たときのことを思い出した。
あのときも、この部屋には穏やかな空気が満ちていた。けれど私は何をしていいかわからず、ただ手持ち無沙汰に窓の外を眺めたり、時計を見たりしていた気がする。
家具や引き出しに手を伸ばすことすら気が引けて——勝手に触れてはいけない、踏み込みすぎてはいけない、そんな線がはっきりとあった。でも、今は少し違うのかもしれない。
洗濯物を干し、シーツを整え、シンクを磨いて……そうしている自分を、誰も咎めない。むしろ、帰ってきた安室さんが少しでも気持ちよく過ごせるようにと動くことが、自然にできている。
それは、この部屋の空気が、少しだけ私を受け入れてくれるようになったからなのだろうか。

私は静かに息を吐き、ポットに水を入れて火にかける。お湯が沸く音を聞きながら、あの人がドアを開ける気配を待つ——
今日は、それだけで十分だった。









陽が低く差し込み、廊下の奥まで長く伸びた影が静かに揺れるころ。玄関の方から、重たいロックが外れる音がした。
胸の奥が、ほんの一瞬だけ跳ねる。時計を見れば、予想より少し早い。足音が近づき、ドアノブが回る。夕方の光と共に、背の高い影が部屋に差し込んだ。

「ただいま戻りました」

いつもの低く穏やかな声。
肩から外したトートバッグを片手に、安室さんは靴を脱ぎながらこちらを見て微笑んだ。

「お、おかえりなさい…!」

腰掛けていたベッドから立ち上がって、和室から顔を出す。一日ぶりのその笑顔に、張っていた糸がほどけるような安堵を覚える。

「不便はありませんでしたか?今日はずっと家に?」
「は、はい。…大丈夫でした」

少し笑ってごまかすと、安室さんは靴を揃えながら軽く片眉を上げる。

「そうですか」

柔らかく微笑まれ、また心拍数が上がる。
安室さんはバッグをダイニングチェアに置き、袖を軽くまくりながら洗面所へと向かう。しばらくして、流れる水音と、石鹸のほのかな香りが廊下から漂ってきた。

「りかさん、お腹の具合はどうですか?夜ご飯にしましょうか」

タオルで手を拭きながら戻ってきた彼が、買い物袋を掲げる。袋の中から覗いたのは、艶やかな葉物野菜と魚の切り身、そして小さなバゲット。

「今日の夜は魚をソテーして、スープをつけようと思います」
「わあ…お腹すいてきました」

言った瞬間、本当にお腹が鳴りそうになる。
思わずお腹をさすると、安室さんがくすりと笑って袋をキッチンカウンターに置いた。そのあと、何気なく部屋を見渡し、その視線が和室の方で止まる。そして何かにふと微笑むと、彼の目がゆっくりとこちらに戻ってきた。

「…掃除、してくださったんですね」
「え、あ、はい…少しだけ。勝手にすみません」

自分でも、なぜ急に照れるのかわからない。
でも、そうして動いたことを彼がちゃんと見てくれていたと知ると、胸の奥がじんわりと温まる。

「いえ、ありがとうございます。帰ってきて部屋が片付いてると、心地がいいですね」

安室さんはそう言って、小さく笑った。
その笑みは、ほんのひと欠片だけ疲れを解いたように見えて——その表情を見た瞬間、ああ、やってよかった、と胸の奥で静かに確信する。
掃除をしたのは、ただ落ち着かない気持ちを紛らわすためだったけど、意味のない時間なんてひとつもなかったんだと思える。
そのまま自然と二人でキッチンに立った。私はサラダ用の野菜を洗い、安室さんは魚の水分を丁寧に拭き取って塩胡椒を振る。
包丁がまな板を叩く音、バターを落としたフライパンから立ちのぼる香ばしい匂い、弱火でじっくりと加熱される魚の白い身。
その全てが、昼間の静けさとは違う、暮らしの温度を部屋に広げていく。

「あ、私じゃがいも切ります」
「ありがとうございます。スープに入れますから、少し小さめで」

指示が短くても、声がやわらかい。その柔らかさに包まれて、包丁を握る手まで落ち着いてくる。
──あのとき、思わず「邪魔はしません」と言ったけれど、本音を言えば、もっと知りたいと思っている。安室さんのことも、今彼が抱えている何かのことも。だけど、無理に言葉を引き出してしまえば、今の温もりを壊してしまうかもしれない。そう思うと、これでよかったんだとなんとなく感じた。

「……そういえば、私がここに来てどれくらい経ちましたっけ?」

包丁を動かしながら、ふと口にした。

「今日で10日目ですね」

安室さんの返答は落ち着いていたけれど、その言葉が思った以上に胸に響く。
そうか、10日か。あっという間だ。

「…そうですよね。なんだか、時間が過ぎるのが早いです」

思えばあの拘置所で過ごした数日は、どこか時間の感覚が曖昧で、それでいて重苦しかった。
だけど、そこから抜け出して安室さんと過ごした約1週間は、驚くほど短く感じられて──それでも、心に刻まれた密度は、計り知れない。

「……向こうは、1時間くらいかな」

ぽつりと呟くように言った言葉は、自分でも不意打ちだった。向こうでは、きっとほんのわずかな時間しか経っていないはずだ。前に来たときも、そうだった。1週間近くここにいたが、戻ったらほんの30分しか経っていなかった。
──それを、今ふと思い出したのだ。思考の隙間に、どこか寂しさにも似た感情がよぎる。どれだけここで濃い時間を過ごしても、現実世界のたった30分にしかならないなんて。

「そうですね。1時間から2時間といったところでしょうか」

安室さんは、私の呟きに穏やかにそう答えた。その口ぶりは、まるで最初から知っていたかのように自然で思わず手が止まる。

「……え?安室さん、今……」

包丁を持ったまま、私はゆっくりと安室さんを見上げた。
あなたが、どうしてそれを、知っているんですか──。私は今まで一言も、ここで過ごした時間と、現実世界の時間の流れが違うことについて言及したことがないのに──。
けれど、その疑問を口にする前に、安室さんはふっと優しく笑って、私が切った野菜をざるに移す。私の反応を見ても特に驚くことなく、相変わらず落ち着いた表情を浮かべている。

「気づいていましたよ」

さらりとした言い方だった。
何の疑念も、戸惑いもない。

「……どうして?」

思わず問い返す。
指先がほんの少しだけ、包丁の刃に触れたのにも気づかないまま。

「…りかさんが、向こうの世界での生活があるはずなのに、仕事や日常に戻ろうとする素振りをまったく見せないこと。そして──」

ふと、彼の視線がこちらに向けられる。

「僕を動揺させないよう、細かい言葉や態度にずっと気を配ってくれていること。一刻も早く帰る必要があるなら、先日の僕の発言に対して『気をつけます』なんて言わないはずです。普通なら、『心配いりません』『すぐに帰りますから』などと言うと思います」

安室さんの言葉が、静かに胸の奥へと落ちていく。思い出すのは昨夜のこと。髪を乾かしてもらったあと、指輪を渡されたあのとき──。
“一緒にいたければ、涙や愛の告白は禁物ですよ”
あのときの安室さんの声は、冗談めかしてはいたけれど、どこか本気のようにも聞こえた。その言葉に、一瞬息が詰まったのを覚えている。
普段の安室さんなら、心がすぐに動揺するはずがないのに。もしかすると、あの時の発言は、安室さんがこの答えを導き出すためにわざと言ったのかもしれない。

「そういった点を踏まえて、早く帰る必要がないということは、時間の流れがここと現実では違うと考えるのが妥当です」

あの時、私が咄嗟に口をついた言葉が「気をつけます」だった。深く考えるよりも先に、私はそう返していた。今になって思えば、それは私自身の”答え”だったのかもしれない。私は、ここにいたかった。現実へ戻ることよりも、安室さんの側にいることを選んでいた。
だから、彼を動揺させるようなことはしない。余計な感情をぶつけたり、悲しませたりしないようにしよう。そう無意識に決めていた。
けれど──それが、安室さんにはすべて見透かされていたのだ。私がただ、“動揺させないように”と気をつけていただけのつもりだったそれが、“帰るつもりがない”と受け取られていたなんて。

「僕の推理、合っていますか?」
「……っ」

思わず唇を噛む。安室さんの観察眼が鋭いことは知っていた。知っていたはずなのに、まさかここまでとは──。

「……りかさん?」

ふと、安室さんが私の顔を覗き込む。言葉を返そうとして、喉がひりつくのを感じた。
──まただ。また私は、安室さんに“ここが漫画の世界だ”という現実を思い出させてしまった。せめて、この時間だけでも。この部屋で過ごすときだけでも、安室さんに「ここは現実世界となんら変わらない」と思わせてあげたかったのに。私が余計なことを考えて、言葉にしたせいで、また“境界”を意識させてしまった。

「……すみません」

そう呟いた瞬間だった。
包丁を持つ指先に、知らぬ間に力がこもりすぎていた。刃先がわずかに滑り、冷たい金属の感触が人差し指の腹をかすめる。

「──っ」

ピリ、とした痛み。
次の瞬間、薄い皮膚の下から赤がじわりと浮かび上がった。

「あっ……」

ほんの小さな切り傷。けれど、確かに生々しい血がにじんでいる。反射的に反対の手で押さえたと同時に、隣にいた安室さんの気配が一気に近づいた。視界の端が彼の色で満たされる。

「切りましたか?見せてください」

低く、落ち着いた声。それでも耳に届くその響きは、いつもよりわずかに硬い。
私は無言で手を差し出す。指先を包み込む安室さんの手は、温かく、そして妙に慎重だった。血の滲む部分を確認すると、すぐにキッチンの引き出しから救急箱を引き寄せる。

「……すぐ手当てしますね」

そう言って、キッチンの引き出しから救急箱を取り出し、テーブルの上に置く。消毒液とガーゼを手にし、再び私の前に立った。
大丈夫です、と軽く笑って言うつもりだった。だが、その言葉は喉でつかえて消える。
――顔色が、違う。安室さんの表情から血の気が引いていく。まるで刃物で削ぎ落とされたみたいに、一瞬で。唇は引き結ばれ、瞳孔がわずかに開いて、視線が血に吸い寄せられていた。そこにあるのは、驚きではない。焦燥、そして…恐怖。

「……安室さん?」

恐る恐る呼びかけても、すぐには返事がない。
ガーゼを当てようと伸びてきた手が、私の指先に触れる寸前でぴたりと止まる。その手が、微かに震えている気がする。

「……なぜ、血が……?」

まるで思考の奥から零れ落ちたみたいに、小さくぽつりと呟いた。その声は掠れていて、私に向けられたというより、自分自身に問いかけているようだった。

「なぜ、血が出るんですか?りかさんは、この世界では怪我はしないはずです」
「……え?」

言葉の意味を理解するまで、数秒かかった。
たしかに──前にこの世界で、安室さんに睡眠弾で撃たれたことがあった。でも、そのとき私は傷ひとつ負わなかった。感触さえも、すべて夢の中のようにぼんやりと曖昧で、まるで身体が存在していないかのように、銃弾が通り抜けた。何も痛くなかったし、何も起きなかった。それは、私がこの世界の人間ではないからだ。
なのに──今、指を少し切っただけで、確かに血が出ている。

「……確かに、どうして……」

私が戸惑いを滲ませると、安室さんは一度だけ傷から視線を外し、まっすぐに私を見た。
その瞳の奥にあったのは、恐怖に近いもの。

「……ということは今、あなたが銃で撃たれでもしたら──」

低く、押し殺すように呟かれた声は、普段の彼らしくないほど荒れていた。
けれど、言葉を最後まで聞く前に世界が傾く。
ぐらり、と揺れた視界。音が消え、色が薄れていく。柔らかな夕暮れのキッチンが、まるで夢のように滲み、薄れて、消えていく。

「りかさん──!」

安室さんの声が、必死に追いかけてきた。
視界の端で、彼の腕が伸びてくるのが見える。だけど、その手は私に届く前に、白く眩しい靄に呑まれていった。
夕暮れの匂いも、彼の温もりも、全部、遠ざかる。引力の向きが変わったみたいに、私の体は現実世界へと、強引に引き戻されていった――。





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