40


薄く閉じたまぶたの奥に、じんわりと滲むような明るさが差し込んでくる。どこか遠くから鳥のさえずりが聞こえ、カーテンの隙間から漏れた柔らかな朝日が、頬に触れるように静かに部屋を照らしていた。気づけば私は──現実世界に戻ってきていた。
呆然としたまま、そっと息を吐く。目の前にあるのは、安室さんを救おうと絵を描いていたモニターとペン。そのままの状態で置かれている。ついさっきまで安室さんと一緒にキッチンに立っていたはずなのに──現実の空気が、静かに私を包み込んだ。
時計に目をやると、朝の5時を少し過ぎたところだった。安室さんの予想通り、あちら世界で過ごした7日の出来事は、現実ではわずか2時間ほどにしかなっていなかった。けれど、その短い時間の中でも、確かに私は1週間もの月日を過ごしてきた。

ぎし、と床を踏みしめて立ち上がり、リビングへ向かう。そこにはソファに体を丸めるようにして眠る天沢くんの姿があった。スケッチブックを抱いたまま、穏やかな寝息を立てている。
……帰らずに、待っていてくれたんだ。胸の奥が、きゅっと温かくなる。そっと足音を立てないようにキッチンへ向かい、棚の中から救急箱を取り出す。テーブルにつき、人差し指をじっと見つめながら、消毒液と絆創膏を用意した。赤く小さな切り傷が、確かにそこにある。あの世界で受けた、現実的すぎる痛みと血。

「……なんで、怪我をしたんだろう」

ぼんやりと考える。以前は銃で撃たれても、銃弾は身体をすり抜けた。なのに今回は──ほんの刃の先が触れただけで、肌が裂け、血が滲んだ。どうして私は、あの世界で「血が出る」存在になったのだろう。
……もしかして、変わった?私の“立ち位置”が……?安室さんと結婚したことで、ただの異物だった私が、正式に物語の中に組み込まれてしまった?だから、あの世界のルールに支配されるようになり、傷もつくし、痛みも感じる──?そんな……まさか。だけど、そう考えるとすべての合点がいく気がした。
でも、それだけでは、安室さんがあんなにも動揺する理由にはならない。安室さんは何に、怯えていたのだろう。──そのとき、はっと思い出した。

「漫画を読めば……」

私が知らないうちに、安室さんに何が起きていたのか、彼が何を隠していたのか。漫画のページの中に、きっと何かが描かれているはず。
気づけば私は席を立ち、迷いなくパソコンの前へと歩いていた。電源を入れ、画面が暗がりの中でじわじわと光を帯び始める。
お願い、ちゃんと起動して……。マウスを握る手がほんの少し震えていた。その時だった。

プルルルルル……ッ
不意に鳴り響いた、古い家電の着信音。まるでガラスを引っかいたような鋭い音に、背筋が凍りついた。
電話?こんな時間に…?時間は、まだ夜が明けきらない早朝。表示は──非通知。お父さんじゃない……。父は今、飛行機の中にいるはずだ。
わざわざ家の固定電話に、誰だろうか。けれど、機械的なベル音は鳴り止まない。私はゆっくりと受話器を取り、恐る恐る耳にあてた。

「……もしもし」

── 不気味な、沈黙。それは、単なる通話の不具合ではなく、明らかに意図されたものだった。

「……あの、どなたですか?」

じり……じり……と耳に障る微かなノイズ音だけが響く。不気味な間に、思わず喉を鳴らした。

「……お名前を名乗っていただけませんか?」

そのときだった。

『……戻ってきたのか』

ゾクリと、血の気が引いた。機械をくぐもらせたような、濁った声。変声機──だ。瞬時にそう確信した。低く抑えられたその声は、どこか底冷えするような不気味さを含んでいて鳥肌がたつ。

『宮間ノリヤの……娘』

──父の名前。私の声だけを聞いて、どうしてそんなことが……?ぞくり、と寒気が背骨を駆け上がった。

『安室透の、妻』
「……っ!」

心臓が、ひときわ強く跳ねた。
誰──?なぜ、そんなことを?あの世界での出来事のはず。私と安室さんのことを、知っているはずがない。この現実でそれを知っているのは、私しかいないはずなのに、なぜ。

「……誰……ですか?」

震える声で、かろうじて問い返す。だが、返ってきたのはさらなる悪夢の一言だった。

『今から、お前のところに行く』

瞬間、全身が凍りついた。震える手が、ガシャンッと受話器を取り落とす。耳に触れたその言葉が、現実とは思えなかった。けれど、あまりにもはっきりとした意思と殺気が、声の奥から滲み出ていた。
頭が真っ白になったが、本能が警鐘を鳴らした。「危険だ」「逃げろ」と。

「──っ!」

反射的に振り返った。

「……天沢くん!!」

声が裏返るほどの勢いで叫ぶ。ソファに横たわっていた天沢くんが、ぱちっと目を開いた。

「起きて!早く!逃げるよ!……早く!!」

返事を待つ余裕なんてなかった。私は何もかもを置き去りにして、天沢くんの手を引くようにして走り出した。寝ぼけ眼の天沢くんはソファから半ば転げ落ちるように立ち上がり、ぐしゃぐしゃの髪を掻きながら目を瞬かせる。

「えっ……ちょ、な、なんなんですか朝っぱらから……!」
「車の鍵は!?どこ!?」
「車……?鍵……?」

天沢くんがまだ状況を把握できずに呆然としている中、私の視線が机の上の鍵に飛ぶ。

「──あった!」

私は駆け寄って鍵を取り、天沢くんの手に押し込む。

「行くよ、早く!」
「ちょっ、ちょっと待って……!」

彼の手をもう一度強く引きながら玄関を飛び出す。まだ薄暗さの残る朝の空気が肌を刺す。
ガチャッと勢いよく車のドアを開け、私は助手席に滑り込み、すぐさまシートベルトを締めた。

「車出して!早く!!」
「わ、わかりましたって……でも、エンジンかけないと──!」

焦る私の横で、天沢くんがようやく鍵を回す。エンジンが重たい音を響かせて始動する。けれど、彼の動きは相変わらずどこか呑気で、ブレーキを踏んだままのんびりとハンドルを握っている。

「落ち着いてくださいよ……もう……朝から何なんですか。こっちはまだ夢の中みたいなんですけど……」
「可能な限り家から離れて!住宅街を抜けて、とにかく遠くへ行って!」
「……わかりましたけど……まったく、今度は何ですか?懲り懲りなんですけど。正直ここまで来ると、もう何が起きても驚かないです」

半ば呆れ顔のまま天沢くんが車を発進させ、車は滑るように住宅街を走り出した。カーステレオの電源は切れていて、車内には妙な静けさだけが満ちている。

「天沢くん、変な番号から電話きても絶対出ないで」
「え……誰かから電話が?」
「変な声の人が……私を探してるの」
「変な声?何の話ですかそれ……」

天沢くんが眉をひそめる。その瞬間だった。
私の目線の先、前方の道。住宅街の狭い道のど真ん中に──黒い影が立っていた。真っ黒のコートに身を包み、フードを深く被ったその人物は、まるで道路の中央に立つ標識のように、静止していた。

「誰……?」

呟いた声が震えていた。視線を凝らす。
そして、見えた。その人物が、右手に構えていたものが。
──拳銃だ。

「天沢くん……バックして……」

私は前を見据えたまま、絞り出すように言った。

「……え?」
「見ないで。バックして」

天沢くんが隣で首を傾げる。まだ状況が飲み込めていない様子で、軽くブレーキを踏みかけたその瞬間──彼の視線が、私の見つめている先に向いた。

「……なんですか?あの人……」

言いかけて、天沢くんの声が途中で止まった。
一拍の間。そのあと、彼がはっきりと確認してしまったもの──それは、闇色のコートの奥から伸びた腕、そしてその先に握られた、黒く鈍く光る銃身だった。

「えっ……銃?銃ですけど……」

彼の声が震え始めた。

「りかさん、あれ……あれ銃です……!!!」

感情が一気に崩れたように、天沢くんが叫び声を上げる。ハンドルを握る手がぶるぶると震え、アクセルとブレーキのどちらを踏むかもわからなくなっている。

「落ち着いて!!バックして!!早く!!」

私は叫びながら、天沢くんの肩を揺さぶった。だけどその間にも、フードの人物は一歩──また一歩と、ゆっくりこちらへと近づいてきている。その動きは不自然にゆっくりで、けれど逆に、それが底知れぬ恐怖を煽った。
ガクン、と車が後退を始めた、その瞬間だった。

パンッ!!!

耳をつんざくような乾いた銃声が、朝の冷たい空気を真っ二つに裂いた。目を見開いたまま、私はすべての動きがスローモーションになるのを感じた。弾丸が空気を割きながら、まっすぐにこちらへと向かってくる。恐怖が身体を凍りつかせ、声も出ない。逃げられない──そう思った、そのとき。

視界の端が揺れ、景色が淡く滲んだ。空気がねじれ、光が引き寄せられ、音が遠のいていく。

「……っ」

思わず目を閉じた。世界が、変わる。自分の身体が現実から切り離されるのが分かる。
まるで水の中に引き込まれるような感覚に、次の瞬間には、私は、その場から消えていた──。



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