39
──その日、目が覚めたのは、たぶん夜明けの手前だった。
薄い眠りの膜の向こうに、微かな気配があって、私はまぶたの内側にだけ広がる明るさの変化をぼんやりと感じた。けれど、そこで目を開けるのが怖かった。
理由は単純で、そして致命的。うっすらと視界を持ち上げた、ほんの一瞬の“覗き見”で、私は見てしまったからだ。頬が触れそうな距離に、静かに、規則正しく呼吸する綺麗な寝顔を。
それを確認した瞬間、私は反射的に目を閉じ、息を止めた。心臓の音が、たちまち胸の奥で暴れはじめる。
──まって。状況、把握。慌てない。落ち着いて。
お互い、向き合うようにして眠っていた。私の腰のあたりに、軽く添えられた温かい重み。そう、安室さんの右腕だ。
ベッドシーツの皺の伸び方、かすかな柔軟剤の匂い──全部が、静かに「ここに彼がいる」と告げている。
寝る前にはいなかった。
ここ最近、安室さんは夜遅くまで何か作業をしていることが多い。昨夜もいつものように「先に休んでください」と微笑えまれたのを覚えている。だから私は、このベッドにひとりで潜り込み、布団の端を顎まで引き上げ、目を閉じた。
そのおかげもあってか、最近は、ここで眠ることに抵抗もなかった。彼の家に、彼のベッド。薄暗い天井、窓の向こうの街灯。どれもが私を安心させて、すとんと眠りに落ちたはずだった。
──なのに。今、安室さんが私の目の前で寝息をたてている。
これまでは、安室さんはいつも私より先に目を覚ましていた。髪はきちんと整えられて、リビングには湯気の立つ朝ごはんが用意されている──そんな完璧な朝。
だから私は、彼の寝顔を見たことなんて一度もない。目を開けたらすでに背中越しの「おはようございます」が待っている、そんな関係だったのに。
今日は違う。きれいな寝顔が、こんな近くで、私だけのために置かれているみたいに。それがどうしようもなく嬉しくて、同時に、どうしていいかわからないほど心臓が忙しくなる。
今、目を開けたらきっと、また心臓が変な跳ね方をして、変な声が漏れるに違いない。
耳を澄ますと、安室さんの寝息が、布団の中で小さな波のように往復している。とても落ち着いた呼吸だった。すこし冷たい朝の空気の中で、彼の体温だけが確かな重みを持って私を包んでいる。腰に置かれた腕は、重すぎず、でも逃げ出そうとすればすぐに逃げられるほど。
もう一度だけ、ほんの少しだけ、まぶたを持ち上げる。薄金色のまつ毛の影が頬に落ちていて、鼻筋がきれいに光を拾っている。整った唇はかすかに開いて、吐息があたたかく私の額の上を撫でていった。髪は寝癖もなく、整えられた前髪が柔らかく額にかかっている。喉仏のあたりが呼吸に合わせてごく僅かに上下して、それを見るだけで胸が痛いほどくすぐったくなる。
近い。近すぎる。
顔を戻すように、まぶたをぎゅっと閉じた。体の奥で火がつくみたいに熱が広がって、枕に半分だけ埋めた口元から、どうしようもない笑いがこぼれそうになる。
……落ち着け、私。これは朝。健全な朝。理性を持って、常識を携えて、清く正しく「おはようございます」って言うだけの、ただの朝。
ところが——。その「ただの朝」が、ほんの少しだけ足元を滑らせる。腰に添えられていたはずの腕が、わずかに力を増し、私の身体をそっと引き寄せた。胴と胴が触れ合い、毛布の内側で互いの体温が混ざる。
「……っ」
途端に、胸の奥で心臓が跳ねた。
音が外に漏れてしまいそうなほど、鼓動がせわしなく早まっていく。布団の中に閉じ込められた熱が、さらに一段階上がった気がして、喉の奥がうまく動かない。
呼吸を止めたまま、私はまぶたの上で世界を凝視した。やがて、頬のすぐそばで、小さく空気が裂ける。
「……ふ」
一欠片だけ、音になり損ねた笑い。
…いけない。この人、起きてる。
どうしよう。どうする。どうしたらいい。目を開ける?いや、開けたら、絶対まともな顔ができない。
閉じ続ける?いや、この状態で閉じ続けるのにも限界がある。
「…………」
沈黙がふくらんで、私の顔色に連動するみたいに布団の内側の温度が上がる。
そのとき、耐えかねたのか、頬のすぐそばで息が震えた。
「…ふ、ふふっ」
我慢に我慢を重ねたけど、もう無理でした、みたいな誠実さで、安室さんは笑った。私のまぶたの上でも分かるくらい、肩が小さく震えている。
「……起きてますよね?」
耳元で、低く、やわらかな声。
私は、反射で布団を鼻先まで引き上げた。
鼓動はひときわ強く跳ね、低いのに甘く、まるでゆっくりと回し入れられる毒のように、全身の感覚を支配していく。
「……っ、起きてません」
「起きてますよね」
「起きてません……!」
「じゃあ、りかさんは寝ながらでも話せるんですね。知らなかったな」
やめて。そんなレポートみたいに正確に言わないで。
布団越しに小さく呻くと、安室さんは堪えきれずにまた笑った。笑いながらも、腰に添えた手の力はわずかに弱めてくれる。逃げ道は、ちゃんと開けてくれる。
「いつから……」
半分だけ布団を下ろし、目尻だけを覗かせて問う。
「いつから起きてたんですか……」
安室さんは枕に頬を乗せ、目を細めて私を見る。朝の光をまだ吸い込んだままの灰青色が、くつろいだ猫の目みたいにゆるい。
「さっきから」
「さっきって、いつからですか……」
「“さっき”の定義の議論は、朝には向かないと思います」
「は、はぐらかさないでください…!」
「では、正直に言うと——あなたが起きる前からです」
「っ……!!」
うわあ……。
顔から火が出そうだ。掛け布団を戻したいのに、戻したら戻したで「やっぱり」と笑われる未来が見えるから、戻せない。どうしたらいいの、この羞恥。どうしたらいいの、この朝。
安室さんが喉の奥で柔らかく笑って、私の額から頬へ、散らばった髪を指先でそっと払う。指が触れるたび、呼吸が詰まる。
「ず、ずっと見てたんですか……!」
やっと出せた声は、自分でも驚くほど動揺していた。
安室さんは、ほんの少しだけ眉尻を下げて、いたずらを成功させた子どもみたいに微笑む。
「ん?別に?」
「べ、別にって……!」
「自分の妻を眺めていただけですが?」
……。
…………。
心臓が、素直に危険。
言葉としては特に新しくもないのに、朝の寝起きの低い声で、枕の近さで、至近距離の目線で言われると、破壊力が違う。
たしかに、そういう約束を交わした。指輪をもらって、つけて、ここにいる。
でも、何度聞いても慣れない。「妻」という語の重みが、身体のどこか柔らかいところに、毎回新しい形で沈んでいく。
「……そういうの、ずるいです」
「ずるい?」
「朝から反則です」
「では、夜に回しましょうか」
「夜は夜で、もっとだめです」
「困りましたね」
「困ってるのは私です!」
息巻いたつもりが、声が笑い半分に崩れる。安室さんもつられて息を弾ませ、目尻に小さな皺が寄った。
その笑い方が、ずるい。ずるいけれど、好きだ。どうしようもなく好きだ。
「重くないですか?」
腰に添えた腕のことを、安室さんがやっと言葉にする。私は小さく首を振った。
「……重く、ないです」
「ほんとうに?…では、もう少しだけ」
「もう少し」って、どれくらい。
訊ねる前に、安室さんの腕がほんのわずか、私を自分の胸の方へ寄せた。身体と身体の隙間が、指一本ぶん、消える。布団の中の空気が混ざって、心拍が混ざって、言葉が邪魔になる。朝の匂いと肌の温度が、簡単に理性を越えていく。
「おはようは、言ってくれないんですか?」
安室さんの声が、耳たぶのすぐ後ろの、いちばん弱いところを撫でた。
「……っ」
「りかさんが起きる前から、聞くのを楽しみに待っていたんですが」
ほんとうにこの人は。
胸の奥に居座っている照れをなだめるように、ゆっくり息を吸って、吐く。まぶたをひらく。正面から彼を見る。
寝ていたときの静けさが、今はやわらかな冗談にほぐれて、けれど目の奥の優しさはそのままだ。ああ、負けた。もう降参、という気持ちで、唇を動かす。
「……おはようございます、安室さん」
「はい。おはようございます」
短い挨拶なのに、胸の奥にあたたかな水がそっと注がれるみたいに、静かに、けれど確実に満ちていく。どうしてこんなに世界の輪郭がやわらかくなるんだろう。
安室さんが、ほんの一瞬だけ表情を引き締める。けれど、耐えられなくなったみたいに鼻先で笑い、そして私の額に唇を落とした。
「……わ、あ……!」
声が裏返りそうになるのを、慌てて胸の奥に押し戻した。額に残る温もりとかすかな吐息の感触が、心臓の鼓動を一気に早める。このままでは息が詰まりそうで、私は慌てて大きく息を吸い込んだ。
そのとき、毛布の山がふわりと崩れ、安室さんがゆっくりと体を起こす。朝の光を背に受けながら、こちらに手を差し伸べてきた。
「……起きましょうか」
差し出された大きな手に自分の指先をそっと重ねると、軽く引き上げられて、視界が同じ高さまで引き寄せられた。その近さに思わず目を逸らし、軽く息を吐く。
「……いつから、隣に?」
「あなたが眠ってから、しばらくして」
「いや、それはそう、ですよね……」
いや、ここは安室さんのベッドなんだから、彼がここで寝るのは当たり前だ。当たり前──なんだけど、そういうことじゃない。わかってほしい。
ゆっくり視線を上げると、安室さんは想像通りの顔をしていた。目尻がやわらかく下がって、口元に小さな笑み。
「あ、安室さん…今日のご予定は?」
「夕方までポアロのシフトが入っています」
それを聞いた途端、胸の奥に小さな寂しさが生まれる。それでも、顔には出さないようにした。
けれど、察したのか彼は苦笑する。
「……本当は、一日中ここにいたいんですけどね」
「それは……、反則重ねです」
「減点方式なんですね」
「……いえ、加点方式です」
「それは助かる」
言い合いながら、安室さんの親指が私の頬骨をやわらかく撫でる。
近い。何度近づいても、慣れない。でも、慣れたくない、という気持ちもある。慣れてしまったら、今日のこの朝を、今日の朝として愛おしむ理由が薄れてしまいそうだから。
安室さんはベッドから降り、カーテンをふわりと引く。淡い光が広がって、部屋の輪郭がひとつずつ目覚める。その背中を見ていると、どうしようもなく、幸せが胸の底から湧いてくる。
私もベッドの端に足を降ろす。足裏に触れた畳の感触が、ふわりと現実を教えてくれる。それでも私は振り向いて、まだ温度を残す枕を見た。そこで眠っていた彼の顔を、さっきの距離で思い出し、頬がまた熱くなる。
安室さんはすでに部屋着の裾を整えながら、ダイニングの方へと歩きかけて——ふっと、振り返った。
「朝は…ふわふわのオムレツなんてどうでしょう」
「オムレツ?」
「はい。紅茶も用意して……」
ふと、安室さんが少し笑って付け足す。
「この前の残りのスコーンも、温めて一緒に出しましょうか」
「は、はい…!食べたいです」
「わかりました。では、ゆっくり朝ごはんにしましょう。りかさんも準備してくださいね」
頭の中に、バターが溶け込んだやわらかな生地の香りと、ふわふわの卵がじゅわっと広がるオムレツの匂いが一度に広がる。鼻先をくすぐる想像の香りに、気づけば口元が緩んでいた。
安室さんはそんな私の反応を見たわけでもないのに、なぜか満足そうに背中を向け、キッチンへと歩いていく。
私はベッドから離れながら、振り返ってもう一度だけ、朝の寝顔の残像に目をやる。目の奥がじんわり温かくなって、ゆっくりと、深く、息をついた。
朝ははじまったばかりだ。この穏やかさが、今日という日の基準になりますように。そう願いながら、指輪の位置を確かめるみたいに左手を胸元に添え、光の方へと足を進めた。
*
安室さんは玄関で靴を履き、片手で軽くワイシャツの裾を払った。ドアノブに手をかけたまま、ふと振り返る。
「夕方には戻ります。…では、いってきます」
「はい。い、いってらっしゃい」
一瞬、外のなまぬるい空気が室内に入り込み、足元をかすめる。ドアが閉まると同時に、その暑さも切り取られ、部屋はまた静けさを取り戻した。
靴音の余韻が遠ざかるのを耳で追いながら、私は玄関の方に小さく手を振り、しばらくそのまま立ち尽くす。
その一瞬の静けさが、胸の奥をむずむずとかき立てた。なんだろう。別れ際のやり取りが妙にこそばゆくて、口元に笑いが勝手に滲んでしまう。
こうやって送り出すのも、いってきますを言われるのも、まだ慣れない。口の中に甘さが残るみたいに、その空気からしばらく離れられなかった。
「……さて」
小さく息をつく。
今日は特に「外に出るな」と言われたわけじゃない。数日前の言葉がまだ頭の隅に残っているけれど、黙っておけばきっと平気だ。それに、ずっと家に篭りっぱなしなのも、そろそろ飽きてきたのだ。
安室さんに「邪魔はしません」と息巻いたのは私だけど、せっかくの晴れた朝。少しだけでも外の空気を吸いたい。15分で帰ってくる。そう決めて、私は実行に移した。
クローゼットを開け、淡い水色のワンピースを手に取る。髪を手ぐしでまとめ、日差し避けに薄手のカーディガンを腕に掛ける。あとはポケットに安室さんから借りているスマホを入れた。
最後に鍵……と手を伸ばして——ふと頭を傾げる。
鍵が、ない。
昨日の夜は、確かに玄関脇の小さな棚に置かれていたはずだ。そこを何度見返しても、薄い木目の上には何もない。ダイニングのあたりも探してみるが、当然あるはずもない。
——そうだった。この家の鍵はひとつだけで、合鍵もない。それがなければ玄関を閉められないし、閉められない戸を背に外へ出るわけにはいかない。
私はその場で固まった。完全に見落としていた。鍵がないんじゃ、外に出られるわけないのに。
私が家にいるんだから、安室さんがわざわざ鍵を持って行く必要はなかったはずだ。帰宅時のためだけなら、置いていけばいい。それなのに、思い返せば今朝、安室さんはしっかりとそれを手に取って、出て行ってしまった。
…もしかして、私が外に出るなんて思ってもいなかったから、そのまま持って行ったのかな。うっかりなんて、ほとんどしない人だし。
以前、「家の中で過ごしませんか」と言われた言葉が、また胸の奥で響く。今日は何も言われなかったけれど、その響きは消えていなかったらしい。
やっぱり、出ないほうがいいのかもしれない…。そう思い、カーディガンを腕から外して、ゆっくり玄関から離れた。
外の青い世界は、窓越しに見るだけで十分だ。今日は、この部屋で——安室さんの帰りを待とう。そう決めた途端、不思議なことに胸の奥が少し軽くなった。
まるで「その方がいい」と、誰かに背中を押されたみたいに。
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