12


ふいに、目が覚めた。
意識だけが、ひとりでに浮上するように冴え、まぶたを閉じたまま、ゆっくりと顔を横に向ける。差し込む朝日の光がまぶしくて、自然と目を細めた。

「……どこ……?」

掠れた声がふっと漏れる。
ゆっくり目を開くと、見覚えのない部屋が目の前に広がっていた。
必死に記憶を辿ろうとするが、虫食いみたいにところどころ抜け落ちていて、どうしても繋がらない。
最後に覚えているのは、バス停のベンチに座っていたこと。でも、そのあとの記憶がまるでない。なにか変な夢を見た気がする。でも、具体的な内容も思い出せない。
とりあえず起き上がろうと、ゆっくりと上半身を起こした、そのときだった。

「目が覚めましたか?」

突然側から落ちた声に、肩がびくりと震えた。
恐る恐る、声のする方へと振り返る――

「もう、起きても大丈夫そうですか?」

途端、ぴしゃりと固まってしまった。
そこには、腕を組み、扉にもたれかかるようにして立つ男の姿。驚きのあまり、まるで水面にあがってきた魚のように、口をぱくぱくさせ、言葉を失う。
――嘘、でしょう?私、現実に戻ったんじゃなかったの?けれど、目の前に立つのは、紛れもなく彼。夢でも幻でもない、安室透がそこに確かにいた。

「あなた、試着室で倒れていたんですよ。僕が見つけて――それで、ここへ運びました」

混乱した私の様子に気づいたのか、安室さんは静かに説明を始めた。穏やかで、けれどどこか困ったような微笑みを浮かべながら。
私はぐるりと視線を巡らせる。見慣れない室内。だけど、どこかで読んだことがあるような家具と配置。胸の奥で、ゆっくりと確信が生まれていった。
――また来てしまっているではないか。コナンの世界に。思わず、シーツをぎゅっと握りしめる。
あのとき、バス停で急に睡魔に襲われて……そのときに引きずり込まれたのかもしれない。天沢くんが「対策を考えないと」と言ってくれていたのに。もっと真剣に、警告を聞いておくべきだったと後悔する。

「丸2日も、眠っていましたよ。目が覚めないんじゃないかと心配しました」

安室さんが、側に腰を下ろしながら言った。穏やかな声だったけれど、どこか心配そうでもある。

「医者によると過労だそうですが、最近きちんと眠れていましたか?」
「えっ……?は、はい、人並には……」

過労…?情けない声になってしまった。
確かに、研修医としての生活は忙しいし、最近考え事も多くて睡眠時間は短くなっていたけれど、倒れてしまうほどではない。

「そうですか。でも、ご自身が思っている以上に、身体には負担がかかっていたのかもしれませんね」

優しく諭すように言われ、胸がちくりと痛んだ。確かに、規則正しい生活を送れているか、と言われたらそれは否定ができない。

「そう言えば、宮間さんも医者でしたね」
「は、はい……一応」
「仕事を詰めすぎていたなど、思い当たる節は?」
「それも……特には……。あ、」

言いながら、ふと記憶がよみがえった。
――いや、ある。たったひとつの心当たりが。
前にこの世界へ来たときのこと。私は、ほんの一瞬で二ヶ月もの時間を過ごす体験をした。もしかすると、肉体はその間、一睡もしていなかったことになるのでは?
…なんてことだ。それだと、過労なんて、生易しい言葉じゃ足りない。世界を超えるのに、副作用があまりに大きすぎる。

「たしかに、少し無理をしすぎたのかもしれません……。ん?ちょっと待ってください」

頷きながらも、また心は別のことでざわつき始めた。

「安室さんが、私を医者に診せて下さったってさっき……」
「ああ、ええ。僕が」
「……ど、どうやって?」

尋ねると、安室さんはにこりと笑った。そのあまりの破壊力に、私は咄嗟に両手で顔を覆う。
言われなくても分かる。――私を抱きかかえて、運んでくれたんだ。自分の顔がみるみる熱くなっていくのが分かる。
意識を失っていたとはいえ、安室さんに抱きかかえられて……あり得ない。顔を真っ赤にしたまま固まっていると、小さく、くすっと笑う声が聞こえた。

「とりあえず、シャワーを浴びたらどうですか?」
「……え?」

その声に、はっと顔を上げる。
安室さんは、何事もないように言った。

「無理にとは言いませんが、二日もお風呂に入れてないと気持ち悪いでしょう。知り合いにあなたの着替えを用意してもらいましたし、気にせず使ってください」

言われた途端、二日分の身体の不快感を急に意識した。たしかに、そんな状態の自分を目の前の彼に晒しているなんて恥ずかしすぎる。

「……あ、ありがとうございます。お言葉に甘えます」

逃げるようにしてベッドを出るしかなかった。
浴室へと案内してくれた安室さんにお礼を言い、ひとりになった脱衣所で大きく息を吐き出した。








 


なんだこれは――。
お風呂から上がった私は、タオルを体に巻きつけたまま、脱衣所の隅で固まっていた。蒸気に揺れる光の中、両手の指先でそっと摘んだそれを、目の高さまで持ち上げる。
シャワーだけのつもりだったのに、湯船まで用意されていた。おかげで、肩までゆっくりと浸かることもできた。安室さんの気配りの細やかさには、改めて脱帽するしかない。私が目を覚ますと見越していたのだろう。頭の回転の速さも、行き届いた心遣いも、やっぱり尋常じゃない。

――いや、違う。
そんな感心をしている場合じゃない。問題は、いま私の手の中にあるこれだ。柔らかく、けれどしっかりとした素材の、これ。知り合いに用意してもらったという着替えの中に入っていた“下着”。
……なぜ。なんで、サイズが、ぴったりなの。普段自分で選んでいるものと、まるで変わらない。デザインも、色合いも、微妙なカッティングのニュアンスまで、そっくり。ぞわっと、背筋に寒気が走った。
ま、まさか――まさかとは思うけど、安室さんが私の服を脱がして、サイズを?いや、それはない。それだけは、絶対にないと信じたい。
じゃあ、目視?目で見ただけで、サイズが分かったってこと?ぶるりと身震いした。

「……考えるのやめよう」

自分に言い聞かせ、下着を身につける。たまたま。偶然。奇跡的に合っていただけ。
そう納得しながら、用意されていた空色のシャツワンピースに袖を通す。肌触りは柔らかく、着心地は申し分なかった。
髪を乾かし、鏡の前で整える。ようやく心が少し落ち着いた、そのとき――

「…宮間さん。お風呂上がりましたか?」

扉の向こうから声がかかった。

「は、はいっ!」

咄嗟に返事をして、ドアを開ける。顔の熱が引かず、頬がまだ火照っている気がして、そわそわしてしまう。
近くに立っていた安室さんが、少し驚いたようにこちらを見て、ふと微笑んだ。

「……あ、あの、お風呂も着替えも何から何まで、ありがとうございます……」

小さく頭を下げると、彼は首を横に振った。
けれど、その目の奥はどこか冷え冷えとしていた。

「とんでもない。…ただ、また逃げ出される前に声をかけておこうと思いまして」
「え……?」

一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
けれど彼は、微笑みを保ったまま言葉を継ぐ。

「朝食の支度はできています。食べ終わったら、お話をしましょう。……約束ですしね」

その声は穏やかだった。
けれど、その奥に沈んだ響きがある。怒っている――そう、彼は怒っている。その碧い目の奥は、少しも笑っていない。

「……はい。わかりました」

私は小さく答えた。悟ったのだ――もう、誤魔化せないと。
約束を破り、逃げ出したのは私。しかし、彼は試着室で倒れていたそんな私を、確かに抱えて運び、介抱し、着替えまで用意してくれていた。それも、ひとつの目的のために。

「座ってください。すぐに出せますから」

キッチンに立つ安室さんの背中は、変わらず無駄のない動きで、美しい。味噌汁の湯気が立ち上り、出汁の香りが鼻先をくすぐる。
……けれど、食欲よりも先に、胸の奥が締めつけられる。本当に、話せるのだろうか。
「ここは漫画の世界で、あなたはその登場人物」
――そんなことを、どう言葉にできる?信じてもらえるとは思えない。なにより、それを伝えることで彼を傷つけるのではないか、という恐怖があった。

だからこそ、私はまた、逃げようとしている。自分の卑怯さに気づきながらも、それでも、足が勝手に動いていた。
そっと立ち上がり、気づかれないよう寝室へ向かう。ドアを開けて、押し入れの前に立つ。彼が追いかけてこなければ、きっとまだ間に合う。
そう信じたかった。

私は震える指で、そっと押し入れの戸に手をかけた――。





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