15
しばらくして、ベッドから起き上がり、そろりと寝室の扉を押し開けた。
キッチンからは、湯気と共に漂うだしの香り。味噌のやわらかな匂いが鼻腔をくすぐるたび、胃の奥がきゅるりと音を立てそうになった。
そっと顔を出すと、背を向けた安室さんの姿があった。エプロンこそしていないが、袖を少し捲り、フライパンを煽る動きは迷いがない。
そのまましばし見ていると、不意に彼が口を開いた。
「……もう、顔を出しても大丈夫ですか?」
びくり、と肩が揺れる。
振り返りもせず、私が覗いてるってどうしてわかったのか。なぜか余計に恥ずかしくなり、私はぎゅっと扉の縁を握った。
でも、このまま隠れていても仕方ない。そろそろ覚悟を決めなければ。
息を整え、ゆっくりと足を踏み出した。それと同時に安室さんが振り向く。視線が合った瞬間、ほんのわずかに表情が緩んだ。
「顔、真っ赤ですよ」
「……うるさいです」
小さく反論すると、安室さんがくすくすと笑う。その笑みが、なぜだか胸の奥まで温めてしまう。
「ほら、まだ体調が万全じゃないんです。座っていてください」
優しい声色。でも、有無を言わせない響きも混じっていた。
しぶしぶ椅子に腰を下ろす。視線は自然とキッチンへ引き寄せられる。コトコトと鍋が小さく鳴る音。フライパンの上で油が弾く音。包丁がまな板を叩く軽やかなリズム。
何でもないその音が、妙に心地いい。――いや、心地いいってなんだ。私は今“拘束”されているはずなのに。
「……なんか、すごく慣れてますね」
思わず拗ねたように呟くと、安室さんはフライパンを煽りながら微笑んだ。
「一人暮らしが長いので。誰かのために作るのは、久しぶりですけどね」
その「久しぶり」という言葉が、胸に小さく引っかかる。彼の過去が、ふと頭をかすめたが、すぐに追い払った。
「……あの」
「はい?」
「その…。ありがとうございます」
言い終えた瞬間、目が合う。
ふっと柔らかな光が、安室さんの瞳に宿った。
「どういたしまして。食べられそうですか?」
「……はい」
短く頷くと、安室さんは微笑みを深め、フライパンをコンロに戻した。
その何気ないやり取りが、少しだけ距離を縮めた気がして、胸がほんのりと温まる。その横顔をなんとなく眺めてしまった。
「……やっぱり、何か手伝います」
はっとして思わず口にすると、安室さんは視線をこちらに寄越し、ゆるく首を振る。
「大丈夫です。座っていてください」
そう言われても、ただ見ているだけというのも落ち着かない。
それに、このまま椅子に座っていると、自分だけ迷惑をかけているようで。銃を向けてしまった罪滅ぼしの気持ちで、私は立ち上がった。
「あの、じゃあ……コップくらい出します。それならいいですよね?」
「……わかりました」
安室さんはあまり納得してないみたいだけど、そう言ってキッチン脇の棚に近づく。
以前ちらりと漫画で読んだ位置を思い出しながら、上段の扉を開くと――やっぱりそこに、透明なガラスのコップが並んでいた。
けれど、思っていたよりも高い位置にあって、手を伸ばしても指先がかすかに触れるだけ。
「…んー…あれ…」
背伸びをしてみても、あと少し届かない。
棚の奥に光を反射させるコップの縁が見えているのに、掴めないもどかしさがじわじわと募る。
そんなとき、不意に背後から伸びてきた腕が、私の視界を横切った――
「そんなに背伸びしなくても」
低く落ち着いた声が、すぐ後ろから降ってきた。
次の瞬間、背後から伸びてきた腕が私の視界を横切り、コップの縁をためらいなく掴む。
わずかに乱れた空気が頬をかすめ、その直後――頭上をふわりと香りがかすめた。
石鹸とコーヒーの香りが混ざった、彼特有の匂い。近い。近すぎる。胸の奥で、きゅっと心臓が縮む。
コップを取り出した安室さんは、何事もなかったかのように差し出してくる。
「はい。あなたにできることはありませんよ。わかったのなら座っていてください」
「……は、はい」
なんとか声を絞り出し、受け取ったコップをテーブルに置いたとき――
「…ところで、宮間さん」
「はい?」
「このコップの場所、どうして知っていたんですか?」
……え。思わず瞬きを繰り返す。
いや、どうしてって、漫画で読んで知ってるからで…ってやばい。私、この家に来てからコップの場所なんて聞いたことなかったのに。
「……あ、えっと……」
情けない声が漏れ、言葉が途切れた。
目線が泳ぐのを、安室さんはゆっくりと追いかけ、口元だけで小さく笑う。
「まあいいですよ。僕のことなら何でも知っている、でしたよね?」
からかいと試す視線、そのどちらとも取れるまなざしに、私は結局何も返せず、コップの縁を指先でいじることしかできなかった。
だめだ、何かをする度にボロが出ている気がする。言われた通り大人しく座ってるのがいちばんだと、再び椅子に腰掛けた。
視線を安室さんから部屋の中へと移す。さっきまではゆっくり見れなかったけど、"安室透"のお部屋って実際にみるとこんな感じなんだな。漫画で見るよりは、広い気がする。
そういえば、向こうの世界は何分くらい経ったのだろう。5分?10分?
……ああ、どうしよう。私ったら、ここにいることに慣れてきてる。どうせまた、ここでどんなに時間を過ごしても、現実世界には殆ど影響がないのだろう。
こんなことをしていて大丈夫なのかと思うが、時間の流れが違うのが何よりの救いだった。
*
そっと湯気の立つお味噌汁をひと口すすると、だしの優しい香りが口いっぱいに広がった。
具材は大根と豆腐とわかめ、どれもほろりと柔らかく煮えていて、噛むたびに甘みが滲み出る。隣の皿の焼き魚も、皮は香ばしく、身はしっとりしていて箸が止まらない。
「お、美味しいです…!」
「それは良かった」
――すごい、安室さんの作るご飯って美味しい。毎日でも食べたいと、思わず自分が拘束されてるのを忘れそうになる程。
けれど、その一方で胸の奥がざわつく。私は指名手配されている身なのに、こうして彼の庇護下で暮らしていて本当に大丈夫なのだろうか。
もし他の警察にこの事実が知られたら……彼が私を匿っていたことまで明るみに出てしまう。いくら安室さんが公安警察だとはいえ、そうなれば、彼自身の立場や信用さえ失われるはずだ。
背筋が冷える。どうして、そんな危険を冒してまで――。
「……あの、安室さん」
「はい?」
「私がここに住むこと、他の人にはなんて説明をしたんですか?」
「…他の人とは?」
「え?えーと、お知り合いとか…この前お会いした警察官の風見さん、とか…」
何気ないふうを装って聞くと、安室さんはほんの一瞬だけ箸を止め、それからあっさりと答えた。
「恋人だと言いました」
「……ゴフッ!」
思わず味噌汁を吹き出しそうになり、慌てて口を押さえる。
「こ、恋人ですか!?そんな大嘘…!」
「では、監禁だと言った方が良かったですか?」
「それは…っ…」
「ふふ」
「人を監禁しておいて笑わないでください」
「帰りたければ、いつでも質問に答えればいいだけですよ」
「う……はい……」
落ち着いた顔で平然と返され、余計に言葉が詰まる。安室さんは肩をすくめ、何事もなかったようにまた箸を動かした。
こちらがどれだけ動揺しても、その穏やかな表情は崩れない。余裕、というよりは完全に私を手のひらの上で転がしているような態度だ。
味噌汁をもう一口含み、熱を落ち着けようとする。でも舌に広がる美味しさと一緒に、さっきの「恋人」という言葉まで一緒に蘇ってきて、落ち着くどころか余計に胸がざわついてしまう。
少し間を置いて、私は眉をひそめた。いや、風見さんが事情を知らないなんてことあり得ない。
「…安室さん。もしかして、恋人って言ったの嘘ですか?」
「…バレましたか?」
あっさりとした返事に、頭の血が一気に上る。
「か、からかいましたね…!?」
思わず声が大きくなり、手の中の箸がカタリと小さく音を立てた。安室さんはそんな私を見て、口元だけで小さく笑う。
「宮間さんこそ、ご家族が帰りを待っているのでは?」
「……え?」
突然話題を変えられ、頭を傾げる。
「…あ、い、いえ。それなら気にしなくて大丈夫です」
「2日も連絡がないと心配しませんか?」
「へ…?あ、ああ…今は一人暮らしですし、頻繁に連絡もしないので…」
思わずヒヤリとした。
そうだった。現実では、ここで過ごした時間の影響はほとんどないと言っても、この世界ではそれは通用しない。
少しくらいは帰りを急ぐ理由を持っているふりをした方がいいのかもしれない。もしも本当に帰してもらえそうになかったら、「家族が心配している」という理由を切り札にするのも手だ。
それにしても…油断も隙もない。
揶揄われたかと思えば、しれっと探りを入れてくるし、結局はずっと彼の手のひらで転がされている気がする。
その余裕ぶりが、どうにも落ち着かない――なのに、視線がつい追ってしまう自分がいて、ますますややこしい気分になるのだった。
夕食を食べ終え、私は安室さんが洗った食器を拭いて重ねていた。本当なら、せめて後片付けくらいはすべてしたかったのに、「病人にそんなことはさせません」と安室さんにあっさり断られてしまったのだ。
そんな中、机の上に置かれていたスマホが震えた。安室さんのスマホだった。食器をすすいでいた彼は、一度水を止め、手早くタオルで手を拭くとスマホを手に取り、短く着信を確認してから寝室へと向かっていった。
私はぽつんと取り残された気分で、ひたすらふきんを動かす。お仕事の電話かな――そんな取り留めのないことをぼんやり考えていた。
やがて、寝室から戻ってきた安室さんは、キッチンの入り口で立ち止まり、私に向かって静かに言った。
「…宮間さん。すみません、急用が入りました」
「急用……?」
思わず首を傾げる。
安室さんは、頷きながら冷静に告げた。
「はい。すぐに空港へ向かわなければなりません」
空港――。その単語に、胸がざわついた。こんな時間になんの呼び出しだろう。
安室さんは寝室に入って行ったと思えば、素早い速さで着替えて出てくる。そしてネクタイを締めながら、洗面所へと向かった。
……真っ黒な服装だった。黒いシャツに、黒いスラックス。まるで烏みたいな。
「3日ほど戻れないかもしれません。食材は自由に使ってください。足りないものがあれば、これを」
キッチンに戻ってくるならそう言って、メモ用紙にさらさらと風見さんの番号を書き、私に差し出してきた。
受け取ったメモを見つめる私に、安室さんは一瞬だけ手を止め、穏やかな声で続ける。
「…急に一人にしてしまって、本当にすみません。こんなつもりじゃなかっんですが、家のことは気にせず、なるべくゆっくり過ごしてください。もし不安になったら、夜でもすぐに連絡を」
その口調は淡々としているのに、言葉の奥に温かさが滲んでいて、胸の奥がふっと熱くなる。
「ただし――」
安室さんは私をまっすぐ見つめ、声を低くした。
「外には出ないでください。宮間さんは指名手配中です。捕まれば、事態がさらに面倒になります」
「……はい」
「戸締りもしっかりしてくださいね」
「……はい」
渋々頷いたけれど、心の中では、“そんな状況を作ったのは警察のあなたたちじゃないですか”と呟く。
それよりも気になるのは、安室さんが向かう場所だった。真っ黒な服に着替えた彼を見て、嫌な想像が浮かんでしまう。
この時間に空港へ。黒一色の装い。もしかして、あの組織に関わる任務なのでは――。公安のお仕事なら、きっとスーツだ。
「すみません、もう行きますね」
安室さんが玄関で靴を履きながら、軽く振り返った。それを咄嗟に追いかける。
「あの……!」
「…ああ、それと。逃げ出そうとも考えないでくださいね」
「……え?」
足を止めて思わず聞き返すと、安室さんは静かに微笑んだ。
「ここから貴女がいなくなれば、すぐにわかる手筈になっています。まあ、試すつもりがないのなら、関係のない話ですけど。家に帰りたくなれば、それでいつでも連絡してください」
安室さんが、机の上に置かれた私のスマホを指さしながら言った。
帰りたくなれば、真実を話す連絡をしろということか。たしかに抜かりないけど、私が言いたかったのはそんなことじゃない。
「あの…そうじゃなくて。私、あなたに気を付けて下さい、って言いたくて…」
思わず吐き出した言葉に、安室さんは驚いたように目を細めた。一瞬考える素振りを見せ、それからまっすぐ私を見据える。
「……まさか僕、また殺されるんですか?次は、交通事故?爆弾テロ?…銃殺ですか?」
「それは……私にも分かりません」
「今度は貴方にも分からないんですね」
くすくすと小さく笑う安室さんに、私はぎゅっと拳を握りしめた。
「ここにいたら分からないです。だから、助けることができません」
「貴方の世界ならできて?」
「……はい」
しばらく沈黙が落ちる。安室さんは静かに腕を組み、やがて興味深そうに唇を綻ばせた。
「…ますます知りたくなりますね。僕の質問には答えたくないのに、僕の安否を気にする理由を」
「わたしは…安室さんのパッピーエンドを願っているんです」
その言葉に、安室さんの目が一瞬だけ柔らかくなった。けれどすぐ、いつもの涼しい笑みへと戻ってしまう。
「それって、僕が答えを知ると不幸になるってことですか?」
「……恐らく、はい」
小さく告げると、安室さんはふっと目を細めた。私のことを疑うだとか、そんな感情は感じられない。ただ、興味深そうな笑み。
「それに…安室さんは、私にとって初めての患者なんです」
「それは光栄ですね」
「2人目でもあります。だから、どうか、いつも気をつけて欲しいんです」
どんな言葉よりも真剣に、私はそう願った。
父がまた、何かを描いてしまうかもしれない。こうしてる間にも、危険が迫っているかもしれない。
そしてそれを、安室さんもちゃんと受け止めてくれた気がした。
「……分かりました。では、この質問には答えられますか?」
「え?」
「宮間さん、今おいくつですか?」
唐突な質問に戸惑いながらも、素直に答えた。
「……○歳です」
「ご結婚は?」
「……いいえ?」
「そうですか。それは、良かった」
さらりと、そしてどこか意味深に微笑んで、安室さんはドアに手をかけた。
「じゃあ、行ってきます」
バタン、と軽い音を立てて扉が閉まる。しばらく呆然とドアを見つめたまま、私はぽつんと立ち尽くした。
……今、からかわれた?その事実がじわじわと胸に広がり、頬がかぁっと熱くなる。膝から力が抜け、へたり込んだ床に両手をついた。
なに、この展開…。コナンは推理漫画だったはずなのに、これじゃあまるで恋愛ドラマだ。
もし結婚していたら、一体どうするつもりだったのか。胸の奥で暴れるようなどきどきを、私はぎゅっと両腕で抱きしめた。
……勝てない。安室さんを動揺させて現実へ帰るはずが――私が動揺してどうする。
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