16


暇だ。暇すぎる。
ベッドの側にだらんと座ったまま、スマホの時計を見る。たった数分しか経っていないのに、まるで時間が止まってしまったみたいだ。
やることがない。足を組み替え、まくらを撫で、意味もなく伸びをしてみたり。けれど、どれもほんの数秒間の気休めにしかならない。
安室さんが出掛けてから、もう丸一日が経とうとしていた。音沙汰は、ない。あれだけ簡単に「3日戻らないかもしれない」と言い残して行ったのだから、連絡がないのは当然なのかもしれないけれど。

……寂しい。このこじんまりとしたアパートに、私一人。テレビもない静寂の中、時間だけが恐ろしいほどゆっくりと流れていく。スマホはある。けれど、安室さんから「貸してもらっている」もので、なんとなく気軽にいじる気になれない。
食材は使っていい、遠慮はいらないと言われた。でも、冷蔵庫の中の整然と並ぶペットボトルや食材を目の前にすると、どうしても手を伸ばす勇気が出なかった。
――私、今、すごく他人なんだな。
そんな妙な距離感に打ちのめされながら、時間だけが過ぎていった。

寝床に至っては、さらに困った。見渡す限り、ベッドは一つだけ。どう考えても、私が使っていいものではない気がした。悩んだ末に、結局ベッドの横で小さく丸まって寝た。今朝、バキバキに凝った首と背中を抱えて目覚めたとき、心底思った。
――意地張らず、素直に寝ればよかった。“遠慮”と”図々しさ”の狭間で揺れ動く自分が、どうしようもなく情けない。
そしてさらに、私はある行動に出た。一か八か、動揺させてやろうと、貸してもらったスマホから安室さん宛にショートメッセージを送ったのだ。

『愛してます』

送信ボタンを押した後、胸がバクバクと跳ねた。緊張と後悔で、胃がきゅっと痛む。
「好きです」では無理だったけど、きっとこれなら少しは彼も驚くだろう。そう思ったのに――返ってきたメッセージは、たった一行だった。

『三食しっかり食べてくださいね』

……うそでしょう?
思わずスマホをぎゅっと握りしめた。これ以上ないくらいあっさり、かわされた。それも、まるで先生が生徒に言うような、優しい注意喚起。動揺どころか、完全に受け流されている。
ぐったりと畳に倒れ込んだ。これが、降谷零という男の本領なのだと、改めて思い知らされる。

そんなことがあり、さて、何か食べようと冷蔵庫の扉を開けてみたものの、やはり手が出しづらい。扉を開けたまま、また無駄に立ち尽くしていると――
ピンポーン、と家のチャイムが鳴った。

「……っ」

肩を跳ね上げ、思わず冷蔵庫の扉をパタンと閉じた。胸がどくどくと高鳴る。
――誰?こんな時間に。こんな静まり返った夜に。誰か来るなんて、聞いてない。
まさか、安室さんが帰ってきた?でも、そんなはずない。まだ丸一日しか経っていない。宅配?それとも、もっと別の、知らない誰か……?

頭の中で最悪の想像がぐるぐる回る。迷っている間にも、またチャイムが鳴った。二度目だ。玄関をじっと見つめたまま、冷たい汗が背中をつたう。
どうする?このまま無視する?でも、もしこれが安室さんからの指示で動いてる誰かだったら?
ごくりと唾を飲み込む。恐る恐る、玄関へと向かった。







 



車を降りた瞬間、目の前にそびえ立つ建物に思わず息を呑んだ。高層ビルの上層部に煌めくライト、そして威圧感すら覚える重厚な外観。
ここが――米花プラザホテル。

一歩足を踏み入れると、そこは別世界だった。煌びやかなシャンデリアが天井から降り注ぎ、大理石の床は、足音をひとつも逃さず反響させる。アンティーク調の装飾品が無造作に飾られ、そこかしこに「高級」の二文字が漂っていた。
それに――このホテルは、忘れもしない。安室さんが刺され、血に染まった屋上。事件のすべてが始まった、因縁の場所だ。記憶の中の夜景と重なるように、目の前の『米花プラザホテル』の文字があの夜の光景を鮮明に蘇らせた。

流れるように連れていかれたのは、ホテル最上階にある高級レストラン。
そして、たどり着いたのは、ガラス越しに夜景を見渡せる窓際の席。きらきらと光る街並みに心を奪われながらも、私は内心で必死に落ち着こうとしていた。
席に着いた瞬間、私をここまで案内してきた風見さんが、無言で立ち去ろうとする。慌てて彼の腕を掴んだ。
――こんな不慣れな場所に置いていかれるなんて、冗談じゃない。

「……あの、どちらに……?」
「至急の業務連絡が入りました。五分以内に戻ります」

引き止める私の小さな声に、風見さんはその言葉だけを残し、あっという間に姿を消してしまった。
五分以内…。本当に、戻ってきてくれるのだろうか。広すぎる空間にぽつんと取り残された私は、夜景を前に途方に暮れた。
そもそも、どうしてこんな展開になったのか──遡ること、一時間前。
ずっと鳴り続けていた玄関のチャイムに、恐る恐る応じたとき。そこに立っていたのは、きっちりスーツを着こなした風見さんだった。

『安室さんの指示です。……宮間さん、ずっと家に篭もりきりでは、精神的に良くないでしょう。外出許可が下りました』

安室さんの指示。その一言に、妙に胸が熱くなった。彼は私のことを気にかけてくれていた――それだけで、ぐらぐらと感情が揺れる。

『少しだけ、外に出てリフレッシュしましょう。車を用意しています』

不安と迷いはあった。けれど、安室さんが私を思ってくれたのなら、断る理由なんてなかった。
こうして私は風見さんに連れられ、なぜか場違いにも程がある高級ホテルに連れてこられた、というわけだった。
窓の外をぼんやりと眺める。夜景は綺麗だけれど、心はまったく晴れない。
安室さん、今どこにいるんだろう。無事でいてくれるだろうか――。
そんなことを考えていたとき、不意に近づいてきた女性スタッフに声をかけられる。

「失礼いたします。お客様、よろしければお相手の方が来られるまで、お飲み物などいかがでしょうか?」
「あ、えっと……」

慌てて首をすくめ、手元に差し出されたメニューを受け取る。お金なんて持っていないのに、頼んでいいのかな……。
悩みつつ、店員に早く立ち去ってほしい気持ちもあり、無難そうなノンアルコールのカクテルを指差してオーダーした。
しかし、そのまま店員が立ち去らずにじっとこちらを見つめていることに気づく。

「……?」
「……お客様、失礼ですが……職業は医療関係者の方でしょうか?」
「えっ?あ、はい。そうですけど、なにか…」

まさか救急のお客さんでも――そう思って眉をひそめる。
だが、次の瞬間、胸の奥に冷たい疑問が湧いた。どうして彼女は、私が医者だとわかったのだろう。
ここに来てから、一度も自分の職業なんて口にしていない。それなのに、なぜ――。
店員は会釈し、そのままカウンターへ戻っていった。思わずじっと目で追ってしまう。その手にはスマホ。ちらり、ちらりとこちらを確認しながら、何かを打ち込んでいる。

まさか……通報されてる?
背筋に冷たいものが走った。
私が指名手配中の女医だと、彼女にバレてしまったのかもしれない。風見さんはまだ戻ってきていない。それにここは、ホテルの最上階。逃げ場はない。
安室さんも言っていた通り、今ここで捕まれば、私は身分を証明できずに最悪の事態になりかねない。

「……っ」

私は静かに立ち上がった。握ったスマホが汗でじっとりと湿っている。
そして足音を忍ばせ、人目を避けながら廊下へ出た。
どこか、どこかに――逃げないと。ホテルの長い廊下を、私は走り出した。








まずい――。
心臓が喉元で跳ね上がっていた。息が詰まり、視界がかすむ。後ろから迫る複数の足音が、どんどん増えているようにさえ感じて、息を呑んだ。反射的に振り返りたくなる衝動を押さえつけ、ただ足を動かす。
さっき、逃げるようにレストランを出て、エレベーターに向かったとき。ちょうど扉が開き、降りてきたスーツ姿の男たちが私を見た瞬間、ためらいもなく距離を詰めてきた。咄嗟に踵を返して逃げ返したが、その人数は増えるばかりで、私は追い詰められていた。
彼らは、警察官で間違いないだろう。

曲がり角をいくつも飛び越え、わざと従業員用の通路に入り込む。壁に貼られた「関係者以外立入禁止」の紙を無視して、中に入る。行き止まりに見える細い廊下に体を滑り込ませ、フェイントのつもりで急停止してまた走り出す――それを繰り返すが、なかなか追っ手を巻くことはできない。
…おかしい。彼らの足音は迷いなく、一定の距離を保ってついてくる。まるで、私がどこへ行くのか最初から知っているみたいに。
それに、警察の到着があまりにも早すぎた。あのスタッフが通報したものの数分で、彼らは私の前に現れた。まるで、最初から私がここに来ることがわかっていたみたいだ。

非常階段のみどりの表示が視界に入り、そのままドアを押し開け、鉄の手すりをつかんで転げるように駆け下りる。呼吸が乱れ、酸素が足りないけれど足を止めるわけにはいかない。
今しかないと、震える指先でスマホをつかみ、連絡帳を開いた。そして、唯一頼れる人の名前をタップして電話をかける。
お願い……出て……!

『……はい、安室です』
「あっ、安室さん…!!」

聞きなれた穏やかな声。
助かった、と思うより先に涙が滲みそうになる。けれど説明する言葉が、息と一緒に喉で詰まった。時間がない。まともに状況を説明できる余裕なんてない。

「た、助けてください……!今、警察に捕まりそうなんです!!」

一瞬の沈黙が落ちた。
次の瞬間、安室さんの声が低く鋭く変わる。

『宮間さん。…警察って、どういうことですか?あなたまさか、外に――』
「か、風見さんがっ……!!」

電話口の向こうで、短く息を呑む気配がした。
わずかな間。何かを言いかけて飲み込み、代わりに低く短い舌打ちが響く。その音が、背筋を氷のように冷たくした。
その反応――安室さんはこのことを知らなかったんだ。明らかに初耳だった。もし最初から知っていたなら、あんな声の色にはならない。
それに、思い返せばおかしかった。指名手配中の私を、外に連れ出すなんて。それも、安室さんが倒れていたこのホテルに。
この状況は偶然なんかじゃない。最初から、風見さんが仕組んだ罠だ。

「どこに行けばいいですか…!?私、捕まってはだめなんです…っ」
『同感です。今どこですか?』
「米花プラザホテルの……、非常階段を降りてます……っ!」

答えた直後、上からドタドタと階段を駆け降りる音が聞こえた。恐怖で息が止まりそうになる。反射的に、目の前のドアを押し開け、28階の客室フロアへ飛び出した。
長い廊下。並ぶドア。明かりだけが心細く瞬いている。

『とりあえず、状況を把握するまでどこかに隠れていてください。すぐに指示を出します』

安室さんの声が、ぎりぎりの理性をつなぎとめる。

「い、いま28階です……!」
『わかりました。すぐ連絡します』

通話が切れると、すぐに通知音。
画面には短い数字が浮かんでいた。

《2515号室》

そこへ行け、ということだ。
考えるよりも先に足が動いた。

「おいっ!!そっちだ!!」

そのとき、怒号が廊下を震わせた。
時間がない。足音を消す余裕もないまま、別の非常階段に飛び込み、25階まで駆け下りる。
扉を押し開け、廊下に出る。部屋番号を必死に目で追った。――2511、2513、……あった。
そのとき、その扉が半開きになりスーツ姿の男が現れた。

「こちらです…!安室さんから指示を受けています」

男が小声で叫ぶ。
助かった――そう思った瞬間、背後で影が揺れた。振り返ると、複数の警官がもう視界に入っている。速すぎる。階段を回り込む間もなく、どうして……?
このままでは、間に合わない。部屋に逃げ込んでも、すぐ捕まってしまう。それに、あの男性や安室さんまで巻き込むわけにはいかない。握りしめたスマホに、安室さんと通話した記録だってある。

一度、後ろを振り返る。
そして私は走った勢いのまま、ドアノブを握る代わりに、スマホをその部屋の中へと放り込んだ。
カタン、と床に転がる音。
そのまま方向を変え、その部屋から極力離れたもころで立ち止まった。
もう無理だ。もう、限界…。

「はぁ、はぁ……」

膝に手をついて、肩を大きく上下させる。必死に呼吸を整えようとしても、肺が縮んだみたいにうまく吸えない。
そのときだった。数秒も経たず、警官に肩を掴まれた。

「確保ッ!!」

鋭い声と同時に、四方から腕を取られ、あっという間に冷たい金属が手首にはめられる。

「…やっと観念したか」
「手こずらせやがって。よし、連れてくぞ」

押し付けられる肩が重い。膝が笑い、床がゆらゆらと揺れる。視線を上げる勇気が出なかった。
頭では分かっていた――捕まってはいけないと。でも、もう限界だった。走るのも、逃げ切るのも。どうすれば良かったのか、正解はわからない。
それでも、たった一つだけ、胸の奥で必死に繰り返していた。
安室さんのスマホは隠した。それだけが唯一の、私の抵抗だった。




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