17
side: Kazami
「確保しました。彼女は無抵抗のまま黙秘を続けています」
刑事からの連絡を受けたとき、ひとまず安堵の息をついた。
――これでいい。これが最善だ。彼女が捕まったことにほっとする一方で、胸の奥にわずかな違和感が残る。だが、それを掘り下げる余裕などない。降谷さんが何を考えているか知らないが、この状況では彼女を拘束することが正しい。それが公安としての自分の務めであり、降谷さん自身のためでもある。
ここ最近の降谷さんの行動は、どう考えても異常だった。唯一の容疑者を匿うなど、有り得ない。殺人未遂犯も未だ行方不明。さらに、病院の看護師までが薬をカリウムへすり変えた理由を「わからない」の一点張りだ。すべてが謎だらけのまま動いている。
降谷さんはこの状況の裏に何かを感じ取っているのかもしれないが、明確な証拠もなく、動機すら見えてこない。
一つ確かなことは、彼女――。
唯一の手がかりを徹底的に調べなければ、これ以上進展は望めないということだ。何を隠そうとしているのか知らないが、彼女が目撃者ではなく被疑者である可能性は高い。どれほど降谷さんが彼女を庇おうとも、それを見過ごすことはできない。
車の中に乗り込むと、しばし頭を抱えた。
どうするべきだったのか、内心で迷いが生じる。それでも――これが正しいのだ、と自分に言い聞かせる。そのとき、ポケットに入れたスマホが震えた。画面には「F.R」の名前。
十中八九、彼女のことだろう。一度深呼吸をし、着信に応じると、降谷さんの冷ややかな声が電話越しに響いた。
『…風見。自分が何をしたかわかっているか?』
怒りを抑え込んだ静かな声――だからこそ、余計に圧がある。怒鳴りつけられるよりも、はるかに恐ろしい。
だが、ここで怯むわけにはいかない。自分の決断が間違いではなかったことを証明するためにも、言葉を選びながら応じた。
「今の状況では拘束が妥当です。刑事によると、彼女はすべて黙秘しているそうではないですか」
『だからだ。話せることがないから保護をしたのに、お前が彼女を差し出した』
降谷さんの言葉に、喉がひりつく。苛立ちと怒りが滲み出た声が耳に刺さる。
それでも、こちらも一歩も引けない。
「罪がないなら、身元を隠す必要はありません。黙秘している以上、彼女は目撃者ではなく被疑者である可能性が高い。上層部にこれ以上、彼女の保護について隠し続けるのにも限界があります。それに、彼女が何か目的を持って降谷さんに近づいた可能性だって――」
その言葉を最後まで言い切る前に、降谷さんが遮った。
『そうやって、常識的に理解できない状況を無視して、今まで何人の人間が命を落としてきたかわかるか?常識で理解できないからこそ、彼女も今、こうなっている』
一瞬、何も言い返せなかった。
降谷さんの声は冷静だったが、その底には深い怒りと悲しみが混じっていた。
その言葉に、胸の奥が鈍く痛んだ。脳裏に浮かんでしまう。任務の最中、笑い合った翌日に帰らぬ人となった先輩の横顔。護衛任務で名を呼ぶ間もなく倒れた同僚の背中。報告書に残された無機質な数字の陰で、どれだけの血と無念が流れたかを、自分は知っている。
「常識」で片づけてしまえば、彼らはただの統計に埋もれていく。それがどれほど悔しかったか。
――だが、それでも。
「自分の行動は、降谷さんのためです」
自分は公安として、正しい道を選んだはずだ。この行動は、必ず降谷さん自身を救う結果になる。
そのとき、電話越しに聞こえる足音が早足になる。ざわざわとした周囲の音。空港だろうか?降谷さんが急いで帰国しようとしているのが伝わる。その中で、降谷さんは淡々と告げた。
『お前は常識的に行動したと思っているだろうが、彼女の本質を何一つ読めていない』
「……どういうことですか?」
『彼女はスマホを捨て、僕を守ろうとした。僕が規律を破って自分を保護していたことを知っていたからだ。お前が重要だと思っている身元や証拠なんて、どうでもいい。そんな行動に込められた本質を見ようとしないから、お前は犠牲者を生む』
――犠牲者。その言葉が胸に突き刺さった。
息を呑む。だが、降谷さんは容赦なく言葉を続けた。
『そんな危うい選択をする人間を前にして、“常識”で測ろうとすること自体が間違いだ。…今のお前には、公安の資格がない。しばらく頭を冷やせ』
冷たい断言とともに、通話は一方的に切られた。
しばらくその場から動けなかった。降谷さんが言った言葉の意味を、頭の中で何度も繰り返す。――犠牲者。自分が見逃していたものが、本当にあったというのか。
しかし、規則は規則だ。それでもなお、胸の奥では「自分は正しい」と繰り返す声が小さく囁いていた。
**
警察署の取調室まで連れられて来た私は、休憩もさながらさっそく取り調べを開始された。部屋の中は薄暗く、冷たい蛍光灯の光が天井から不自然に照らしている。
「名前は?」
「…宮間りかです」
「違うだろ。もう諦めろ。本当の名前を言え」
「……宮間、りか…です…」
低く、鋭い声が耳を刺す。本当のことを話しているのに、刑事たちはただ冷たい目でこちらを見つめるばかりだった。
「電話番号は?」
「……わかりません」
「…自宅の住所」
「……ありません」
私はこの世界の住人ではないから、何を聞かれても答えることがない。それに、もし本当のことを言っても精神がおかしいと思われてしまうだろう。
そんな私に、次第に刑事は苛立ち始めた。視線と空気が重く、まるでこの部屋全体が私を追い詰めようとしているみたいだった。
「無駄な抵抗はやめて、正直に話せ」
私は何もしていない。人を救っただけなのに、なぜこんな目に遭うのだろうか。両手が震え始めるのを感じるけれど、それを止める術もなく、ただ机の下でぎゅっと拳を握りしめることしかできなかった。
何かの誤解だ。きっと、そう。すぐに誤解が解けるはずだ。きっと誰かが、間違いに気づいてくれる…。そう信じていた。
「これ以上黙秘するなら、もっと長引くことになるぞ」
けれど、刑事たちの目は変わらなかった。まるで私がすでに「犯人」として決めつけられているような、そんな視線を突き刺してきたのだ。
質問と疑いの言葉をただ延々とぶつけられ、心がすり減っていくのを感じる。罪を認めろという圧力に耐えるたび、まるで自分の中から少しずつ大切なものが削られていくような感覚がした。
「これだけは言わせてくれ。殺人未遂犯を探すのにこっちは2ヶ月も難航してるんだ……!もう手間を取らせないでくれ!!さあ、電話番号を!!」
何も答えないし、指紋照会も出ない。不法滞在者だろうと、隣国の公安に要請はするが、やはり何も出ない。私と同じく刑事たちも疲弊していった。
どれだけ時間が経ったのだろう。ここは太陽が見えないため、今が昼なのか夜なのか分からない。刑事たちが立ち上がり、取り調べは一旦休憩だと告げられる。その言葉を聞いても、安堵する気力すら湧かない。
留置所の硬いベッドに入れられても、横になる気力がない。ただ壁を見つめながら、頭の中で何度も「どうして?」を繰り返していた。
「風見さん…」
その時、留置所の前に風見さんが現れた。こうなってしまった原因だとか、そんなことを考える以前に、見知った顔を見つけて思わずすっと立ち上がった。どういった顔をすればいいのか分からない。何も話すこともない。
ただただ、過酷な取り調べで疲労困憊した私は、ここから早く出たい気持ちでいっぱいだった。
「…私じゃ、ないんです…」
「申し訳ないですが、私の立場ではこれが最善です。安室さんの理解不能な行動も心配ですし……。ずっとあなたを、あそこに監禁するわけにもいきません。あり得ないじゃないですか、容疑者と同居だなんて。あなたの素性もわからないのに」
「…違うんです…本当に…」
「取り調べに応じて下さいましたら、協力します。ですが、今は無理です。まずは、嫌疑を晴らしてください。身元を明かし、目撃したこと全てを話したら、弁護士でもなんでもこちらで準備します」
何度も助けを叫ぶけれど、その声が壁に跳ね返るだけで、誰にも届かない。視線を逸らす風見さんの背中が、冷たく私を突き放した。
「明かしたくても、明かす身元が…ないんです……」
「身元のない人がこの日本にいるとでも?」
「…本当です…本当に、ないんです……」
彼の背中に助けを求めても、それが届くことはなかった。
目の前には、無機質な机と椅子、そして鋭い視線をこちらに向ける刑事たち。顔を見るのも嫌になるほど、この3日間、何度も同じ光景を繰り返してきた。
「看護師が薬をすり替えると誰かから聞いたんだろう!!何も知らずにどうやって駆けつける!?」
「なぜ偽の名刺を…?電話番号まで全てを詐称する理由は!?」
「なぜ医師だと名乗ったんだ!!」
「背後に殺害を指示した誰かがいるんだろ?!」
「言わない気か」
「おい!!黙ってれば済むとでも?!」
「おいッ!!なんとか言ったらどうなんだッ!!!」
「……知らない、です」
かすれた声で答える。もう、何を言っても無駄だという気がしていた。それでも、諦めるわけにはいかない。
でも、疲れた。とにかく疲れた。目を閉じたい。体を横にして眠りたい。けれど、ここにはそんな自由もない。ただ机に座り続けるしかない。
…どうして、こんなことになったんだろう。考えるたびに胸が痛む。何も悪いことはしていない。なのに、なぜこんな場所で追い詰められなければならないのか。その理不尽さが心を蝕んでいく。
刑事が何かを質問しているらしいけれど、その内容が耳に入ってこない。頭がぼんやりとして、目の前の景色が歪んで見える。
…もう限界だ。
心の中でそう呟く。疲労は限界だ。心も体も、もうこれ以上持ちそうにない。だけど、諦めたら終わりだと分かっている。それだけが、かろうじて自分を支える最後の柱だった。
「拘置所に移送だ」
しかし、刑事のその言葉を聞いた瞬間、胸の奥がドクンと大きく跳ねた。まるで重い槌で殴られたような感覚だった。
「……え?」
耳が拒絶しているのか、言葉の意味がすぐには理解できない。ただ立ち尽くし、何が起こっているのかわからなくなる。
手錠がかけられる感触が、やけに冷たく感じた。目の前がぐらりと揺れる。
どうして…どうしてこんなことに…。私は何もしていないのに…。
護送車に乗せられ、狭い空間に押し込められる。窓の外を流れていく景色が、まるで自分の生活が遠ざかっていくのを象徴しているように見えた。絶望と、悔しさと、ほんの少しの希望が渦巻いている。でも、その希望が手元から全てすり抜けていく。
誰か…信じてくれる人はいないの?誰か、この誤解を解いてくれないの?
しかし、刑事たちは私を殺人未遂と共犯の可能性が高いと判断し、逃亡の恐れがあるとして拘置所に収監することを決定してしまったのだった。
黄土色の囚人服に着替えさせられ、拘置所の鉄の扉が目の前で閉じられた瞬間、その冷たい音が頭の中で何度も反響した。
私はただ、無力感に押しつぶされそうになりながら、薄暗い空間の中で立ち尽くすしかなかった。
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