18
夏の拘置所は、とても暑かった。
まるで温室の中に閉じ込められたみたいな、息苦しさとまとわりつく湿気。じっとしているだけなのに、汗が背中をつたい、囚人服にぴたりと張り付いて気持ち悪い。風はどこからも入ってこない。ただ、じりじりと空気が熱を持って身体にのしかかってくる。
私は膝を抱え、部屋の隅で小さく丸まっていた。何かを考えようとすると、こめかみが痛み、頭の奥がだるくなる。ここ数日ほとんど寝つけていないのと、この暑すぎる環境のせいだろう。
カシャン――。
重たい鉄の扉が開く音がした。だが、もう私は反応する気力すらなかった。
「4205!……4205!!」
番号が何度も呼ばれる。同室の人達の視線が、なぜか私に刺さった。ふと、胸元に貼られた識別票を見る。
“4205”――それが私の番号みたいだ。そうか、拘置所では、もう誰も私を”名前”では呼ばないんだ。人じゃない、ただの番号なんだ――そんな現実に、胸の奥がひどく冷たくなった。
立ち上がる足はふらつき、暗い廊下を連れて行かれながら、また取り調べかとぼんやり思う。風見さんか、それともあの刑事か――。
けれど、面会室の扉が開いた瞬間、思考は一瞬で止まった。
「あむろ……さん……」
ガラス越しの面会室に座っていたのは、安室さんだった。黒いシャツに黒いパンツ。急いで駆けつけてきたことがわかる。
その姿を目にしただけで、胸の奥で押し殺していた何かが、ぶわっと広がった。
――駄目だ。泣くわけにはいかない。そう必死に押し込めながら、向かい合って座るとしばらく沈黙が落ちた。
「……大丈夫ですか?」
そっとかけられた、低くやわらかな声。
それだけでもう限界だった。胸の奥が痛む。必死に顔を上げて笑おうとするけど、うまくいかない。
「遅くなってすみません。とんぼ返りでも2日かかってしまいました。中は……どうですか?」
安室さんが静かに訊いた。
私は喉の奥がつまるのを感じながら、やっと声を絞り出す。
「………暑い、です」
ぽつりと答えた。
安室さんにまっすぐ見つめられる。彼がここに来てくれるのをどこかで願っていた。でも、実際に目の前に現れると、嬉しさよりも情けなさが押し寄せてくる。疲れ切った顔も、やつれた心も、彼に知られたくなかった。
「暑い、ですよね。夏の監獄は暑くて、とてもしんどいはずです」
なだめるような、とても静かな声。
それにまた、胸が締めつけられる。
「つらいですか?」
「……いいえ」
咄嗟に否定したけれど、きっと全部バレている。震える肩も、かすかな嗚咽も、何もかも。
「りかさん」
「………っ…」
安室さんが、小さく私の名前を呼んだ。
あまりに優しい声。必死に涙をこらえているのに、ここで初めて名前で呼ばれるなんて。わざとに違いない。
その瞬間に――防波堤が崩れた。ずっと堪えていた涙が、頬を伝ってぽたぽたと零れ落ちる。
「……ごめっ、ごめんなさい……」
謝るしかできなかった。
何を謝っているのか、自分でも分からないのに。ただ、安室さんの前で、無様に泣き崩れる自分が、情けなくて、悔しくて、それでもどこかほっとしていた。
「……っ…ありえなくて……っ、映画とかでは見たことあるのに……、…自分がこんな場所に入るなんて……っ、思っても、みませんでした……っ」
喉がつかえ、息が詰まった。うまく呼吸ができない。言葉も出てこない。それでも必死で言おうとした。私はただ、普通の人間だったんだと、伝えたかった。
安室さんは、黙って私を見つめていた。一言も遮らず、ただ、全部受け止めるみたいに。
「……っ、こんな……こんな情けない姿、見られたくなかったのに……っ平気なふりして……何も怖くないみたいに笑おうって、ずっと思ってたのに……っ」
声が震えて、喉の奥が詰まる。
堰を切った涙は止まらず、熱くて、苦しくて、それでも彼から目を逸らせない。必死に言葉を探しながら、吐き出すように続ける。
「……外に、出るなって、それを……ちゃんと聞いていれば……っ、めいわく、かけて……ごめんなさいっ……」
——そう言いながら、胸の奥で、何かがひどくきしむ。まるで長く抱えてきた鎖が、音を立てて外れていくみたいだった。
「あなたのせいじゃありません」
安室さんの声は、低く穏やかで、けれど迷いのない響きを帯びていた。その一言が、胸の奥にじんわりと染み込んでいく。
泣き腫らした目から、また新しい涙があふれそうになるのを、私は必死に堪えた。
ようやく嗚咽が落ち着いたころ、安室さんは低く、静かな声で告げた。
「……りかさん。よく聞いてください。これから先、明るい道はありません」
その言葉は、真っ直ぐに胸の奥へ突き刺さった。
不意に息を吸うのも忘れ、私は顔を上げる。面会室の白い蛍光灯の下で、安室さんの瞳は深く、研ぎ澄まされた刃のように静まり返っていた。
「今の僕には、あなたを救う手段がありません。殺人未遂、教唆、不法滞在に背後関係――あらゆる理由で取り調べられ裁判、また取り調べられ裁判です。…終わりがありません」
その声が一語ごとに重たく落ち、胸を叩く。頭の奥で、鈍い衝撃がじわじわと広がるような感覚が広がった。
「2ヶ月間、何も手掛かりを掴めていない者たちは、もう真実なんて求めていない。あなたを犯人に仕立て上げるために、何でもするでしょう」
――そんな。
これ以上酷いなんて、もう考えられない。まだ下があるのかと、底知れぬ奈落を覗き込まされたようだった。
私はただ、人を助けた。それだけだったのに。どうして。どうしてこんなことに――胸の奥で、また何かがポロリと崩れた。
安室さんはふっと眉を寄せ、私を見据える。
「このままでは、あなたはもう平凡な生活には戻れないでしょう。……だからりかさん。今こそ、僕の質問に答えてください」
ガラス越しに向けられるその声は、酷く静かで、どこまでも真剣だった。心の奥に、静かに鋭く、突き刺さる。
「っ、できません……!」
喉が貼りつき、かすれる声しか出ない。けれど、それでも必死に否を返すしかなかった。
「あなたの話をすべて信じます。この状況から逃れる方法は一つです。僕の質問に答えて、ここから消える。……どうですか?」
ガラス越しの瞳が、深く澄んだまま、私の奥底をまっすぐ射抜く。まるで視線だけで、私の呼吸を掴まれているようだった。
安室さんの言っていることは、痛いほど分かる。そうすれば、私はこの出口のない場所から抜け出せる。安室さんが、私のために差し伸べてくれている手だということも――全部理解できている。
でも、それでも……この真実だけは、絶対に渡してはいけない。渡した瞬間、何かが起きてしまう気がする。
「あなたの世界とは?」
「…ここから私が消えたら、大騒ぎになります……」
「でしょうね。ですが、心配は無用です。あなたは帰れば無関係なんですから。僕の世界のことは、僕が収拾をつけます。大丈夫ですよ、答えてください」
――優しい。けれど、その奥に鋼の芯があるのが分かる。
背中に冷たい汗がつうっと落ちていく。座っているのに、逃げ道のない壁際に追い詰められた感覚。
「できません……っ、言ったじゃないですか。答えたら安室さん、あなたが不幸になるって……!」
声が震え、思わず拳を握る。
必死だった。本能が拒否していた。
自分が漫画の登場人物だと知ったら――。これまで築き上げてきた日々や人間関係が、ただの物語だと知ったら――。
その瞬間、どれほどの絶望が彼を襲うか。想像するだけで、胸の奥がずきずきと痛む。
「…今の僕は、たいして幸せでもありません」
ぽつりと落とされた言葉に、思わず顔を上げる。安室さんは、ほんのかすかな笑みを浮かべていた。それは慰めでも挑発でもなく、ただ事実を口にした人間の表情だった。
「僕の友人たちのこと、眠れない夜があること――あなたもきっと、知っていますよね?……りかさん、お願いです。答えてください。時間がありません」
「……私も何が起きるかわからないです」
唇の内側を噛む。かすかな血の味が広がる。
声は震え、言葉は頼りなく消えた。
「もう起こりました。周りを見てください」
短く放たれた一言が、胸の奥を真っ直ぐ射抜く。
私は既に、この世界に致命的な歪みを作ってしまった――その事実を、突きつけられた気がした。頭の中で、ゆっくり天秤が揺れ始める。片方には自分が守ってきた秘密、片方にはこの牢獄からの出口。
それがゆっくりと、重たい方へ傾いていく。
「あなたはどこから来ましたか?」
「……東京、です」
「いいですね。この東京との違いは?」
「……そこには私が住んでいて……ここにはあなたが…」
言葉にした途端、罪悪感が胸を締め上げる。
息が浅くなり、視界がわずかに滲む。
「なぜ、僕のことを知っていますか?そこには僕はいないのに、僕について全て見たと言っていました。どこで見たのですか?」
詰まった息を吐き出す。
「っ……話すくらいなら、裸を見せる方がマシです」
「それは効かないって言いましたよね」
苦笑すら浮かべず、静かに返される。
絶望的だった。逃げ場なんて、最初からなかったのだ。
「でもっ…、聞いたら、後悔します……!」
「後悔しません」
静かな決意だった。どれだけ脅しても、安室さんの意志は微動だにしない。
どうして――どうしてそんなに迷いなく、こちらを信じてしまえるの。
「あなたが暮らす世界とは……一体どこなんですか?」
安室さんの目が、すっと細められた。まるで、最後の扉を自ら押し開こうとするみたいに。
その瞬間、私の中で何かが崩れた。強く結んでいた決意の紐が、ほどけるように。まともな判断なんて、できなくなっていた。いや、そんなもの、最初からできていなかったのかもしれない。
「………漫画です」
耳を疑うような、か細い声だった。でも、それは確かに自分の口から零れた言葉だった。
「なん、と……?あなたが、漫画から出てきたと?」
安室さんが僅かに眉を寄せる。
私は、ぐっと唇を噛んだ。
「……違います」
「では?」
「ここが、です……」
一瞬、安室さんの表情が、ふっと凍った。
「……どういう意味ですか?」
ああ――。
もう、止められない。
「ここは……漫画の世界なんです。私が読んでる、漫画の……。あなたは、その漫画の中の――登場人物の1人です」
言った瞬間、すべてが凍りついた。世界の空気が、ぴたりと張り詰める。
時間が、止まった。音も、呼吸も、存在さえも。
目の前の安室さんが、まるで別人のように、静かに私を見つめていた。
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