19
全身の意識が少しずつ戻り、頬を撫でる風の冷たさが肌に染み込んだ。寒さに震えながら恐る恐る目を開けると、ぼやけていた視界が徐々にクリアになっていく。目の前には大きな道路が広がり、数え切れないほどの車が走っている。隣にはスマホに夢中な女子高生、斜め前では男女が大声でふざけ合っている。
周囲の世界がゆっくりと「現実」に復元されていくような感覚だった。
「りかさん!!!」
名前を呼ぶ声が耳に届き、ゆっくりと振り向く。
そこには、見慣れた姿——天沢くんが、車から降りてこちらに走ってくるところだった。
まるで信じられないものでも見たかのような、顔面蒼白の表情でこちらへ向かってくる。
私は改めて自分の状況を確認する。囚人服を着たまま、病院前のバス停に座っていた。
「痛ッ!!っりかさん!!まさか本当に監獄に!?」
もう一度ゆっくりと顔を上げる。
バス停前の段差につまずいた天沢くんは、そんなこと気にも止めず私の肩を掴んだ。彼の目には心底仰天したような色が浮かんでいる。私が本当に「監獄」から帰ってきたのかを何度も何度も問いただしてきた。
「本当に?!嘘だ!冗談ですよね?!」
そんなわけがない、自分の頭がイカれてしまった、と天沢くんは狼狽し、信じられないと頭を抱える。
何も物が言えない私を支え、とりあえず車まで連れて行ってくれた。助手席に座らされ、天沢くんは素早く運転席に回るとシートベルトを締め、車を発進させた。
「ほんの30分ですよ?!電話してたら急に声が聞こえなくなって……りかさんのスマホとバッグを拾った人から、たった今ここで受け取ったんです!」
天沢くんはそう言いながら、私にスマホとバッグを差し出す。私は震える手でそれを受け取り、中身を確認した。
——間違いない。私のスマホとバッグだ。財布の中身も免許証も、そのまま残っている。
拾ってくれた女性もまた、誰もいない地面に繋がったままのスマホが落ちていて不思議に思っていたと天沢くんは説明した。
そうだ、確かあの時——。あのバス停で天沢くんと電話をしていた。体感的には1週間も前の出来事であまりよく覚えていないが、その途中で、"コナン"の世界へと引きずり込まれてしまったのだ。持ち物はその場に残ったまま、持ち主だけ消えて。
「その時、編集部から連絡が来たんです。先生が"コナン"の新しい話を入稿したって。でも内容がすごく変だから確認してほしいと言われて…」
天沢くんはそう続けると、一瞬だけこちらを見つた。確認していると、その直後、さっきまで居なかったはずの私が、目の前に囚人服姿で現れたという。
「心臓が止まるかと思いました」
天沢くんの手がわずかに震える。その時の衝撃を思い出したのだろう。車はゆっくりと車線を変更し、静寂が広がる。
「……たったの30分ですよ。僕と電話していたのが9時。そして、戻ってきたのが9時半。漫画で読んだ限り、安室透の家で3日、警察署で3日、監獄で1日……合計1週間、ですよね?!」
天沢くんの言葉に、私は小さく頷いた。
「……ごめん天沢くん。すごくつかれてるの…刑事が、寝かせてくれなくて……」
毎日毎日ぜんぶ覚えている。今さっきそこで起こった出来事のように、ハッキリすべて。
痺れるような頭痛と、胸の奥に残る鈍い痛みにこめかみをぎゅっと抑える。これは紛れもなく「1週間」の疲労感だ。
天沢くんはなおも、信じられないといった様子で続けた。
「そんなこと、本当に有り得るんですか?!」
「監獄は……人がいる場所じゃない……。1日だって耐えられなかった……」
「……それで話したんですか?ここが漫画の世界だと?」
その一言で、私の中の何かが弾け飛んだ。
「ぁ……っ、わたし…!なにを……!」
なんてことをしてしまったのだろう。
取り返しのつかないことをしてしまった。
両手で顔を覆い、後ろめたさに切り裂くように胸が痛む。
安室さんに、言ってしまった。耐えられなかった。人権を剥奪されたようなあの空間に、理性なんてあっさり砕け散ってしまった。
「わたしっ…!…天沢、くん…わたし…これからどうしよう…!」
「僕だってわかりませんよ……」
天沢くんの声は震え、私の胸の中には、どうしようもない罪悪感が広がる。二度と取り返しがつかないかもしれない。もう二度と、安室さんは笑って話せなくなってしまうんじゃないか。これは、漫画の世界にだって影響を及ぼしかねない。彼らの世界をめちゃめちゃにしてしまったのだ、私は。
頭を抱え、自己嫌悪の波に呑まれていく。
どうにかしなければ。何かをしなければ——。
そう思えば思うほど、私の感情はひどくほつれ、何一つとしてまとまらなかった。
本当に、どうすればいいの……。
車内には、重い沈黙が流れていた。
「お父さん!!」
「……まだ、戻ってきてません」
天沢くんの運転する車で、私は父の家へと向かった。到着するや否や、玄関を開け放ち、真っ直ぐに父の仕事部屋へ駆け込む。
だが、そこには誰もいない。資料や原稿が散らばったままの部屋は、まるで時間が止まってしまったかのように静まり返っていた。
「……ずっと戻ってないんです。僕も何度か連絡しましたけど、返信がなくて」
天沢くんのその言葉が、棘のように心に刺さる。父はどこに行ったのというのか。こんな非常事態に、私たちは話し合わなければならないのに。
もう父も、"コナン"の世界について知らないふりを続けることはできないはずだ。私たちは、すでに一線を越えてしまったのだから。
囚人服のままでいるわけにはいかず、私は父の家に置いてあった自分の服を引っ張り出し、適当に着替えた。
その後、天沢くんと共に父の作業部屋の資料を一通り確認することにした。
「…りかさん、終わらせませんか?」
何も見つからず、頭が真っ白で、目の前が真っ黒になる。途方に暮れていたその時、唐突に天沢くんが口を開いた。
資料のページをめくっていた手が止まる。終わらせるって……。
「……なにを?」
「"コナン"の世界を。僕が修正して、最終回をアップします」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
「え……?」
「完結すれば、おそらくもう引き込まれません。りかさんはあっちでは脱獄犯です。もしまた行ったら、おばあさんになるまで監獄暮らしですよ? それでもいいんですか?!」
天沢くんの言葉が、頭の中で何度も反響する。
終わらせる。"コナン"の物語を、終わらせる。
もしそれが現実になれば、私はもうあの世界へ引き込まれることないかもしれない。
——けれど。
「でも……終わらせてしまったら、安室さんは……?」
「りかさん!」
天沢くんが苛立ったように叫んだ。
「今は現実の人間の問題でしょう!この状況で、マンガのキャラクターの心配ですか?!」
——そんな……。
天沢くんの言うことは確かに正しい。
今のままでは、またいつ"コナン"の世界に引き込まれるかわからない。
その時はもっと酷いことが起こるかもしれない。あの刑事の冷たい視線と声を思い出し、身震いする。
けれど……終わらせてしまったら——。
"コナン"の世界で生きる彼らはどうなってしまうの?あの世界には、確かに「生きている人たち」がいた。私はこの目で見た。彼らは私たちと何ら変わらない——人間なのに。
「編集部には、先生が修正したことにしましょう。説明する自信もないし、とにかく終わらせて収拾は先生につけてもらいます。今はそれが最善策です」
天沢くんは私の意見を聞こうともせず、パソコンの前に座り、キーボードを叩き始めた。
「待って……」
声が震える。何か言わなければ——止めなければ。何か、別の方法だってあるはずだ。それに、終わらせて彼らの世界に何か起こりでもしたら…どうするというの。
けれど、天沢くんの手は迷いなく動き続ける。「コナン」の最新の原稿ファイルが開かれ、最後のページへとカーソルが移動する。
「" 終。ご声援に感謝します。"
って書けばいいですよね?」
その瞬間、咄嗟に私は天沢くんの手を掴んだ。天沢くんが私を見上げる。彼の瞳には焦りと苛立ちが滲んでいた。
「なんですか? もう十分、先生もバッシングを受けてるんです!どのみち結果は同じですよ!」
「でも……そんなの……」
私は何も言えなかった。その時、天沢くんは掴まれた手とは反対の手で、エンターキーに指を伸ばす。
「あ、やめて…!!!」
私は手を伸ばした。
けれど、間に合わなかった。
カチッ——、その音と同時に、パソコンのモニターが一瞬にして真っ白に染まる。
「……そんな……終わっちゃった……?」
目の前の画面が、すべてを締めくくるように静まり返った。
「……あれ?!なんで?!どうして?!」
天沢くんがパソコンの画面を操作しようとするが、画面には何も表示されない。
——おかしい。——何かが違う。
天沢くんの焦る様子を見つめながら、私は喉の奥から震える声を絞り出す。
「……安室さんに……何かあったんだ……私のせいで……私のせいで、良くないことが起きたんだ……」
声は涙で震えていた。
どこで間違えたのか。何をすれば良かったのか。天沢くんもまた、何も言えず、ただ画面を見つめていた。
——その静寂の中で、私たちは気づいてしまった。私たちが触れてしまった「世界」の重さを。そして、その代償が、これからどのように私たちに降りかかるのかを——。
……私は、取り返しのつかないことをしてしまった。
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