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side: Furuya


"脱走者です。全ての扉を封鎖します"

耳をつんざくような警報音が、無機質な拘置所の廊下に鳴り響く。赤い非常灯が光り、重厚な鉄扉が次々と音を立てて閉まっていく。分厚いコンクリートの壁が緊張を反響させ、逃げ道を無情に塞いでいった。
警官たちが慌ただしく駆け回り、無線機には錯乱と焦燥が入り混じった声が飛び交う。

「おまえ、何を言ってるんだ!!」
「違うんです!目の前で、本当に消えたんです!」
「ふざけるな!」
「本当です!煙みたいに消えたんです…!!あそこにいたのに!!」

パニックに陥った警官たちの叫び声が、廊下にこだまする。その声には冷静さの欠片もなく、虚ろな恐怖だけが浮かび上がっていた。
どれだけ必死に訴えても、側から見るとその言葉は錯乱したものにしか聞こえない。

「冷静になれ!何を言ってるんだ!」

鋭い叱責が飛ぶが、その声すら焦燥と不安を隠しきれていない。その混乱の中で、一際鋭い足音が廊下に響いた。

「降谷さん!!」

風見が険しい顔で駆け寄ってきた。その眉間には深い皺が刻まれ、額には汗が滲んでいる。

「何事ですか?逃げたんですか?あの女が脱走を…?!もしかして降谷さんが手を貸したんですか?…これは大ごとですよ降谷さん!!」

その声にはいつもの敬意はなく、責任を問うような切迫感だけが滲んでいた。矢継ぎ早に問い詰めてくる風見の言葉が、耳を通り抜けていく。
——なぜだろう。
風見の言葉も、周囲の騒音も、遠くかすんで聞こえる。ただ、頭の中には彼女の言葉だけが何度もこだましていた。


"ここは漫画の世界です"

"あなたの感情の変化が必要なんです!
登場人物だから!!"

"ここでは分からないから助けられません"

"はい、私の世界ならできます"

"私は安室さんのハッピーエンドを願っているんです"


その言葉たちが、心の奥深くに突き刺さって離れなかった。彼女の涙、声、真剣な眼差し——これですべての脈略が、繋がった。

「降谷さん、どういうことですか?一緒にいながら消えたと?」
「……ああ」

ぼんやりと答えた。その声には、いつもの冷静さも、毅然とした態度もない。風見もそんな僕の姿に眉をひそめた。

「有り得ません!これはかなりまずいです、上層部だって黙っていませんよ!」
「そうだろうな……。でももう、どうでもいい」

その言葉に、風見が息を飲んだ。まさか、僕がそんなことを言うとは思わなかったのだろう。彼の表情には、驚愕と不安が滲んでいる。

「そんなことより…僕の存在理由。それが真の問題だ」

自分の声が、自分のものではないように聞こえた。
冷たい氷のような感情が、胸の奥から広がっていく。深い絶望と疑念、そして理解しがたい真実への恐れが頭の中を渦巻いていた。

「…はい?彼女から何か聞いたんですか?」
「聞いた。有り得ない話を」

言葉を発した瞬間、彼女の顔が脳裏に浮かぶ。初めて出会ったときから、彼女はすべてが異質だった。
言葉、行動、表情——何もかもが、僕の理解の範疇を超えていた。
しかし、彼女の最後の言葉を聞いた瞬間。今まで見えなかった脈略が、一気に噛み合った。点と点が線になり、理解できなかった出来事が全て一本に繋がったのだ。

こんなことはまるで、一度も想像したことがなかった。世界がひっくり返ってしまったような感覚がする。
しかし、これで日々感じていたあの違和感の説明もつく。決められた筋書きの中を生きているようなあの違和感だ。
…今まで信じていた正義も、真実も、信念も——すべてが虚構の上に築かれたものに過ぎなかったというのか?

「この世界が全部ニセモノで、作られた世界——?」

その言葉を吐き出した瞬間、世界が軋む音を立てて止まった。
耳を打っていたざわめきが一瞬で消え、空気そのものが凍りついたかのように沈黙する。呼吸の音すら遠のき、まるで鼓動だけが異様に響く。
風見の口元は言葉の途中で固まり、瞬きひとつしない。周囲の警官も同じだ。恐る恐る手を伸ばし、風見の肩を掴む。
――冷たい。人形のように動かない。

視線を外に向けた。拘置所の窓越しに広がる街が、まるで紙に印刷された絵のように静止している。交差点の真ん中で立ち止まったままの人影。赤信号に捕らえられた車列。空に掲げられた巨大な看板の点滅さえも、途中で途切れたまま固着している。
それはまるで、漫画の一コマのように。

「これは……」

懐のスマホを取り出す。
だが画面は白く固まり、指で触れても一切反応しない。手を滑らせ、床に落ちた鈍い音が、異様に引き延ばされた残響となって耳の奥で響いた。

その時、なぜか唐突に理解した。
――ルールを破ったのは自分だと。
この世界の虚構を口にしてしまった、その一言で、歯車は壊れたのだと。
そして“真実に気づいた者”だけが、この止まった世界に取り残される。まるで罰を受けるかのように。

その瞬間だった。
目の前に、光が立ち上がった。
眩い扉。形を定めきれず、脈動する線の集まりが空間に縫い込まれていく。光が波紋のように広がり、視界を満たす。近づけば消えそうで、それでも確かにそこに在る。
風も吹かないはずなのに、髪が逆立つ。皮膚が焼けつくような熱と、氷に刺されるような冷たさが同時に押し寄せてきた。

僕は知っている。この光を。
あの夜、ホテルの屋上で意識が闇に沈み、血の匂いに包まれ、呼吸が薄れていった瞬間。
死の縁で見たのは、まさにこの輝きだった。必死に手を伸ばし、何かを掴み、引き寄せた。
その時……彼女が、この世界に現れた。

「……まさか」

自分が無意識に境界を破り、彼女をこの世界に引きずり込んだというのか?
自己嘲弄にも似た感情。そのときから、この世界がいつかこうなることは決まっていたのかもしれない。
そっと伸ばした指先が光に触れた瞬間、世界が反転する。
視界が真っ白に塗り潰され、次に訪れたのは冷たい雨だった。雨粒が頬を打ち、背中に染みていく。肺に新鮮な空気が流れ込む。音がある。匂いがある。街の気配がある。
見渡せば、ビル街。車が走り、人々が傘を差し、広告バナーが風に揺れている。
――世界が動いている。

「ここは……」

すぐにわかった。
ここが彼女の暮らす世界なのだと。
その時、ふとビルの電光掲示板が視界に入った。
煌々と輝くネオンに映し出された文字――「名探偵コナン」。それだけなら、よくある広告に過ぎないはずだった。だが次の瞬間、画面に映ったものを見て息を呑む。
茶色の髪。蝶ネクタイ。あの丸い眼鏡。
見慣れすぎた、小さな探偵の姿。

「……まさか」

声が震える。
ただの宣伝映像のはずなのに、視線を逸らせない。頭の奥で、点と点が繋がっていく。
ここでは、現実として存在するはずの少年が、キャラクターとして街頭広告に映し出されている。
心臓が跳ねた。足が勝手に動き出す。
真相を確かめなければならない。
気づけば、雨の中を駆け、近くの書店へと走っていた。









「名探偵コナン」

そのタイトルの表紙を見つけるのに、時間はほとんどかからなかった。人気漫画なのだろう。平積みされた巻数が書店の中央に堂々と置かれ、誰にでも手に取れる位置にある。
一冊を抜き取り、震える指でページをめくった。

描かれているのは、一見普通の推理漫画。だが読み進めるごとに、ただの娯楽で済まない感覚が背筋を這い上がってくる。
ページをめくるたび、胸の奥に見覚えのある言葉や、かつて耳にした声音が蘇る。
次の巻、さらに次の巻と手を伸ばし、貪るように目で追いかけていった。

――そして、気づく。
あの小さな探偵の正体が工藤新一として、ここに描かれていると。
胸の奥で、ずっと否定できずにいた仮説が、絵と文字して紙面に刻まれていた。
小さな探偵の鋭すぎる推理。大人びた言葉遣い。時折見せる、子どもには不似合いな表情。
彼と何度も接触する中で、何度も違和感を覚えた。薄々わかっていたが、それはあくまで推測であって、確証はないと思っていた。

……だが違った。
ここにははっきりと「事実」として描かれている。
人体を若返らせる薬。そんなものが存在するのか。現実離れした狂気じみた研究。彼が姿を変え、コナンとして生き続けていた理由は、それだったのか。
ページをめくる手が止まらない。理性は冷静を装おうとするが、心は否応なく揺さぶられる。

――こんなものまで“物語”に描かれているとは。

「……」

視線が止まった。呼吸も、止まった。
そこに描かれていたのは、決して忘れるはずのない男。
……スコッチ。忘れようとしても忘れられない光景が、紙の上に克明に刻まれていた。

"悪い降谷…奴らに俺が公安だとバレた…
逃げ場はもう…あの世しかないようだ…
じゃあな…ゼロ…"

ページの活字が脳裏に突き刺さった。
あの時、確かに自分の携帯に届いた通信。あの時の心臓を潰されたような衝撃を、片時も忘れたことはない。
助けるために全力で駆け抜けた階段。あと一歩、ほんの一歩で間に合うはずだった。
――そう、思っていた。あいつは仲間や家族を守るために、自分で引金に親指をかけスマホを撃った。あいつに自分の拳銃を渡し、そうさせたのは赤井秀一。あれほどの男なら、自決させない道をいくらでも選択できただろうに、なぜそうしなかったのか。
数えきれないほど憎んだ。それが、ずっと信じていた真実だった。

「……っ」

視界が揺らぎ、耳鳴りが広がる。
憎悪の拠り所にしてきた赤井秀一。その存在を恨み、公安とFBIは交わらないと心に言い聞かせてきた。
だがそれは、すべて自分が作り上げた虚像にすぎなかったというのか。

憎悪をぶつける相手は彼ではなく――自分。
あの時、もし足音を立てなければ。一言、声をあげていたなら。もう少し賢い方法を選んでいたなら。ヒロはまだ……、生きていたかもしれないと。

「自分の……せい、だった……?」

吐き出した声は掠れていた。
指先が冷たく震え、ページを握り潰しそうになる。張り巡らせてきた憎しみも、正義の理屈も、すべてが崩れ落ちる。
残されたのは、取り返しのつかない罪悪感と、どうしようもなく醜い自分自身だけ。
目を閉じても浮かぶのは、あの穏やかな笑み。たまに見せる茶目っ気。ふざけて頭を小突き合ったあの日々。どうして、もっと早く気づけなかったか。どうして。
――そのとき、耳元でふと知らない声が差し込んできた。

「お客様……大丈夫ですか?あの、すみませんもう閉店時間でして…」

ハッと顔を上げる。
視界に映るのは、心配そうに覗き込む書店員。蛍光灯の光に照らされたその表情が、現実と虚構の境界を強引に引き戻してくる。

「……ああ、すみません。少し、読み込んでしまって」

そう言いながら、手に持った本を棚に戻した。
自分でも驚くほど掠れた声だった。しかし、店員は安心したように小さく笑みを返す。
胸の奥に渦巻く混乱を隠すように、むりやり口を開いた。

「……この漫画……人気があるんですか?」
「え?…ええ、もちろんです。今や国民的人気ですよ。私も大ファンです」
「……そうですか」

唇の端に笑みを作った。だがそれは感情を伴わない、ただの形。
誰もが気軽に楽しむ物語。そのページの中に、自分の過去も、仲間の死も、血と涙も閉じ込められているというのに――。
店員が不思議そうに自分を眺めていたが、軽く頭を下げるとそのまま書店を後にした。

外に出れば、雨。
容赦なく降り注ぎ、背中を濡らし、髪を叩き、体温を削いでいく。
それでも、しばらくその中に立ち尽くすしかなかった。



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