21


病院のレジデント室で、私はページをめくり続けていた。
机の上に置いた「名探偵コナン」の単行本。何度も、何度も、同じ場面を読んでは閉じ、また開き、同じコマに目を落とす。物語の中で私が引き込まれたあの瞬間。そこから現実へ戻った場面までを、行き来するように読み返していた。
昨日、天沢くんが「コナンを終わらせる」と言ってから、新しい話は一度も入稿されていない。
——本当に、終わってしまったのだろうか。それとも、何か予期せぬ“良くないこと”が起こっているのか。
どちらにしても、私のせいなのは間違いない。胸の奥が締め付けられ、息が浅くなる。活字の黒が、妙に重く目に刺さった。

ふと窓の外に視線を向けると、夜の街に雨が降り始めていた。外灯に照らされて、無数の粒が白い筋になって落ちていく。私の気分を、そのまま外の空が映しているみたいだ。
憂鬱で、止めようもなく降り続く雨。晴れる気配はどこにもなく、ただ静かに、けれど容赦なく世界を濡らしていく。

視線を時計に向けると、針は7時を指そうとしていた。そろそろ手術の立ち会いに行かなくてはならない時間だ。安室さんのことが気になって仕方ないのに、日常は変わらず進んでいく。その変わらなさが、かえって息苦しい。
椅子から腰を浮かせかけたとき、机の上のスマホが小刻みに震えた。画面には天沢くんの名前。何か分かったのかもしれない——そんな一縷の期待で、反射的に通話ボタンを押した。

『…りかさん。今、少し大丈夫ですか?』
「うん、大丈夫。何かわかった?」
『あの…いや、変なことじゃないんですけど、ちょっと妙で』
「…妙?」
『はい。昨日からずっと調べてたんですが……』

一瞬、言葉が途切れる。
背後で雨が打ちつけるような音がして、天沢くんが屋外にいるのが分かった。

「もしかして、まだ外にいるの?」
『はい。あの作業部屋いるとなんだか落ち着かなくて。誰もいないはずなのに、視線を感じるというか』
「視線…?」
『は、はい。たぶん、僕の気のせいだとは
思います。それより——』

少し間を置き、天沢くんは低く続けた。

『パソコンは異常なしでした。サーバーも問題なく、原因不明だそうです』

昨日、突然真っ白になったパソコンを修理に出してくれていた天沢くん。その結果が「異常なし」だという。まるで、はじめから何も起きていなかったかのように。

『新しいの、買った方がいいですかね?』
「そうだね……」

パソコンが原因でないとしたら、やはり“あの世界”の中で何かが起きているとしか思えない。
けれど、こちらから確かめる術はもうないし…。

『りかさん、変わったことはないですか?』
「……ううん。今、病院だよ」
『僕は作業場にいるのが怖いので…先生が戻れば帰ります』
「うん、そっか。そうしてね」

お礼を言って電話を切ると、深く息を吐いた。胸の奥に沈む、重たい石のような不安。
そこへ、レジデント室のドアがノックされ、看護師が顔を覗かせた。

「宮間先生、3番手術室へ」
「…すぐ行きます」

目の前のパソコンの電源を落とし、立ち上がる。今は、目の前の患者に集中しなければ。







手術用のマスクと帽子を装着し、流し台の前に立った。専用ブラシを手に取り、指の一本一本を磨き始める。
けれど、頭の中は整理しきれない思いでいっぱいだった。

——今、あの世界はどうなっているのか。
——安室さんは、無事なのか。

「はぁ…」

小さなため息が、マスクの内側で熱を帯びてこもる。ブラシの動きが徐々に鈍り、最後の指に差しかかったところで完全に止まってしまった。
だめだ。このままじゃ、全く集中できない。
頭ではそんな場合じゃないと分かっているのに、心だけが別の場所を彷徨っている。
それに、最後に見た安室さんのあの表情——。見たこともないような顔をしてた。ショックを受けたに違いない。

「……っ」

小さく首を振って、意識を手元に戻す。
こんな状態で、手術の立ち会いなんて危ない。今だけでも気をしっかり持たないと。そう思っても、胸の奥のざわめきは消えなかった。

「……集中、集中」

小声で呟き、わざと強めに爪の間をブラシでこすった。
ふーっと息を吐き、視線を蛇口の先の水流に固定する。冷たさと熱さが同時に指先に残り、心の奥の緊張をじわりと締め付けた。

そのとき——背後で自動ドアが開く音がした。わずかな風が背中に触れ、ゆっくりと振り返ると、青木が立っていた。
いつもの軽薄そうな笑みを浮かべてはいるが、目の奥にどこか探るような色が見える。眉間に浅く刻まれた皺が、彼がただの雑談で来たわけではないことを物語っていた。

「……青木も今日一緒だっけ?」
「おまえさ、もしかして彼氏できた?」
「……ごめん。なんて?」

一瞬、耳がおかしくなったのかと思った。いや、鼓膜は無事だ。手もちゃんと動いている。
でも今この場で「彼氏」という単語が出てくる理由が、1ミリもわからない。手術前の雑談のつもりなのか、それとも私に何か重大な見落としがあるのか……。
いや、誰かに恋愛フラグなんて立てた覚えなんてない。

「いや、いま恋人だって言うやつが病院に来ててさ、お前を探してるんだよ」
「……恋人?私に?」

思わず聞き返すと、青木は片眉を上げて「そう」と短く頷く。その顔は、半分面白がっているようで、半分は本気のような、不思議なバランスだ。

「…名前は?」
「さあ?名前は言わず、『恋人だ』って言えば通じるからって」
「誰かと間違えたんじゃない?そもそも彼氏なんていないのにどうやって……」
「だよな。いなきゃ無理だよなー」

青木が肩をすくめて、わざとらしく納得したように言う。その軽さが逆に、妙な引っかかりを残した。

「酔っ払いかもな。ほら、手術前なんだから変なこと気にすんな。頑張れよ」

軽く片手をひらひらさせて、青木は背を向ける。
その背中が廊下の向こうに消えていく間、私はブラシを握ったまま固まっていた。

——恋人。
口の中でその言葉を転がすと、あり得ないはずのひとつの顔が浮かんだ。慌てて頭を振る。そんなはずない。首を左右に振って否定しても、脳裏にはミルクティー色の髪と、ブルーグレーの瞳が浮かび上がる。
でも、そんな都合のいい話があるわけない。いくら漫画の世界に入る経験をしたからって、私も現実をみないと。
ないない、と首を左右に振った。
けれど、それでも——。

「…ちがうに決まってる」

足先が、勝手にドアへ向かって動き出していた。
手術用のマスクと帽子を引き外しながら、「ただ確認するだけ」と自分に言い聞かせる。
深く息を吸うと、心臓の音が耳の奥でより大きくなった。外を見て、知らない人ならすぐ戻る。それだけだ。
指先でドアのセンサーをかすめると、空気を押し分けるように扉が開いた。夜の風がするりと入り込み、額の髪を揺らす。温度の低いその風が、緊張で熱を帯びた頬をすっと撫でた。

ドアの向こう、青木が立っていた。
その横に、背を向けた長身の男性。
病院の入り口の灯りに照らされ、広い肩のラインと、すっと伸びた背筋がくっきりと浮かび上がる。

「申し訳ありませんが、人違いだと思います」

青木が淡々とそう告げる。だが、その声に重なるように、私は咄嗟に口を開いていた。

「あ、あおき——!」

名前を呼ぶ自分の声が震えているのが分かった。背を向けた男性が、ゆっくりと振り返る。

——その瞬間、時が止まったようだった。
ブルーグレーの瞳が、真っ直ぐこちらを射抜く。視線が絡んだ瞬間、病院の外のざわめきがふっと遠ざかった。

——嘘。
胸の奥がぎゅっと縮まり、言葉が喉で止まる。驚きと信じられなさで、呼吸の仕方すら忘れてしまったようだった。手に持っていたマスクと帽子が、はらりと床に落ちる音だけが耳に届く。
彼が一歩、また一歩と近づいてくる。その動きに合わせて、髪がわずかに揺れ、瞳が光を受けてきらめいた。距離が縮まるたび、現実感が増し、胸の奥の熱が強くなる。
何も言えずに立ち尽くす私の手を、彼はすっと取った。その温もりが、指先から腕、そして胸の奥まで一気に広がる。

「……知り合い?」

青木の声が背後で聞こえたが、もう耳に入らない。固まる私の手を、彼はそのまま引いた。




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