22


足がもつれそうになりながら、私は彼に引かれて歩いた。急いでいるわけではないのに、彼の歩幅は自然と私の半歩先を行く。その背中を追いかけるたび、手の中の温もりが確かめるように強くなったり、ゆるんだりする。

「……あの」

小さく声をかけてみる。けれど、彼は振り返らず、そのまま足を進めた。もう一度、少しだけ声を大きくして呼びかける。

「安室さ——」

それでも返事はなく、廊下に響く靴音だけが一定のリズムで続く。
遠くから、ナースステーションの控えめな笑い声や、モニターの電子音がかすかに聞こえるが、私の意識はすべて彼の背中に吸い寄せられていた。沈黙が長く続くたび、胸の奥で言葉にならない不安がじわじわ膨らんでいく。

自動ドアを抜け、夜の空気に包まれる。
さっきまで降っていた雨の匂いが、外気と一緒に流れ込んでくるのがわかった。
そこからほんの数十歩、足元の砂利を踏む音が近づいたかと思うと、目の前に病院の中庭が広がった。昼間は患者や見舞い客で賑わうこの場所も、今は嘘のように静まり返っている。遠くにはビル群が夜空に輝いているのがみえる。
安室さんはそこでやっと足を止め、腕を放した。それからゆっくりと向き直り、私を正面から見つめる。月明かりに照らされたその顔は柔らかな笑みを浮かべているのに、瞳の奥は深く静かで、何かを測っているようだった。

「……お元気でしたか?」

低く穏やかな声が、夜の静けさに染み込む。

「…どう、して…」
「脱獄したあと、どうしても気になっていて。元気そうで良かったです」

不意に胸の奥がきゅっと締め付けられる。
どうしてだろう、あまりに普通の挨拶なのに、涙が滲みそうになるのは。

「わたし…もしかして、また引き込まれたんですか…?」

声が自分でも驚くほど小さく震えていた。

「いや、でも、ここは私の病院だし、青木もいるし……どういう……」

自分で問いを投げながら、状況の輪郭が掴めない。
視線を上げると、安室さんは一歩も動かず、ただ私を見つめていた。その沈黙が長く続いたかと思ったとき、彼はゆっくりと言葉を紡いだ。

「…僕が来ました。僕が…りかさんの住む世界に」

思わずひゅ、と息を呑んだ。
鼓動が一拍遅れて大きく跳ねる。
——来た?ここに?あなたが?
思考は言葉にならず、胸の奥で渦を巻くばかり。耳の奥で、自分の呼吸音がやけに大きく響いていた。

「ど……どうやって?」

かろうじて絞り出した声は、かすれてしまう。
安室さんはその問いにすぐには答えず、ふっと夜空へ視線を持ち上げた。雲の切れ間から覗く月光が頬を淡く照らし、金色の髪が風に揺れてきらめく。
その横顔を見ていると、まるで現実と夢の境界線を漂っているようで、足元の感覚が薄れていく。

「僕の世界が、静止してしまったんです」
「え……?」

安室さんの言葉の意味を理解しようとして、脳が拒むように空回りする。
思わず、私はまばたきを繰り返した。

「止まったんです。僕以外が、すべて」

その声には感情の波がほとんどなく、だからこそ現実味を帯びて聞こえた。

「だから僕は、そこから抜け出してきました。なぜ僕だけ無事だったのか、なぜ僕だけ動けたのか、まだ分かりませんが。…ですが、おそらく、僕が真実を知ってしまったからでしょうね」

ふっと口元に浮かぶ笑みは、形だけのもの。
瞳の奥には、押し込めた痛みが薄く滲んでいるのが見える。
夜風が二人の間を抜け、私の髪を軽く揺らす。けれど、その風の冷たさよりも、安室さんの言葉が残した重さのほうが、ずっと深く肌に貼りついて離れなかった。

「ごめ、んなさい……」

咄嗟に謝ることしかできない。
――私が…言ってしまったからだ。
あの時、何も言わずにいれば。沈黙を選んでいれば。でも私は、口を開き、彼に真実を渡してしまった。

「りかさんのせいじゃありません。僕の…問題なんです。さっき書店に行って、“名探偵コナン”を粗方読んできてしまいました」
「……え?」
「納得しました。なぜ、りかさんが僕のことを熟知していたのか。何年も僕を見てきた愛読者だったんですね」
「あ……安室さ——」

…あれを、読んでしまったというの?
慌てて否定しようとするけれど、言葉がもつれて何も話せない。

「僕がどれほど後悔してるか、わかりますか?……あのとき、りかさんの忠告に従っていればよかった。まさか、こんな真実が待っていたとは思ってもみませんでした」

表面だけ穏やな声だけど、その奥に大きな痛みが確かに存在していた。
胸の奥がざわりと波立つ。
あの時の会話、彼の表情、私の迷い。すべてが今この瞬間につながっている。

「…わ、わたし……」
「あなたの沈黙が、僕を守ろうとしていたものだったと、今になって分かりました。…それで、最後にお礼が言いたくて、ここまで来たんです」

その瞳は私を見ているのに、どこか遠く、過去の景色を見ているようだった。そこには、知ってしまった者だけが背負う影がある。
私は唇を噛みしめた。
——彼は、全てを知ってしまったのだ。コナンの正体も、親友の死も、黒の組織のことも、そして――自分自身の運命も。
そのきっかけを作ったのは…紛れもなく私。

「りかさん。最大限にできることをして、僕を気遣ってくださり、本当にありがとうございました。あなたはとても優しい人です。立派な医者になれますよ」

返したい言葉はいくつも浮かぶのに、どれも胸の奥で重く沈んで動かない。
そのとき、ポケットの中でスマホが震えた。
画面を確認すると、看護師からのメッセージ——“門川教授が来られました”とだけ短く表示されている。
《すぐに行きます》
指先で素早く返信し、スマホを握ったまま息を吐く。現実の仕事が、今この空間へ割り込んでくるなんて。

「気にせず、どうぞ行ってください。お忙しいときにすみません。僕なら大丈夫ですから」

安室さんの声は変わらず穏やかで、送り出すことに迷いはないように聞こえた。そのまま、ゆっくりと私に背を向けてしまう。
……でも、このまま行かせたら。この人は、もう二度と私の前には現れない。そんな予感が、背筋をかけ上がる。冷たい夜気のはずなのに、頬が熱く、呼吸が浅くなった。

「…ま、待って!」

自分でも驚くほど強い声が飛び出していた。
反射的に伸ばした手が、安室さんの腕を捉える。わずかに振り返った彼の瞳が、深い色を帯びて私を映した。

「……ど、どこに行くんですか?あの、ここで待っていてくれませんか?大きな手術じゃないので、すぐに終わるはずです。だから、何もしないでここにいてください。お願いです、私を保護者だと思って……」

一気にまくし立てるように口にしてしまって、思わず恥ずかしくなる。
けれど、安室さんは静かに私を見つめ、ふっと笑うだけだった。

「僕の真似をしているんですか?」
「……だ、だって、安室さん今は何もないじゃないですか。この世界じゃ、お金も家も身分証も。私はその大変さがわかります。……それでも、この世界では私は本当に医師だし、あなたほどじゃないけどお金も家もあって、だから……」

我ながら頼りない言葉だと思う。
それでも、今の私にできる最大限だった。
安室さんが一瞬、目を伏せる。そのわずかな沈黙に、不安がまたじわりと広がっていく。

「だ、だから、私が戻るまでここで待っていてください。お願いです、私の言うことを聞いてください」

祈るように言葉を重ねる。
足元のレンガの冷たさも、夜風の匂いも感じなくなるほど、意識は安室さんの返事だけを待っていた。

「……わかりました」

その了承の言葉に、ほっと息を吐く。
ようやく胸の奥の張り詰めた糸が少し緩み、掴んだ腕をそっと離した。

「よ、よかった…!40分くらいで終わると思うので、すぐに戻ります」

名残惜しいし心配だけど、時間がない。ちらりとスマホの時計を確認して、すぐに手術室へ向かおうと、一歩踏み出した。
けれど、そのとき。ふいに、手首をそっと包まれる。温かくて大きな掌。思わず振り返った瞬間、安室さんに引き寄せられた。足元がわずかによろけ、彼の胸の前で世界が止まる。

「あむろさん…?」

何が起こるのかもわからないまま、至近距離で見上げた彼の瞳は、月明かりを抱き込んだみたいにやわらかく輝いていた。
はあ、と息と一緒に声が零れる。
その一瞬、安室さんは目を細め——そして、どこかためらいを断ち切るように、私に唇をそっと重ねた。

「んっ……」

一瞬の驚きで瞬きをすると、安室さんは目を閉じたまま、ほんの少しだけ角度を変えて触れ直す。優しいのに、離れる気配はない。
——なにが、起こってるの?
混乱の波が胸の奥で泡立つ。その唇から伝わるのは切実さ。腰を抱く腕に、ほんのわずかに力がこもっている。まるで、どこにも行けない者が、やっと辿り着いた場所を離すまいとするように。
その震えに気づいた瞬間、胸の奥で何かがきゅっと締め付けられた。

「…あの…っ、あむろさん」

唇が離れた瞬間、かろうじて声を出す。
けれど、彼は穏やかに微笑み、静かに言った。

「名前で呼んでくれませんか」

低く落ちた声が、まだ高鳴る鼓動に混じって響く。

「……なまえ?」
「はい」
「と、とおるさん…?」
「違います。僕の“本当の名前”を。あなたは知っているはずでしょう」

その瞬間、胸の奥で何かがはっきりと音を立てて崩れ落ちた。
その名を呼ぶことが、どれほどの意味を持つか——私はよく知っている。
本来なら、誰にも明かしてはいけない名。それを、今この瞬間に私に求めるということは……彼がすでに何を捨て、何を背負い、ここに来ているのかを示していた。まるでその名に、もう守るべき価値も意味もなくなったと言っているようで、胸を締めつけられる。
それでも、瞳を逸らせない。まっすぐに向けられるその視線に、逃げ道がない。

「——零、さん」

そっと声に出した瞬間、胸の奥のざわめきが少しだけ大きくなった。彼の表情がわずかに緩み、そしてもう一度、今度は角度を変えてそっと唇が重なった。
理由も名前もつけられない感情が、ゆっくりと内側に広がっていく。今度は先ほどよりも少し長く、温度も深い。
——これは……なんだろう。唇が離れたとき、胸の奥に残ったのは、正体のわからない熱と鼓動だけだった。

「……なんで」

私は何か言おうとしたが、言葉は喉でほどけて消える。そんな私を見下ろす瞳は、少しだけ申し訳なさそうで。

「……止められなかったんです。こうしないと、離れられそうになくて。怒りましたか?」

低く落ちるその声に、胸の奥の小さな芽がまた揺れた。意味がわからないのに、心臓だけが熱を帯びていく。
私は息を呑み、ほんの一瞬だけ視線を泳がせた。けれど、看護師からの二度目の着信音が、現実へと引き戻す。

「あ…、ごめんなさい。今度こそ行かないと……。あの、ここで待っていてくださいね。何かあれば胸部外科の青木を訪ねてください。私の友人なので助けてくれるはずです」
「ああ、さっきの彼ですか。僕に無愛想でしたが、まさか彼氏ではないですよね?」
「かっ、彼氏はいないですっ!!」

息を詰まらせながら叫び、背を向ける。最後に見えたほんの一瞬、安室さんの瞼が名残惜しそうに揺れた気がした。
逃げるように走り出す足音の向こうから、彼のくぐもった笑い声が追いかけてくる。胸がいっぱいになって、顔が熱くなった。

——なぜ、キスなんてしたの?
——どうして、私はそれを受け入れたの?
頭の中で問いが渦巻くけれど、答えは出ない。
今までのキスとは違った何か。ただ、胸の奥で芽吹いたそれが、確かに残っていて。
ひとつだけ確かだったのは――安室さんの唇が触れた瞬間に伝わってきた"不安"——それがあまりにも大きくて、怖くなった。




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