23


「失礼しました…遅れて申し訳ありません…」

駆けつけた手術室では、すでに手術が始まっていた。教授の顔が見れず、静かに自分の位置へと着く。周りの看護師たちにも短く謝辞を述べ、マスクの中でそっと息を吐き出した。
胸の奥ではまだ、さっきの出来事が熱を持って残っている。あれは——何だったのだろう。気まぐれ?それとも…。
ほんの少し、いや、ほんの少しだけ「私だから」なのかもしれないという考えがよぎってしまう。
その熱を抱えたまま、一度静かに壁の掛け時計に視線を向けた。ちゃんと時間通りに手術は終わるだろうか…。

「…きっと、宮間りかという名前が物事をすべてダメにするんだ。俺が思うに、名前が問題だな。コナンも宮間りかの登場以来迷走してる。どこまで転がるのかね」
「は、はい…?」

唐突に響いた教授の声。それが自分に向けられていると気づくまで、ほんの数秒かかった。メスを扱いながら、静かに、それでいて鋭く毒を含ませた口調。
——責められている。確かに遅刻は私の落ち度だ。言い返す余地はない。
でも、「名前が問題」なんて言われると、胸の奥にしまっていたあの世界での出来事まで否定されたような気がして、じわじわと不快感が滲んでくる。

「もう1人の宮間りかも、この病院の落ちこぼれだしな。手術後に説教だな」
「……はい。申し訳ありません」

顔を上げたが、教授は冷静な表情のまま、淡々と手術を続けている。その目には怒りは見えない。怒鳴られるよりも、はるかに重い圧力があった。
私は、とにかく謝ることしかできなかった。




予想通り40分ほどで手術は終わった。終わりの合図と同時に、私は器具を下ろし、すぐさま退出するつもりで動く。
外には安室さんがいる。そう思うだけで、手術中何度も時計に視線が吸い寄せられてしまった。
帽子とマスクを外し、手洗い場へ向かおうとしたその時だった。

「おい、どこ行くんだ?終わったら説教だって言葉、忘れたか?」
「い、いえ……忘れていません」

背後からの声に、足が止まった。
教授の視線が背中に刺さる。
できるだけ柔らかい声を返したつもりだが、心の中では「今じゃなくてもいいでしょう」と叫びたかった。

「あの教授、申し訳ありません。外に人を待たせているんです……」

今回だけは見逃してと言わんばかりに、眉を下げた。私に非があるのはもちろん承知の上だ。

「こっちに来い」
「………はい」

——ですよね。反論の余地を与えない口調。願いも空しく、あっさり却下された。
渋々立ち位置を変えると、手術室の片隅で教授と向き合うことになった。周りでは、看護師たちが後片付けをしている。
こんなことをしている場合じゃないのに。そんな思いが、視線をまた時計へと吸い寄せる。

「はあ……。お前ってやつはもともと非常識だったが、俺が"コナン"のファンだと話したあとから目に余るようになった。父親の威光をかさに着て、怖い物知らずになったんだな」

その言葉に、自分の眉がぴくりと動くのがわかった。
父の名前を引き合いに出されるたび、どこか馬鹿にするような響きも混じっている気がして、なぜか心に引っかってしまう。

「ま、まさか。申し訳ありません……」

それでもぐっと堪えて謝罪を口にした。
ちらりと壁の時計に目をやる。
——早く行きたいのに。時計の針が一分進むたび、安室さんとの距離も少しずつ遠のいていくような気がして、胸が焦りでざわめく。

「おい、聞いてんのか?」
「は、はい!聞いてます!」

慌てて顔を下げて返事をするが、また視線が時計へ吸い寄せられてしまう。
安室さんがこの時間もまだそこにいる保証はない。なのに、教授の怒りのエネルギーが尽きることなんてないように思えて、時計の針ばかりが無情に動いていくのがつらい。

「この際だから言うがな。コナンのせいでここ最近ストレスがたまってるんだ。あの展開はなんだ?犯人捜しから恋愛漫画に変わったじゃないか」

今それを言う必要があるのか。遅刻の説教の延長にしては、ずいぶんと方向が飛んだなと思う。
今そんなことに付き合っている暇はないのに、そう思ったら口を閉ざすのが少し苦しくなってきた。

「……いけませんか?」

思わず本心がポロリとこぼれ出ていた。
自分でもやってしまったと思ったが、胸の奥をなぞった教授の“恋愛漫画”という一言が、反射的に声になってしまった。

「なんだと?」

止めた方がいい。これ以上は面倒になる。
頭ではそうわかっているのに、父や安室さんを馬鹿にするような響きに、黙ってなんかいられるはずがない。

「仕事ばかりするほうが非現実的じゃないですか?ヒーローも恋に落ちます。任務より恋を優先したい時があるかもしれないですよ?……安室透も人間ですから」

それは、半分は事実で、半分は——願望にも近い言葉だった。
彼がそうであってほしいと、心のどこかで祈るように思ってしまうのだ。
さっきの出来事が、ただの気まぐれや衝動でないと信じたかったのかもしれない。
根拠なんて何もないくせに、あの一瞬の温もりだけで、勝手に確信めいた感情が芽を出していた。

「お前、今、父親を貶されて怒ったか?」
「……違います」

たしかに父のことを言われれば腹は立つ。
でも今はそれ以上に、何も知らないくせに好き勝手に決めつける態度が、たまらなく癇に障った。

「あれは恋ではなく関心があるだけだろ?お前と同じ名前のクソ女に」
「恋ではないと断言する理由は?」
「おっと?」

気づけば、問い詰めるような口調になっていた。
教授の目がわずかに細くなる。
これ以上は自分が損するだけだ。そう分かっているのに、言葉が後戻りできない勢いでこぼれ出す。

「私は関心以上に見えましたよ?」
「いや、何も起きてないじゃないか。安室透が奴に告白でもするシーンでもあったか?ないだろ」
「必ず言葉に出さなければならないんですか?」

その言葉に、教授の口元にわずかな苛立ちの色が浮かんだ。
でも、もう引き返せない。自分の中で、何かの糸がきしむような音を立てて限界に近づいている。

「じゃあ、なにで分かるというんだ?」
「……私は知ってますが、言いません」

思わずふん、とそっぽを向いてしまう。
それを口にした瞬間、胸の奥で何かがプツリと切れてしまった。

「もしかしてそれ……ネタバレだろ?!父親から聞いたんだろ?まさか安室透とクソ女がくっつくってやつか?!ああああ、ダメだ破茶滅茶すぎる!ぜったいにダメだ!」
「別に破茶滅茶じゃありません!」

声が思ったより大きく響いた。
看護師たちも、私が言い返すとは思っていなかったのだろう。手を止めてこちらを観察している。
でも、もう止まれない。

「普通の流れなら梓ちゃんとだろ?」
「なぜですか?なぜ梓さんと?」
「バイト仲間で、女性だといちばん安室透に近い人物だろ?当然だ」
「いちばん近いところにいる人と必ず恋愛しなければいけないんですか?そんな決まりが?安室透の気持ちは?なぜ梓さんが好きだと?」

私の堪忍袋の緒は完全に切れていた。
矢継ぎなしに反論する私に、教授が目を点にして固まる。
梓さんや物語を否定したいわけじゃない。でも——あの瞬間を勝手に塗り替えられるのは、我慢ならなかったのだ。

「そ、そんなもん言葉にしなくても分かるだろ!何も言わなくてもそういう結末だって決まってる!」
「人の感情は複雑です。何も知らないくせに勝手な解釈をしないでください……!」
「解釈もなにも、それが事実だ!少なくとも宮間りかとは結ばれないな!!」
「そうとは限らないじゃないですか!安室透が私を好きな可能性だって……!!」

そこまで言って、しまったとばかりに両手で口を閉ざした。
手術室が凍りついたように静まり返る。誰もが息を呑んで、私を見ている。照明の下、マスク越しの視線が一斉に突き刺さった。

……い、言ってしまった。
そこまで言うつもりはなかったのに。
胸の奥が一気に熱くなる。こんな場で、なにをムキになって。
冷たい汗が背中をつたう。

「お前だと?」
「い、いえ……」

思わず首を振った。

「おまえ?」
「ち、違います……っ、私と同姓同名のキャラクターです……!」

教授の声が追い打ちをかける。
つい口から出てしまった言葉が、こんなに皆を静かにさせてしまうとは思わなかった。
…安室さんのせいだ。あのキスを思い出せば、誰だってそう信じたくなってしまう。あれが気まぐれだとしても、私の勘違いだとしても。

「お前は……うちの娘とレベルが一緒だな。思春期の中学生でアイドルの追っかけをしてるんだが、何なら紹介してやろうか?お前ら2人、意気投合するだろうな」
「え、遠慮します……」
「なぜだ?親友になれるだろうに」
「きょ、教授……急ぎの用事があるので、お叱りの続きはまた今度でもいいですか?」

必死に逃げ道を作ろうとするも、なかなか逃がしてもらえない。
私の状況を何も知らない人から見ると、厨二病めいたことを口走ってしまったかもしれない。皆の視線が痛い。
それに、安室さんを外で待たせている。

「口答えばかりするな」
「も、申し訳ありません……っ!!」

手術室を飛び出した。それはもう全力疾走だ。
教授の怒った声が待ったをかけるが、構ってなんかいられない。
今度またいくらでも相手をするから、今日だけは見逃して欲しかった。

足を早め、階段を駆け降りながら、頭の中では安室さんの顔を思い浮かべていた。
…早く、早く、会いたい。足が自然に加速する。
自動ドアを開け、安室さんが待っている中庭を目指して走り出した。あの笑顔が待っていると思うだけで、疲れも吹き飛ぶ気がした。

──けれど。そこに安室さんはいなかった。
一瞬、立ち止まる。
目の前に広がる空間に、安室さんの姿はない。ベンチには誰も座っていないし、ビルの灯りだけが輝く。周りに人がいるけれど、安室さんはどこにも見当たらない。

「え……?」

目の前が一瞬、真っ白になった。
足が止まったままで、体全体が重くなったような気がする。目を凝らしてもう一度周囲を見回すけれど、彼の姿はどこにもない。

「……どうして?」

つぶやいたその声が、自分でも冷たく響いた気がして立ち尽くした。
スマホを取り出しても、画面に表示されるのはただの着信履歴だけ。誰からも連絡はない。
どこへ行ったの。ここにいてって言ったのに……。
病院中を隈なく探すが見つからない。青木にも聞いたが、あれから見かけてないという。
安室さんに何かあったんじゃないか、そんな考えが頭をよぎる。元の世界に、戻ったのだろうか。"最後のお礼"だと、安室さんは言っていた。私が現実世界へと帰るように、安室さんも突然向こうへ帰ることになってしまったのだろうか。

私は目の前の現実にしばらく動けずにいた。安室さんを見つけられなかったことに、自分でも驚くくらい動揺していた。
父へと電話をかけるが、やはり繋がらない。代わりに、"今どこ?"とメッセージを送った。
安室さんは無事なのか。その問いが頭の中でぐるぐると回り続け、心の中の不安がどんどん膨らんでいった。



前へ   次へ


目次へ戻る

Back to top

total - 103362 hit