24
side: Father
久しぶりに帰ってきた自宅は、妙にひんやりとしていた。まるで、誰もいないことを確かめるように、冷たい空気が部屋の隅々まで満ちている。
窓を開けると、外の空気が流れ込み、室内のよどんだ空気とぶつかり合った。少し湿っぽい。しばらく換気をしていなかったせいだろう。
「……疲れた」
呟くように吐き出しながら、ジャケットを椅子に放り、無造作にかばんを床へ置く。喉の渇きを覚えて、蛇口をひねった。冷たい水がコップを満たし、その一口目を流し込んだ瞬間、ふと気がついた。
――スマホの電源を切ったままだった。ポケットから取り出し、充電コードを挿す。しばらくすると画面が明るくなり、通知音が鳴り始めた。連続する着信履歴と、メッセージの山に眉をひそめる。
こんなに?何があった…?最初に目に入ったのは、アシスタントの天沢からのメッセージだった。
> 「先生どうしましょう。りかさんがまた漫画の中に」
指が止まる。……また?どういうことだ? "また" とは?胸の奥に嫌な予感が広がる。急いで編集部からのメッセージを開いた。
> 「送られた原稿は修正稿でしょうか?内容がちょっと変でして」
背筋がぞわりとする。変?原稿が?俺は何も送っていないのに?
さらに天沢からの追加メッセージ。
> 「先生、まだご覧になってないですか?りかさんは無事ですが、『コナン』は収拾不能です。連絡待ってます」
手のひらにじんわりと汗が滲んだ。そして、最後の通知。娘からのメッセージが目に入った。
> 「お父さん、今どこ?」
心臓が跳ねた。この短い言葉に、妙な焦りが滲んでいる。悪い予感しかしない。
震える手でスマホを持ち直し、娘に電話をかけようとした。そのときだった。
――ピンポーン。玄関のチャイムが鳴った。耳鳴りがするほどの沈黙の中で、鼓動の音だけがやけに大きく響いた。
誰だ、こんな時間に――。恐る恐る立ち上がり、玄関へ向かう。ドアの向こうに人の気配がした。異様な気配に、胸騒ぎがする。そっとドアノブに手をかけ、鍵を外す。そして、扉を開けた。
――その瞬間、息が詰まった。
心臓の鼓動が耳の奥で鳴り響き、頭が揺れるようにくらくらする。
……ありえない。こんなこと、ありえない。金髪が室内灯に照らされて柔らかく光る。淡く微笑む唇。けれど、その瞳の奥には探るような冷ややかさがあった。
そこに立っていたのは、俺が作ったはずのキャラクター ――安室透だったのだ。
「宮間ノリヤ先生?」
聞き慣れた声のはずなのに、心臓が跳ねた。声を発する前に、手にしていたグラスが指から滑り落ちる。ガシャンと甲高い音が響き、水が床へ広がった。
「やっぱりあなたでしたね」
安室透は、スッと一歩踏み込んできた。まるで逃げ道をふさぐかのように。後ずさろうとしたが、足がもつれて動けない。
「僕たち、会ったことがあるはずですが――覚えてらっしゃいますか?」
"覚えていないわけがない" あの夜のことを。
絶望に駆られ、焦りで頭が真っ白になる。漫画の世界で生きるはずのこいつが、なぜここにいるんだ。
「こちらで話をしましょう」
安室透は部屋の中を見渡し、無言で椅子を指さした。
「積もる話も多いはずですから」
「……どうやって……」
ようやく絞り出した自分の声は、驚くほどか細かった。
「どうやってここまで来たか、ですか?」
安室透の唇がわずかに歪む。
「それは――僕を作ったあなたに説明してもらえますか?」
まるで、底なしの穴に突き落とされるようだった。——この男は、怒っている。
なぜ?どうしてこんなことになった?脳が理解を拒み、拒絶反応のように恐怖が込み上げる。その恐怖から、俺は衝動的に安室透に飛びかかろうとした。しかし、すぐに体が宙を舞い、ドンッと床に叩きつけられる。
「……無茶をする」
冷静な声が耳元で響く。腕をねじられ、床に押さえつけられた。…それはそうだと納得した。自分が彼を強く強く設定して作ったのだから、敵うはずがない。
「娘さんに感謝してください」
「……娘?」
「手加減しているんです。あなたが僕を殺そうとするたびに、彼女が救ってくれましたから」
こいつは俺の家を探しあてただけでなく、りかが俺の娘だということまで突き止めたというのか…?
抵抗するのは得策じゃないと、大人しく立ち上がる。今度こそ椅子に座った。安室透は冷ややかに俺を見下ろしている。
「なぜだ……なぜここまで来た……」
「あなたが一番分かっているんじゃないですか?…あの夜、最初に僕が掴んで漫画の世界へ引き込んだのは、りかさんではなかったと」
その一言で、全身の血が逆流した。指先が震える。
「……あなただったんです」
心臓を素手で掴まれたような感覚が襲った。喉がひゅっと鳴り、呼吸が乱れた。まさか、覚えていたというのか…?思い出したくない記憶が、不意に脳裏をよぎる。安室透は静かに続けた。
「大怪我をして助けを呼んでほしいという僕に、あなたはその場に転がったナイフを持ち、トドメを刺そうとしましたよね?」
息を呑む。まるで今度は自分が冷たい刃物を突きつけられたようだった。
忘れたくても、忘れられない__。あの時の、自分の手の感触。ナイフの冷たさ。震える刃先。安室透の、苦痛に歪んだ顔。床に広がる血の匂い。
あの時と同じ、喉が詰まるような恐怖を感じた。頭の奥が焼けつくように熱くなり、身体が動かない。
「最後の力を振り絞ってあなたに抵抗しましたが、そのせいで僕は深傷を負いました。…あなたが逃げたその後、娘さんが来て助けてくれましたが」
安室透の言葉が、心に杭を打ち込むように響いた。
「ここに来るまでにあなたを調べました。とても有名なので、家を調べるのも簡単でしたよ」
ゆっくりと、目線が上がる。安室透の瞳がわずかに細められた。その一瞬、まるで底なしの暗闇がのぞいたような気がした。
「……僕を殺したい理由はなんですか?」
その問いが、鋭い針のように胸に突き刺さる。答えなければならない。けれど、どうやって?何を言えばいい?なぜ殺そうとしたのか?その理由を彼本人に…?
「答えられませんか?…娘さんがこれ以上あちらの世界に巻き込まれないためにも、黙秘を続ける訳にはいかないはずですが」
安室透の声は冷静で、しかしどこか苛立ちがにじんでいた。自分は震える指を握りしめることしかできない。
「あなたが僕を殺そうとした気まぐれから、物語がねじれてしまった。当初予定していた結末を描く必要があります。…僕の仲間たちがあちらに残されている。止まった世界のまま、放っておけない」
目の前に立つ彼は、紙の上の存在でしかなかったはずなのに。瞳の奥に強い意志を宿し、呼吸をしている。けれど、その強い意志を持たせたのは他ならぬ自分だった。
「……描けないんだ」
「なぜですか?」
「俺は何も描けない。結末さえ決められず、お前たちが納得しないと内容が変わり続けるからだ」
「……どういうことですか?」
安室透の眉がわずかに動く。その反応に、喉がひどく乾いた。震えながらも一度目を閉じ、そして、思い出す…。
「……異変に気がついたのは、ある朝だった」
__昨夜、確かに描いたはずの原稿の内容が、変わっていた。最初はただの思い違いだと思った。疲れていて、無意識のうちに手を入れたのかもしれない。気のせいだろうと。
しかし、同じことが立て続けに起きた。キャラクターの表情が微妙に違っている。セリフが書き換えられている。ストーリーの展開すら、意図しない方向へ進んでいる。
最初は自分の頭がどうにかなったのかと思い、病院に通った。薬も飲んだ。だが、何も変わらない。むしろ悪化していった。友人に相談しても、「疲れてるんじゃないか?」と笑われるばかりで、誰にも信じて貰えなかった。
しかし、何度確かめようと、描いた覚えのない絵が勝手に仕上がっている。自分が書いたはずのセリフが、まるでキャラクター自身が話しているかのように塗り変えられている。
…それが、気のせいなんかではないと気づくのに、時間はかからなかった。そう——それは全部、安室透を描いたときにだけ起こったのだ。
——安室透はいつの間にか、知性を持ち、自ら物語を作り変えていた。
恐ろしくなった。筆を折り、逃げ出そうとした。けれどダメだった。ここまで何十年も描き続けてきた努力を考えると、簡単に辞められなかった。
しかし、精神的には限界だった。眠るたび悪夢を見た。安室透に責め立てられる夢…。歪んだ笑みを浮かべ、創造主であるはずの自分を見下してくる夢…。
それでも、"コナン"を完結させさえすれば、この悪夢は終わる。そう信じて、なんとかペンを握り続けた。
——だが、甘かった。
知性を持ってしまったのは、安室透だけではなかったのだ。他のキャラクターたちも、彼に引きずられるように自我を持ち始めた。次第に絵が変わり、内容も勝手に進み始めた。自分が描いた物語が、自分の手を離れ、暴走していく。このままでは、本当に収拾がつかなくなる——。
焦った俺は、すべてを終わらせるために、安室透を殺そうとした。最初のバグを正せば解決するだろう。ただの漫画のキャラクターなのだから、殺しても問題ないはずだ。…そう思った。
それなのに、「コナン」の世界が存在していて、安室透がこうして自分の家まで訪ねてくるなんて、誰が考えついただろうか…?
「失敗だった」
__絞り出すような声が、静まり返った部屋に落ちた。自分の声なのに、まるで他人が喉元から掠め取ったような、感情の抜け落ちた響きだった。
「お前に類い稀ない知性を与えてしまった……俺の責任だ。そのせいでお前は現実の世界にまで気づいてしまった。それどころか、娘まで巻き込んで、俺の前に現れたんだ!!」
最後の言葉は怒鳴り声になっていた。怒りのあまり、拳を握りしめる。爪が手のひらに食い込み、鋭い痛みが走る。それでも力を緩めることができなかった。
「これ以上勝手に物語を進めるな!!」
だが、その叫びに対し、安室透は微動だにしなかった。感情を抑え込もうとしているのか、それとも冷静な怒りを深めたのか——その目が何を映しているのか、俺には分からない。ただ、背筋が凍るような寒気が広がる。
「……あなたが始めた物語だ、あなたにだって責任はある」
静かな声だった。だが、その言葉には鋭い刃のような重みがあった。
「生きている僕を見たのに、それでも平気で殺そうとした」
「お前を殺せるなら、なんでも良かったんだ!!」
言葉が、喉の奥から飛び出した瞬間、後悔が首を絞めるように襲いかかってくる。だが、もう遅い。
安室透は深く息を吐いた。怒りを押し殺すような、長い、重い息だった。
「…僕の怒りを買う前に、早く約束してください。理由はなんでもいい。絵を描いて、元どおりの世界にしろ」
静かだった。けれど、その低く冷え切った声は、張り詰めた刃物のように鋭く響いた。
「……僕を刺した犯人の顔も描いて、りかさんの冤罪も晴らせ」
「……いない」
言った瞬間、安室透の眉がぴくりと動いた。
「なんだと?」
「犯人はいない」
「そんな馬鹿な話があるとでも?」
「お前を殺せるなら、なんでも良かった!犯人を考えてもいない!!」
静寂が落ちた。安室透の表情が、凍りつく。いや、それ以上に——何かが崩れていくようだった。
「そんな……思いつき一つで、僕を殺そうとしたんですか……?」
震えた声が、耳に突き刺さる。
「……僕の友人たちを皆殺しにしておきながら、あなたは僕にこれ以上何を苦しめと?……それなのに、犯人がいない?」
その瞳には、信じられないものを見るような色があった。
「こんな事が無ければあなたはずっと描き続けたでしょうね。僕はそうとも知らずに毎日犯人を捕まえる為に悪戦苦闘して…捕まえるために戦って、傷を負って、苦しんで、同じ事を反復して。…僕が何を経験してきたか知っていますか?」
「すまないが、漫画家はそれが仕事だ!フィクションを描くのが……」
「いいえ、あなたは漫画家ではありません。生きている僕を、平気で殺そうとしたんです。人殺し同然だ」
安室透が、俺を見据えた。その目の色は、冷たい絶望と怒りに染まっていた。心臓が痛いほど跳ね、息が詰まる。もう俺は言葉を返せなかった。沈黙が、重く、重く、のしかかる。
「……とりあえず、なんでもいいから方法を考えてください」
「できないんだ。…もう描けない。主導権が完全に俺の手から離れてしまった。今のままでは"コナン"は収拾不能だ」
安室透の目から、光が消えた。崩れ落ちるように、全ての感情が抜け落ちていくのが分かった。
「……方法はないと?」
「ない」
そう、俺ができることはもう何もない。
看護師に安室透を毒殺させようとしたが最後、ペンを握っても、何も描けなくなった。俺が一番恐れていたことが起きたのだ。あの世界が独りでに動き出してしまった__。
それで怖くて逃げ出した。なのに、娘がまた巻き込まれることになるとは思いもしなかった…!
「……笑えない冗談ですね」
冗談ならどれほど良かっただろう。もうなす術がないというのに。
睨みつけるような安室透の視線が突き刺さった。瞳が鋭く細められ、唇がひきつるように歪んでいる。
「それで?」
安室透は静かに訊いた。
「だから、"もう終わり"だと?」
「……他にどうしろって言うんだ」
その瞬間、目の前の景色が揺れた。安室透が、俺の襟ぐりを掴んで引き寄せた。苦しさはないが、彼の手がかすかに震えているのを感じる。俺は言葉が出せなかった。
「あなたが逃げ出したから、僕はこうしてここまできた」
低く冷たい声だった。
「あなたがはじめた物語だ。"あなたの手"を離れた? だからどうしたっていうんです?僕たちはあそこで生きているのに、あなたの都合で勝手に終わらせるな」
冷たい瞳が俺を射抜いた。低く囁くような声。それは、まるで宣戦布告のようだった。
「あなたが"描けない"のなら——僕が、終わらせます」
その言葉に、心の奥底がざわりと波立った。ぞくりと背筋を駆け抜ける戦慄。咄嗟に口をついて出たのは、理性を失った叫び。
「やめろ……お前は――虚像だ!ただのキャラクターなんだ!!」
自分でも、それが何の意味も持たない言葉だと分かっていた。ただ、怖かった。目の前のこいつが、本当にこの世界を壊してしまう気がして。
だが、安室透はその言葉に眉ひとつ動かさず、むしろ、静かに目を細めた。
「……その“虚像”が、こうしてここまで来た」
「……」
「現実かどうかを決めるのは、あなたじゃない。――僕自身だ」
「……!」
背筋が凍った。安室透は、まるで"何か"を決意した顔をしていた。ポケットに手を入れ、そこから、黒く鈍い光を放つ"何か"を取り出す。それが何かを理解した瞬間、俺の心臓が跳ね上がった。
「僕が"僕自身"を終わらせる」
カチリ、と硬質な音が響いた。
俺は——息をすることすら、忘れていた。
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