25
1ヶ月が経った。こちらの世界でも夏に向け本格的に暑くなり始めた。
街路樹の青葉が陽射しを跳ね返し、アスファルトの隙間からは雑草が力強く伸びている。病院の白衣も、じっとりと肌に張り付くようになってきた。
それでも日々の業務は待ってはくれない。研修医としての仕事は、想像以上に忙しい。患者のカルテを確認し、先輩医師に指示を仰ぎ、処置室と病棟を行ったり来たりする。気を抜く暇もなく、次々と押し寄せる課題をこなしていく毎日。
昼休み、紙コップのアイスティーを片手に自販機の前で立っていると、背後から青木が現れた。
「おい、また廊下でキョロキョロしてんな」
「……してない」
「いや、してるな。エレベーター開くたびに反応してるし、誰か探してんのか?」
思わず手に持った紙コップを見つめる。
氷が小さく音を立て、じわりと溶けていく。
「……ただ、患者さんや知り合いに会うかもしれないって思っただけ」
「ふーん。ま、誰探してるかは聞かないけどさ」
そう言いながら、青木は笑って缶コーヒーを開けた。その軽い口調が、余計に胸に刺さる。
けれど——彼の言葉は正しい。あの日から、私はずっと安室さんを探していた。
あの日、安室さんはいなくなった。町中を歩き回り、防犯カメラに映る場所を調べ、警察に行方不明者の届けを出そうとまでした。けれど、どこにも痕跡はない。誰も、安室さんのことを知らなかった。
まるで最初から存在しなかったかのように——。
「……いるわけないのに」
自販機の前で小さく息を吐く。
黒いワイシャツの背中や、金色の髪が視界に入るたびに、一瞬だけ心臓が跳ねる。けれど振り返れば、それは全然違う人で。その繰り返しに、もう慣れてしまった自分が嫌になる。
そして——私は、安室さんが漫画の世界へ帰ったのだと考えることにした。現実に生きているなら、必ずどこかに痕跡が残る。防犯カメラに映るし、誰かの記憶に引っかかる。けれど、彼の証拠は何ひとつ残されていない。
それなら、きっと安室さんは元の世界に戻ったんだ。そう思うことにした。…思わなければ、やっていけないから。
「青木先生、宮間先生、急患入りました!処置室へ!」
ナースステーションから声が飛んでくる。
「あっ、はい…!」
深く息を吸い込む。
今は、目の前の仕事に集中しなければならない。私は、私の日常を生きるしかないのだから。
握りしめていた紙コップをゴミ箱に捨て、足を踏み出した瞬間、ガラス越しに見えた金色の光が胸を一瞬ざわつかせた。
でも、振り返った先にはもう何もない。
——気のせいだ。
そう自分に言い聞かせ、私は駆け出した。
*
安室さんがいなくなった日、父は戻ってきていた。それまでずっと家を空けていたのに、まるで何かから解放されたかのように、ふらりと帰ってきた。
「…しばらく、休暇をもらうことにした」
父はそう言って、自分の部屋に籠もるようになった。漫画を描くことはなくなり、仕事も休止し、ただ静かに時間をやり過ごしている。編集部からの催促もあったはずだが、今の父に応じる余裕はないようだった。
あの日から、父の目はどこか虚ろだった。
「……お父さん」
ある日の夜、私は思い切って話しかけた。
父は居間のソファに座り、テレビもつけずにじっと窓の外を見ていた。もう夜だというのに、カーテンすら閉めていない。外に見える大きな隅田川がビルの灯りに照らされ、揺れていた。
「なにか、知ってるんでしょう?」
私の問いに、父はすぐに反応しなかった。まるで私の声が遠くの出来事のように聞こえているかのように、ぼんやりとした顔をしている。
「……何が?」
ようやく返ってきた声は、ひどくかすれていた。
「安室透のこと」
その名前を出した瞬間、父の肩が微かに揺れた。父は目を閉じ、深く息を吐いた。そして、ゆっくりと首を振る。
「……もういいんだ」
指先でそっと自分の額を押さえ、静かに呟いた。そう言った父の声は、何かに怯えているようだった。
「お父さん……?」
父はもう、何も答えなかった。
ただ、空っぽの目で、ずっと窓の外を見つめていた。
父との会話を思い出しながら、私は天沢くんと一緒に父の作業部屋の片付けをしていた。
父が漫画を描かなくなってから、この部屋はずっと手つかずのままだった。机の上には資料やスケッチブックが散乱し、ペンやノートもそのまま。まるで時間が止まってしまったみたいに、何も変わっていない。
私は机の前の椅子に腰掛け、電源を入れる。パソコンが低い駆動音を立てたかと思うと、すぐに真っ白な画面が映し出される。それだけ。何も変わらない。何も映らない。まるで、ここには何も存在しないと言わんばかりに、そこにはただ白い光が広がっているだけ。
「……やっぱり、何も映らないね」
私は呟き、画面にそっと手を伸ばした。指先が白い光に触れる。だが、そこには何の手応えもない。ただの、虚無だった。
「はい……。漫画のデータが全部消えちゃったんじゃないかって思いましたけど、そうでもないみたいです。ただ、開くことができません」
私はゆっくりと手を引き、膝の上で握りしめた。
"コナン"の世界がどうなったのか、安室さんがどうなったのか——そこに答えはない。
「ねえ、天沢くん」
「はい?」
少し躊躇ってから、私は天沢くんの方を向いた。
「やっぱり……安室透は漫画の中に戻ったのかな。漫画のキャラクターだし……」
天沢くんは私の言葉を聞くと、一瞬考えるように視線を落とした。
「……さあ……僕にもわかりません」
天沢くんの声は静かだったけど、どこか寂しさを含んでいるようにも聞こえた。
私たちは知っている。安室透はただのキャラクターではないことを。意志を持ち、感情を持ち、自らの世界の"外"にまで影響を及ぼした存在だった。
だからこそ、彼がただ「元の場所へ戻った」と簡単に言い切ることはできなかった。私はパソコンの白い画面を見つめながら、ぽつりと呟く。
「漫画が"終"になると、どうなるの?」
天沢くんは、私の横顔をじっと見つめていた。
「その世界は、そこで終わるの?それとも……暮らしは続いていくの?」
天沢くんは答えてくれなかった。
だが、それは何も考えていないからではなく、言葉を慎重に選んでいるからだとわかる。
「童話の終わりって、いつも同じだよね。"いつまでも幸せに暮らしました" って」
私は、そっと膝の上で手を握りしめる。
「でも……本当にずっと幸せに暮らしたのかな?」
言葉にして初めて、その問いがどこへ向かっているのか、自分でも気づいた。
「それとも、それが童話の最後のページだから、そこで暮らしが止まったのかな?」
安室透がどうなったのか、本当のところは誰にもわからない。彼が漫画の中へ帰ったのか、それとも消えてしまったのか。
もし、あの世界が"終わった"のだとしたら。安室透はあの世界に一人取り残されているのではないか。
「終わったあとが気になるの……」
今も停止した世界を彷徨っているのかな。終わりのない時間を独り寂しく……。それとも、元の生活に戻ることができたのかな。
そう考えた瞬間、胸の奥が締めつけられる。そんな残酷な孤独の中に、彼が取り残されているなんて。
私は小さく首を振った。白い光しか映さない画面を見つめながら、心のどこかで必死に願っている。
どうか、あの人には生きていてほしい。私の知らないどこかで、静かに、穏やかに、笑っていてほしい。もしもう二度と消息がわからなくなったとしても、漫画の中に帰ってしまったのだとしても……彼という人が、ちゃんと“生きている”場所があってほしい。
——幸せでいてほしいんだ。
それはもう、読者の願望ではなく、ただひとりの人間として彼を知ってしまった私自身の祈りだった。
私は静かに息を吐き、もう一度パソコンの画面に目を落とした。白い光が、ただ無機質にそこにあるだけだった。
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