26


それからさらに1ヶ月が経ち、本格的な夏がやってきた。
窓の外では蝉が喧しく鳴き、アスファルトが陽炎のようにゆらめいている。日差しは鋭く、じりじりと肌を焼くほどだった。病院の空調が効いたレジデント室にいても、外の熱気を感じるほど。
スマホを片手に、私は父へ最後の確認をしていた。

「お父さん、気をつけてね。到着まで…17時間だっけ?」
『ああ、乗り継ぎもあるからな』

父の声は以前より少しだけ張りを取り戻していた。ほんの少しだけ、安堵する。

「……あ、お父さん!お酒は絶対にダメだからね!一杯でもダメ!」
『わかってるよ』
「ほんとに?あとでお父さんの友達に連絡して、確かめるからね!」
『お前は母親か……』

呆れたようなため息の後、小さく笑うような声が聞こえた。私も、ふふっとつられて小さく笑う。
父は休養のため、スイスへ旅行に行くことになっていた。漫画を描かなくなってからの父は、どこか虚ろで、抜け殻のようで。
そんな父を見ているのが辛くて、少しでも気分転換になればと思い、強く勧めたのだ。

「薬も忘れずに飲んでね。無理しないで」
『ああ、じゃあ行ってくる』
「うん、いってらっしゃい」

通話を切る。スマホの画面が暗くなり、静寂が落ちた。
これで少しは、父も楽になれるだろうか。期待と不安の間で揺れながら、私はスマホをポケットにしまう。
ふと、窓の外を眺めると、真夏の光に白く揺れるビルの屋上が、どこか眩しすぎて目を細めた。
——あの人も、この空の下のどこかで、同じように夏を感じていたら。そんな叶いもしない想像が、頭をかすめる。

「おい」

突然、レジデント室の扉が開く音がして、思考が引き戻された。
振り向くと、教授が腕を組んで立っていた。まるで廊下の熱気を連れてきたみたいに、その存在感は室温を一気に上げる。

「あ、教授…!お疲れさまです」
「お前の親父、どこか行くのか?」
「は、はい。スイスに行くみたいです…」

驚きつつも頷くと、教授は「ほう」と短く唸り、顎に手を当てて考える仕草を見せた。

「…みんな"コナン"の続編を待っているが、時には休息も必要だな。お父さんにゆっくり休んでくるよう伝えてくれ」

意外にも、まともなことを言う。
いつもの教授なら「甘ったれるな」とか「さっさと描かせろ」とか言いそうなのに——。
拍子抜けしながらも、私は少しだけ微笑んだ。

「ありがとうございます。向こうに住む友人の家で休養するそうです」
「ほー……」

教授が顎に手を当てて、また何か考えるような素振りを見せる。そのまま会話が終わるかと思った——その時だった。

「ところで、お前の今日の服装はどうだ?」
「……え?」

唐突な話題の転換に、思わず瞬きをする。
教授はじろじろと私を見て、白衣の前をのぞき込もうと身を乗り出してきた。

「な、なんですか?!」

咄嗟に後ずさり、両手で胸元をガードする。にもかかわらず、教授の視線は鋭く上下に動いた。

「おい、その下何着てるんだ?」
「ふ、普通の服ですよ!?」
「スカートか?」
「え、いや……パンツですけど」

教授は少し残念そうな顔をみせた。

「つまらん」
「……何を期待してたんですか」

心の中で大きなため息をつきながら、警戒するように距離を取る。しかし、その警戒心をまるで無視するかのように、教授はあっさりと言った。

「俺が飯を奢ってやる」
「……ご、ご飯ですか?」

不穏な気配しかしない。嫌な予感がする。
あの教授がこんな誘いをする時は、何か裏があるに決まっている。

「え、遠慮します!私もうお腹いっぱいなので……!」
「グロス塗って香水つけて来い。いいところに連れてってやる」
「きょ、教授……?!私、本当に……!」

——もう完全にペースを握られている。
彼の中では、私の返事など初めから選択肢に入っていないらしい。まるでこちらの拒絶など意に介していないかのように、ひたすら己のペースを押し通す。
一方的に話を進めると、教授はレジデント室を出て行った。残された私は、大きくため息をつく。
あの狂犬は一体何がしたいんだ、本当に……。
そんなくだらない疑念を抱きながらも、渋々白衣を脱ぐ。まったく、私の夏はどうしてこう、落ち着く暇がないのだろう。
そのまま青木に教授とごはんに行ってくる旨の置き手紙だけを残して、私はレジデント室を後にした。











「きょ、教授…!急ですよ、いきなり男性を紹介するなんて……!」

やはり、悪い予感は的中していた。
昼の喧騒から離れたそのレストランは、通りに面した大きな窓から夏日が斜めに差し込み、テーブルクロスの白をやわらかく染めていた。ほのかに漂うワインの香りと焼きたてのパンの匂い。
教授にしては珍しく、こんな落ち着いた空間を選んだ——そう思ったのも束の間、席に案内される前に放たれた一言で、胸の中の期待は一瞬でしぼんだ。
「お前に紹介したい男がいる」なんて、お見合い以外の何物でもないじゃないか。

「代打だからな、急で当然だ」
「だ、代打は結構です……!」

思わず声が上ずる。
軽く言い放つその口調に、こちらの意思なんて最初から眼中にないことが透けて見えていた。
なんて強引なんだ。先を歩く教授の背中に抗議の声を投げ続けるが、変わらず涼しい顔のまま進んでいく。
こんなのいつものことだが、今日ばかりは引き下がれない。

「教授!私……!」

言いかけた途端、ぐっと腕を引かれた。
その手の力強さに、逃げ場がすっと閉ざされる感覚が走る。

「お前、彼氏いないじゃないか。あの病院で今日いい感じの服を着てたのもお前しかいなくてな。運がいい」

その発言、限りなくセクハラに近くないだろうか。まさか上司が、部下の恋愛にまで口を出すとは。こればかりは軽く流せない。
朝、クローゼットの前でほんの数秒迷って選んだブラウス。今日に限ってメイクもちゃんとして、髪も整えて出勤した。
それがまさか、こういう結果が引き寄せられてしまうなんて…!

「今日に限って、こんな服を着てきた自分を恨みます」

そんな私たちの会話を聞いているのか、いないのか。店員の「こちらへどうぞ」という声に押されるように、席まで案内される。

「黙って座れ」
「はい……」

命令口調に、反射的に従ってしまうのもいつものことだ。
店内はクラシック音楽がゆったりと流れ、柔らかな間接照明がテーブルごとにスポットライトのような光を落としていた。
落ち着いた雰囲気のはずなのに、私の心臓は無駄に早く脈打ち、手のひらがじんわりと汗ばんでくる。

「お前、見合いはいつぶりだ?」
「……はじめて、ですけど……」

自分でも驚くほど声が小さかった。喉から出る音が頼りなく、テーブルクロスの上で指先をぎゅっと握ってしまう。
カトラリーの銀色がぼんやりと視界の端で光る。今からでも「急用を思い出しました」と立ち上がれば、帰れるだろうか。
……いや、教授のことだ、腕を掴んででも座らせるに違いない。

「……そういうことか」

そのとき、教授がどこかわざとらしく頷いた。

「お父さんは娘を哀れに思って、お前の名前で恋愛漫画を描き始めたんだな。代理満足ってやつか?」

さらりと放たれた言葉が、胸に小さな棘を刺す。
悪気があるわけじゃない——そう思いたい。でも、この人は時々、真顔でそういうことを言う。

「あはは……そうかもしれませんね……」

乾いた笑いが自然とこぼれた。
その笑いの奥には、「そういう話、今じゃなくていいでしょう」という呆れと、「まぁ、この人はこういう人だ」という半ば投げやりな諦め。
教授は未だに“コナン”のことを根に持っているのだ。父が活動を休止してからは、こうして時々、私にチクリと刺すような冗談を飛ばすのが習慣になってしまった。
グラスの水面が、照明の光を受けてわずかに揺れる。ただでさえ“お見合い”、しかも教授が選んだ男性という時点で、嫌な予感しかしないのに。そこへさらにこういう一言が重なると、背筋のこわばりは倍増する。

「お、相手が来たぞ。おーい、こっちだ!」

反射的にレストランの入り口へと振り返る。
視線の先には、派手な紫色のスーツを着た男性がゆっくりとこちらへ歩いてくる姿があった。

「男前だろ?」
「……男前、ですか……?」
「男らしいじゃないか」

思わず、本心がぽろりと声になっていた。
もちろん、見た目だけで人を判断するべきではないと分かっている。それでも――正直、"男前"とはずいぶんかけ離れてみえた。
いかにも人の良さそうな笑顔を浮かべた男性が、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。丸い眼鏡をかけたその人は、ややふくよかな体型で、どこか安心感を与える雰囲気はあった。

「教授……、やっぱりこれは……っ!」

半泣き混じりに声を上げ、ついその場で教授に泣きついてしまう。

「なにを大げさな。あいつは司法研修所を主席で卒業だぞ?」

教授は当然だと言わんばかりの口調で、私の訴えを軽々と受け流す。

「それにな、長身・イケメン・頭脳——3つ同時なんて絶対に無理なんだ。一つでもすごいだろ!」

その瞬間、ふっと脳裏にあの夜の姿がよみがえった。胸の奥が一瞬だけ、ズキッと疼く。
背の高いシルエット、美しい金髪、そして一瞬だけ見せた柔らかな笑顔。全部が、記憶の中でやけに鮮やかに光っている。
……その人が、もうここにはいないと分かっていても。

「3つ同時もありえますよ……」

思わず声が小さくなる。自分でも呆れるくらい、未練が透けてしまったような言い方だった。
あの長身で洗練された仕草を見慣れてしまった後では、どうしても目が肥えてしまっているのだ。紫のスーツ彼は、その人のように一瞬で空気を変えるような迫力もない。その人のように何気ない仕草一つで視線を奪い、呼吸のリズムさえ乱すような存在感もない。
その人は「男前」のハードルを上げるだけ上げておいて、いなくなってしまったけれど。基準が高くなりすぎた。その人を知ってしまった自分には、もう簡単に心を揺らすことなんてできない。
しかし、教授は気にも留めず、視線の先に何かを見つけたように顎をしゃくる。

「お!来たか。ほら、ここに座れ」

教授が腰をずらすと、その横にいた男性も椅子を引き、自然な仕草でそこに腰を下ろした。必然的に、私は彼と正面で向き合う形になる。
視線を合わせる勇気が出ず、私はテーブルの端に目を落としたまま、心の中で浅く息を吸い込んだ。

「…まず、自己紹介だな。彼女は宮間りかだ。うちの胸部外科の研修医で、おまえは……」
「は、はじめまして。僕の名前は太田劣男おおたてつおと申します」
「……はじめまして」

差し出された手に、おずおずと自分の指先をそっと添えた、その瞬間――思いのほか強く、ぎゅっと握り込まれる。まるで逃がすまいとするかのような確かな圧力に、無意識に息を詰めた。
それでも視線を上げると、目の前の彼は柔らかく微笑んでいる。その笑みに戸惑いながらも、反射のように口元だけを引き上げ、形だけの笑みを返した。

「わあ……どうしましょう。宮間さんは、僕の理想のタイプかもしれません」
「お前は見る目がないなあ」
「そ、そうですか?」

「あははは」と二人の笑い声が軽やかに交わり、テーブルの上に温かい空気が広がっていく。
けれど、私はその輪の外側に立っている気分だった。笑うタイミングを探すうちに、頬の筋肉だけが引きつっていく。形だけの笑みを浮かべながら、自分でもその不自然さに気づいていた。

「ははは、笑顔がすてきな方でいいですね」
「こうやってこいつが笑うのは俺も初めて見る」

この人達は何もわかっていないのだろうな、と思う。もちろん、悪気があるわけではないのも分かっている。それでもこの距離感は埋まらず、笑顔を作るだけの自分が、どこか滑稽にさえ思えてしまう。
そのとき、太田さんがふと、水の入ったグラスを持ち上げながらこちらを覗き込んだ。

「宮間さん、趣味とかあります?休日は何をされてるんですか」
「えっと……」

咄嗟に答えが出ない。言葉を探していると、教授が横から茶化すように口を挟んだ。

「こいつは休みの日でも病院に顔出すくらいだぞ。つまらんやつだ」
「そうなんですか?真面目だなあ」

――つまらんやつ、という冗談に笑わなければと思い、喉の奥でかすれた声を立てる。それが自分の耳にも、ひどく頼りない笑い声に聞こえた。

「いや、そういう人のほうが家庭的だったりして、いいんですよ」

太田さんのそんな軽口が、なぜか背中に重くのしかかる。笑って受け流すふりをしながら、視線はテーブルの木目に吸い寄せられた。
そのとき、ポケットの中でスマホが震えた。画面には"青木"の名前。胸の奥が、ようやく空気を吸い込めるみたいに軽くなる。

「すみません……少しお化粧室へ」
「はい、気をつけて行ってきて下さい」

愛想笑いを貼りつけたまま立ち上がり、早足で化粧室へ向かう。足が速くなるほど、心はさらに遠ざかっていく。このまま外まで出てしまおうか――そんな考えさえよぎった。
化粧室の扉を押し開けた瞬間、ようやく胸の締めつけが少しだけ緩んだ。











『やっぱりハズレだったか』

あはは、と青木の伸びた笑い声が電話越しに届いた。
化粧室の静けさの中で、私はスマホを握りしめたままため息をつく。鏡に映る自分の顔は、うっすらと引き攣った笑みを浮かべていた。
ハズレどころか、お見合いを仕組まれていたなんて。めずらしく素敵なレストランに連れてきてもらったと、少しでも教授に期待してしまった自分が悔しい。おかげで一瞬で我に返った。

『それでトイレに逃げたのか』
「逃げた、じゃない。戦略的撤退です」

そう言いながら、私は化粧室の鏡の前で背中を壁に預ける。足元には細かいタイルの模様が広がり、冷房の風が肌を撫でた。

『相手はどうだった?』

揶揄うように青木が問う。化粧室に逃げ込んでいる時点で察しているはずだ。なのに、なぜわざわざ聞いてくるのか。
何も答えない私に、青木はくすくすと笑った。

「でも、教授のおかげで恋愛への戦意が燃え上がってきた。確かに最近そういうのから遠ざかってたし」

その言葉を吐き出すように言った。
心のどこかで、教授への苛立ちがじくじくと燻っている。こんなやり方で挑発されて、やっと自分の中の恋愛感情が再燃するなんて――皮肉だ。
…いや、もしかしたら、これはきっかけが欲しかっただけなのかもしれない。
研修医生活の忙しさにかまけて、あの人のことを思い出す時間をわざと削ってきた。それでも、ほんの隙間から零れ落ちるように記憶が蘇る。声も、仕草も、あの一瞬のまなざしさえ。
――忘れたい。忘れてしまえたら、きっと楽になる。だから、新しい誰かを見つけて、上書きするようにして。そうすれば、胸の奥に刺さったままの棘も、いつか抜ける気がした。

「……だからさ、これから1ヶ月頑張るから、青木も1週間毎に1人ずつ紹介してくれない?」
『は?』
「教授に馬鹿にされたみたいで腹が立ってきたから。ほら、やられたらやり返さないと」

青木は呆れたように息を吐いた。

『無理だ。こんなクソ忙しいのに4人もどうやって……』

私は思わず笑ってしまう。冗談半分で押し通そうとするが、青木は応じる気配を見せない。
確かに忙しいのはその通りだ。彼もまた、私と同じように忙しい毎日を送っている。自分の身なりにも構っていられないほど、研修医は忙しい。恋愛から遠ざかってしまうのも、無理はないのだ。

そんなやり取りを繰り返しているうちに——
ふと、違和感に気づいた。
青木の声が、遠い。最初は電波が悪いのかと思った。けれど、それだけではない。

「……もしもし?」

返事がない。

「青木?聞こえてる?」

何度も呼びかけるが、応答はない。
通話が切れたわけでもないのに、音が奇妙に歪んでいる。スマホの画面を見つめた瞬間、全身の毛が逆立つような感覚に襲われた。
——画面が、揺らいでいる。電波の乱れとか、画面のバグとか、そういうレベルではない。水面に映る影のように、スマホの画面が波打ち、言葉にならないざわめきが鼓膜を震わせる。

「な……に、これ……?」

思わず足元を見た瞬間、私は息を呑んだ。
靴の先が、消えている。
——いや、違う。水だ。透き通った水が、床から湧き上がるように広がり、私の足を呑み込んでいた。

「え……?」

冷たい感触が、足首から膝、腰へとじわじわと這い上がってくる。逃げなきゃ。そう思うのに、体が動かない。

「だれか__」

声を上げようとした瞬間、水が勢いを増し、私の口元を覆った。
水の中に引きずり込まれる感覚が、全身を襲う。手を伸ばしても、そこには何もない。見上げると、化粧室の天井が波の向こう側で歪んでいく。
深い、深い水の底へと沈んでいく。身体は重く、指先すら動かせない。手に持っていたスマホを強く握りしめていたはずなのに——ふと、指の力が抜ける。

——あ。
気づいた時には、スマホは手を離れ、ゆっくりと深い闇へと落ちていった。吸い込まれるように沈んでいく小さな光の箱を見送る。
その瞬間——ふと、視界の端に黒い何かが映った。

いや——違う、人、だ。黒い服を着た人。
私は息を呑む。こんな場所に、人がいる?ゆらゆらと、水の中に漂う黒い影。本能的に、私はその人を追った。手足を必死に動かし、泳ごうとする。
でも、届かない。近づいているように見えて、決してその距離が縮まることはない。

「そんな……!」

思わず声を出そうとして——泡がひとつ、口から零れた。
苦しい。肺が悲鳴を上げる。それでも、私は目の前の影を見失うわけにはいかなかった。
——見覚えが、ある。絶対に、知っている。水の揺らぎの向こう、ゆっくりと顔が浮かび上がる。
信じられない。そんなはずはない。だけど、あの髪の色、あの輪郭、あの横顔——間違いようがなかった。
私は必死に手を伸ばした。
届いて。お願い、届いて……!
でも、どれだけ伸ばしても、その指先は彼に届かない。ゆらゆらと静かに浮かぶ彼は、目を閉じていた。まるでこの水の中で眠っているかのように、ただ静かに。

——安室さん!!

苦しい。息がもたない。限界が近づいてくる。肺が焼けるように痛み、視界が滲む。
だめだ……。苦しさのあまり私は目を閉じた。

「っ、は…っはぁっ…!」

次に目を開けた時、そこは水の底ではなかった。
肺の奥から荒く咳き込みながら、私は化粧室の床に倒れ込んでいた。
ごほ、ごほと音を立ててむせ返り、喉が焼けるように痛む。冷たいタイルが頬に触れて、現実感をいやでも突きつけてくる。
口から、ほんの少し水が混じった唾液が滴り落ちた。胸の奥はまだ水で満たされているように重く、息をするたびに肺がひゅうひゅうと鳴る。

「……え?」

天井からは蛍光灯の白い光が降り注ぎ、かすかに水の滴る音が響いている。
自分の全身から水がポタポタと滴っていた。息は——普通にできている。

「……なに、が……?」

震える指で自分の顔に触れる。水に濡れた感触。確かに沈んでいた。水の中にいた。
でも——今、私のまわりに水はない。

「どういうこと……?」

足元からじわじわと不安に飲み込まれる。
息を大きく吸い込み、迷いを振り払うように拳を握る。そして、呆然としたまま固まっていた足を無理やり前へ出し、勢いよく立ち上がった。






「ど、ど、どうした…!?」

化粧室の扉を押し開け、足早に教授たちの元へ戻るなり、二人の視線が驚愕に見開かれた。
その視線の理由は、自分でもわかっている。

「…携帯を、貸してください」

声が思うように出ない。呼吸も浅く苦しいが、確かめなければならない。
さっき――水の中で、スマホが手から滑り落ちたせいなのか、自分のものがどこにも見当たらないのだ。

「……そ、その格好はなんだ?」

教授の視線が、私の全身を上から下まで舐めるように動く。
ブラウスは肌に張り付き、冷たい水が背筋を伝って腰へと流れ落ちていた。髪の先から滴る雫が床を濡らし、足元に小さな水たまりが広がっていく。

「携帯を……貸してください。お願いです」

同じ言葉を、必死に、息継ぎも忘れて繰り返す。
教授は眉間に皺を寄せ、警戒と困惑を混ぜた眼差しを向けてきた。
その隣で、お見合い相手だった男性が、少し躊躇したあとおずおずとスマホを差し出してくる。

「ど、どうぞ……」

お礼もそこそこに、その手からすぐに受け取ると濡れた指先で画面を操作した。タッチパネルが反応しづらく、焦りで指が滑る。

「ずぶ濡れだぞ……トイレで水漏れでもしてたのか?」

教授の呆れたような声が耳に届く。
だが、私の意識はすべて、今開こうとしている画面に集中していた。
私はただ、SNSの検索窓に単語を打ち込む。

『コナン』——検索。
結果が表示される。何も変わった様子はなかった。映画の話題、ファンアート、考察。どれもいつもと同じ、変わらない日常の流れ。何も起きていない。何も。
それなのに——あの沈んでいく光景は?水の中に浮かんでいた、安室透の姿は?

「あの……大丈夫ですか?」

困惑した様子で男性が声をかける。
私は、何も言わずにスマホを返した。濡れた指先が彼の手に触れ、微かに震えたのがわかる。

「ありがとうございました。失礼いたします」

礼を言うと踵を返し、早足でその場を去った。
確かめなければならないことがある。
あれは幻覚だったのか、そうではないのか。この全身を包む冷たさと重さは何なのか。

「おい、宮間!どこに行く!!」

教授の呼び声が背中に突き刺さる。
けれど、振り向く余裕などない。ただ、胸の奥で渦巻く疑問と恐怖に突き動かされるまま、私は走った。


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