28


side: Furuya


──意識が、ふっと浮上した。
次の瞬間、肺が焼けつくように痛みが襲う。反射的に身を起こそうとして激しく咳き込んだ。喉の奥がひりつき、全身が冷たく重い。まだ体の芯にまで水が染み込んでいるような感覚が残っている。
ぼんやりと視界が晴れていく。白い天井、鈍い蛍光灯、薄いカーテンの影。鼻を刺す消毒液の匂いと、シーツの冷たさの現実感。

ここは……警察病院か?
だが、なぜ自分はここにいる?あの夜、橋の上で終わったはずだった。自ら終わらせたはずだったのに。

「……怪我はないそうです。はい。はい、目が覚めましたら改めてご連絡を……」

ふと耳に入った声に視線を動かす。
風見か…?いつもの緑のスーツが浮かび上がる。
彼が通話を切り、こちらを振り向いた瞬間、その表情が驚愕に染まった。

「ふ、降谷さん……!」

足音も荒く、ベッドに駆け寄ってくる。
眉間にしわを寄せ、困惑の色を滲ませながらこちらを覗き込んだ。

「ご無事ですか!?いったい何があったんです!どうしてこんなことに……!」

問いかけが、鋭く心に刺さる。
だが、答える言葉が見つからなかった。説明できることなど何もない。それを言葉にした途端に、この世界の秩序が音を立てて崩れそうな気がした。

──なぜ、生きている?
あの夜、自分の意志で川へ飛び込んだはずだった。“虚構”を守るために。“現実”が壊れないように。自分だけが壊れて終わることで、物語の世界を守ろうとして。
自分が虚構の存在であることを知ってしまった時。全てが「演出」だったと気づいてしまった時。正義も、記憶も、関係も――設定だった。それでも、自分の“信じた意志”だけは、本物でありたいと願った。
だから、死を選んだはずだった。それが自分にできる最後の使命だった。けれど、それもすべてが夢だったのか?

「どうして隅田川なんかに落ちたんですか!しかも真夜中に!どこへ行かれていたんです!」

風見の声が苛立ちを孕む。
無意識に拳を握りしめると、指先にじんわりと汗が滲んだ。

「降谷さん。何が、あったんですか」
「…それを知りたいのは、むしろ僕だ」

低く抑えた声が自分の口から零れる。風見が一瞬息を呑んだ。
こめかみを突くような痛みが走る。思考がまとまらない。曖昧な記憶を掘り起こすように、唇を動かした。

「今日は、何月何日だ?」

頭を摩りながら問うと、風見は目を見開き困惑を浮かべる。数秒の沈黙ののち、慎重に答えた。

「まさか……本当に覚えてないのですか」
「…今日一日、何があった?」

さらに問うと、風見は言葉を選びながら語り始めた。

「……降谷さんと突然、連絡が取れなくなりました。宮間りかとの面会の直後です。彼女が脱走し、現場は大混乱でした。自分が必死に電話をかけても応答はなく……。その後しばらくして、“隅田川に落ちた”と同期から報告を受けました」

その瞬間、胸が跳ねた。

「……面会のあと、だと」
「ええ。拘置所中が騒然としていました。だからこそ……なぜあの時間に川におられたのか、説明していただきたいのです」

風見の語気が強まった。
そっと視線を伏せる。風見によると、あの面会のあとからほとんど時間が進んでいない。
やはり、夢だった?…いや、この記憶は夢ではない。確かに自分は川に飛び込んだ。
それなのに、なぜ生きている?どうやって助かった?雨が降ったあとの荒れた川。助かるはずがないと思った。頭の中に、あの時の感覚が鮮明に蘇る。

その時、風見の携帯が甲高く鳴り響いた。
彼は素早く受話器を耳に当てる。短い応答のあと、沈黙が訪れ――次の瞬間、風見の顔から血の気が引いていった。

「……はい?!宮間りかが……拘置所の中に?!……い、いえ、確認します。本当にずっと収監されていたのですか……?」

声が震え、携帯を握る指先に力がこもっているのが目に見えた。
言葉の意味を理解した瞬間、胸の奥で冷たいものがざわりと波立つ。

「……まさか」

彼女が拘置所の中に…?
せっかく脱獄させたというのに、どうなっている?また、こちらの世界に来てしまったとでもいうのか。一体、自分の知らないところで何が起こっているんだ。
頭痛も忘れ、ベッドから身を起こす。点滴を自ら引き抜き、脇に置かれていた上着を手に取った。

「風見」

通話を続ける彼の肩を叩く。
振り向いた彼に、冷静な声で告げた。

「彼女との面会を手配してくれ」

一瞬ためらう風見。
しかし、すぐに真剣な眼差しで頷いた。

「……承知しました」

病室を出ていく足音が遠ざかる。
残された静寂の中、深く息を吐く。
…生きている。そして彼女は再び、この世界に現れてしまった。すべてを終わらせたつもりだったのに――まだ何も、終わっていない。





**





――ジリリリリリリッッ

「脱走犯を発見した!!」
「こっちだ!!こっちに応援を…!!」

「……っ!」

大きな警報音と、怒鳴り声が耳を震わせた。何事かと、はっと目を開けると、薄暗い天井が視界に飛び込んでくる。
埃っぽい匂い、冷たい床の感触。咄嗟に上体を起こして辺りを確認する。

「戻れた……?」

思わず呟きながら、慌てて自分の姿を確かめた。
私が着ているのは囚人服。下に感じるのは硬いコンクリートの床。周りを見渡せば、無機質な机とくすんだアクリル板――拘置所の面会室だ。
最後に安室さんと面会した、まさにあの場所だった。

「……っ」

その瞬間、懐中電灯の白い光が次々と押し寄せてきて、視界を焼く。眩しさに思わず顔を顰めた。それでも光は容赦なく私を追いかけ、壁や床に反射して逃げ場を奪う。
警官の怒号が飛び交い、靴音が反響する。だが恐怖よりも先に、涙がにじむほどの安堵が押し寄せた。

――成功した。
安室さんを救いたいって、願いは届いたんだ。
天沢くんに教えてもらいながらだけど、必死に絵を描いた。血がにじむほどペンを握りしめ、少し時間はかかった。でも。
どんな代償を払ってもいい。独房に押し込められても構わない。その覚悟の答えが、今この光景だった。
戻ってきた。また、ここに。それが何よりの答えだった。

「手を上げて頭の後ろに回すんだ」

「ゆっくり立て。抵抗するなよ!」

低い声が飛ぶ。警官の視線は鋭く、逃げ道などない。
私はゆるりと立ち上がり、言われるままに両手を後ろへ組む。そのとき、カチリ、と小さな音を立てて冷たい金属が手首にかかった。

「歩け」

短い命令に促され、腕を引かれて歩き出す。
けれど、不思議と恐怖はなかった。むしろ、安堵が頭の中を占めていた。
――良かった。これでいい。私がここに戻されたということは、安室さんが生きているという証拠。
これは当然のことだ。ここへ戻ってきた時点で、こうなる未来は覚悟していた。
ただ、その事実だけが、すべてを照らしていた。









それから私は、取り調べのために警察署へ向かう護送車に乗せられた。
車内は張り詰めた空気に満ちていて、ときどき金属の床が軋む音だけが響く。窓の外では、夜の街の光が流れていった。

脱走したこと。突然消えたこと。
きっとこれから、また数えきれないほどの質問を浴びせられるに違いない。
普通なら、恐怖で胸が押し潰されてもおかしくないのに――私の心は驚くほど静かで。それよりも気になるのは、彼のことだけだった。
いま、どこで何をしているのだろう。
この場所に戻ってきた私のことを、知ってくれているのだろうか。
もし彼が、どこかでこの瞬間を想っていてくれるなら……それだけで、どんな尋問も耐えられる気がした。

「…着いたぞ」

不意に警官の声が響き、思考が現実へと引き戻される。
警官に促されて、車から足を降ろす。変わらない冷たい空気のまま、廊下を案内された。
行き先は分かっているつもりだ。きっと、取調室だろう。また長い長い夜が始まるのだと、そう思い込んでいた。

「ここだ」

警官が立ち止まり、何の前触れもなくドアを開く。次の瞬間、目に飛び込んできた光景に息が止まった。
ガラス板と机に、向かい合う二脚の椅子が置かれたそこは、思い描いていた取調室とはまるで違っていた。

「え……」

困惑の声が漏れる。背を押され、私は中へと踏み込んだ。
正面のガラス板は蛍光灯の光を反射していて、部屋の奥がよく見えない。けれど、一歩足を進めた瞬間、反射がずれて奥の景色が姿を現した。

「……あ、あむろ、さん……?」

呼吸よりも早く、名前が零れ落ちた。
心臓が大きく跳ね、その場に縫い止められる。

「りかさん」

静かに名前を呼ばれた。
夢じゃない。そこにいる。私が原稿から必死に引き上げた、その人が。椅子に腰掛け、机の上で両手を組み、ただ静かに私を見上げている。
促されるまま、私はガラス越しに置かれた椅子の向かいに腰を下ろした。震える指先を必死に膝の上で握りしめながら、視線だけは逸らせない。

「……無事で……本当に良かったです」

掠れる声でやっと言葉になった。
目に涙が滲む。

「あの日からずっと気になってました。でも、こうして……元気そうなお顔が見られて、本当に良かった……」

止めようとしても、どうしても震えてしまう声。
こんなに早く会えるなんて、想像もしていなかった。また何日も、何週間も会えないまま苦しむのだと思い込んでいたのに。
夢みたいで、怖いほどで、それでも確かに温かくて。それだけで、涙がこぼれそうになる。

「……一体どうやって」

安室さんは、眉をわずかに寄せてぽつりと呟いた。
自分がなぜここにいるのか、どうして命をつなぎ止められたのか──その答えを持たないまま、静かに混乱しているのがわかる。

「一体どうやって生き返ったか…ですか?」

私は手錠のはめられた手で目尻の涙を拭うと、わざと明るく答えた。

「実は、安室さんが川に落ちたとき、偶然警察のボートがその橋の下を通ったんです。そして、これまた偶然に、潜水士がそこに二人も乗っていました。だから、息が止まる前に救出することができたんです。……安室さんは運がいいですね」

努めて軽口にしたつもりだった。
けれど彼の表情は一切揺れず、静かな瞳でただ私を見つめるだけ。どこか張り詰めた空気に、私はぎこちなく微笑んだ。

「……あなたのお父さんは?」
「元気ですよ。向こうではあれから、2ヶ月が過ぎました。今はスイス旅行中です」

その言葉に、安室さんの表情もわずかに緩む。ほんの一瞬の緩和に、私も胸を撫で下ろした。

「まさか、あなたのお父さんが僕を……」
「あ、いえ。救ったのは私です。ということは、私はもう安室さんの命を三回も救ったことになりますね」

ビルの屋上で刺されたとき。毒を盛られそうになったとき。そして──水底から引き上げた、今日。
彼を三度も救ったことに、胸の奥がほんの少し熱くなる。

「どんな方法で……」
「気になりますか?」

小さく笑みを零した。私はただ彼が生きてここにいることが嬉しくて、自然と口元が緩んでしまう。

「私の質問に答えてくださるなら、教えます」
「……さっきからずっと、僕の言葉を真似ていますね」

静かな指摘に息を呑んだ。
たしかに、図星だったかもしれない。
安室さんの過去の言葉をなぞれば、会話は進めやすいと思った。けれど──そんな浅い真似で、本当に伝えたいことは彼に届くはずがない。

「……それ、は……」

思わず視線が揺らいでしまう。
必死に言葉を探すが、うまく言えない。それでも、言わなければ何も変わらない。私は自分の両手を握りしめ、彼を見据えた。

「……生きていてくれて、本当に、良かったです。まさかあなたがずっと川の中にいたなんて、もっと早く気づいていたら…。父のせいで安室さんが死ぬ必要なんてない。まだ生きてやるべきことだって、たくさんあるはずなのに…」

言葉を紡ぐごとに、胸が熱くなった。

「でも、もし、安室さんがこれからこの世界で、何をすべきか分からないのなら、私が考えます。だから、まずは生きてください」

強がりでも綺麗事でもない。ただどうしても伝えたかった願い。
その言葉がどんなふうに受け止められるのか、わからない。けれど、もう後戻りはできなかった。
彼の瞳が静かに揺れ、わずかに眉が寄る。

「……まずは、私をここから外に出すのはどうですか?この間のような脱獄ではなく、合法的な方法で。安室さんなら……できますよね?」
「……無茶を言いますね」

掠れた声だった。
一瞬、疲れているのかと思うような響きで、どこか張りを欠いている。

「そうすれば私も、この世界に来るたび警察に追われずに済むじゃないですか。3回も命を救ったんです。私のことを命の恩人と言いながら、まだ恩返しもしてもらってませんし」

冗談めかして口にしたつもりだった。
けれど、笑顔を作った唇の裏側では、喉がひりつく。
──本当は、軽口なんかじゃない。ただ必死だった。彼に少しでも生きる理由を与えたくて、自分を“生かすべき存在”だと思ってほしくて。
無理に明るく振る舞った声が、やけに空虚に響く。安室さんの瞳に自分がどう映っているのか、確かめるのが怖い。

「…安室さんの三つの顔、全部使ってでも──私を助けてください。有能な警察官なんですから、それくらいできますよね?」

それでも言葉を繋ぐと、短い沈黙のあと安室さんは小さく息を吐いた。
その吐息には、諦めとも迷いともつかない色が混じっていて、胸の奥に重たく沈んでいく。

「出してくださったら、どうやってあなたを助けたのか…そのときに全部、教えます」
「……脱獄犯を助けるのが簡単だと?」
「でも、安室さんならできますよね?」

挑むように言ったけれど、胸は痛いほど高鳴っていた。安室さんの視線が鋭さを帯び、私を射抜く。それでも、感情を剥き出しにはしない。
…だからこそ怖い。彼がなにを考えているのかわからないからだ。でも、また同じことは繰り返させたくないと思う。その時──

「そろそろ時間です」

無機質な声が扉の外から響いた。
瞬間、胸がきゅっ、と痛む。
――もう?まだ何も伝えられていない気がするのに。やっと会えたばかりなのに。
けれど、思い返せばこれは取り調べ前の、異例の面会だったのかもしれない。本来なら許されるはずのない時間。だからこそ、限られていたのだろう。理解はしたのに、心は追いつけなかった。
安室さんがゆっくりと立ち上がる。
その動きに、心臓が跳ね上がった。

「あ!あの、待って……っ!」

気づけば声を上げていた。伸ばした自分の手に、彼の視線が落ちる。咄嗟に引き止めたはいいものの、次の言葉が出てこなかった。
どうしよう。何を話そう。時間を延ばすため?それとも、本当の気持ちを伝えるため?頭の中が真っ白になり、喉の奥に言葉がつかえて動かない。
ただ彼が去ってしまうのが怖くて、無意識に縋っただけだった。

「……何ですか?」

静かに問われ、胸の奥が震える。
怖い。けれど、この瞬間を逃したらもう二度と伝えられない気がして。唇を噛みしめ、必死に声を絞り出す。

「そ、それと。前作は、父の描くコナンは、もう終わりました。だから、これからは……安室さんが、自分の意思で描く続編だと思って生きてください」

彼に届くだろうか。私の願いが、少しでも彼の生きる理由になるだろうか。
私は無意識に笑みを作り、両手を胸の前に上げる。手首にかかる冷たい手錠が、カチャリと小さな音を立てた。

……だから、早く助けに来てくださいね。
言葉にはできなかった想いを、その音に託す。彼なら、きっと気づいてくれる。
安室さんはしばし黙ったまま私を見つめ、深い瞳が何かを探るように揺れてた。
けれど、安室さんはそのまま再び背を向ける。無言のまま扉へ向かう背中を、私は目で追うことしかできなかった。やがて扉がバタン、と閉まり、その音が胸の奥に冷たい余韻を残した。
――安室さん。暗く静まり返った面会室に残された私は、まだ熱のこもった鼓動を抱えながら、彼の不在を痛いほどに感じていた。



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