04


意識が、ゆっくりと浮かび上がってくる。心臓の鼓動が、遠い場所から少しずつ近づいてきて、自分の身体に馴染んでいくのがわかる。その感覚が戻るほどに、胸の奥を得体の知れない恐怖が締めつけた。
夢だった――?現実としか思えないほど、リアルな夢を見たのだろうか。
瞼を開けると、目に飛び込んできたのは見慣れた景色だった。父の作業部屋。積み上げられた資料。散らばった原稿。ほんの少し前まで、ここで父の失踪を調べていたはず。
だが、現実味がない。さっきまで私は、ビルの屋上で血まみれの男性に処置をしていた。頭が混乱する。手が震えながら、自分の掌に視線を落とす。……血は、ない。驚くほど綺麗な、自分の手。

「……なんで」

言葉にした瞬間、部屋のドアが開いた。振り返ると、天沢くんが立っていた。いつもの、変わらない笑顔を浮かべて。

「天沢くん……。私、どうしちゃったの?」
「え?何がですか?」
「私……小一時間くらい、いなかったでしょ。天沢くんが、警察に連絡しに行った後……」
「一時間?何の話ですか。この数分の間に、どこへ行くって言うんです?」

――話が、噛み合わない。
私は言葉を失った。頭の中で疑問がぐるぐると渦を巻く。

「それに、警察になんて連絡してませんよ」

天沢くんは、むしろ楽しそうに肩をすくめた。

「ビッグニュースです。安室透、生きてましたよ!原稿も無事、締め切りに間に合ったんです!」
「……え?」

思わず聞き返すと、彼は得意げにパソコンを指差した。

「先生、気分転換に別の場所で描いてたみたいです。それに気づかず、僕たちが勝手に大騒ぎしてただけでした。ほら、りかさんも見てください」

促されるままに、私はマウスを手に取る。
クリック一つで、ディスプレイに映し出されたのは――あまりにも見覚えのある光景だった。

映し出されたのは、何者かに刺され、倒れる安室透の姿。その次のシーンで、彼を発見する一人の女性。焦る彼女が状況を把握し、安室透のポケットからボールペンとスマートフォンを取り出して、応急処置を施す様子が描かれている。そして、命を吹き返した安室透は、救急隊によって病院へ運ばれていく……。
物語はさらに続き、安室透の部下である風見裕也が、その女性に警察での証言を頼む。しかし、彼が目を離した一瞬の隙に、女性は姿を消してしまうのだった。

私は静かに、息が荒くなっていくのを感じた。へたりと、その場に座り込む。脳裏に蘇るのは、私が確かに“そこにいた”という確信。あの冷たい夜風、指先に伝わった血の感触、恐怖と安堵が入り混じった、あの瞬間。

「先生、ついにやらかしましたね。締め切り前に失踪なんて、漫画家の中でも上級者ですよ」

天沢くんの声はもう、耳には届いてこない。
これが、現実であるはずがない。この世界に生まれ、こんな不条理な出来事が起こるなんて、誰が想像できるというのか…。

「……これは、どういうこと……」

呟いた声は、自分でも気づかぬほど震えていた。天沢くんが「?」と首を傾げる気配がするが、気にも留められなかった。
これは、誰かが描いた“物語”のはず。フィクションの中に存在する安室透。なのに、私は彼に触れ、彼を助け、彼らと会話を交わした。わかりたくない。でも、わかってしまった。

脱稿されたばかりの「名探偵コナン」。
そこに登場し、安室透を救った女性。

それは、間違いなく私だった。






**





「ナイフで刺した犯人は現在も逃走中で、事件に関する有力な手がかりは得られていません。ホテルの総支配人によれば、降谷さんに応急手当を施した女性は宿泊客でも従業員でもなく、見覚えもないと。彼女自身は“医者”だと名乗りましたが、それも確認が取れていません」

淡々とした風見の報告に、長い溜息を吐いた。
おかしな話だ。自分を助けてくれた女性は、風見が少し目を離した隙に、跡形もなく消えてしまった。
あの日、僕は命を落としかけた。胸と腹を深く刺され、呼吸は浅く、視界は暗転寸前。まともな思考などできる状態じゃなかった。助からない――そう覚悟した、その瞬間。
彼女が現れた。誰かもわからぬまま、僕を救おうとする必死な手のひら。命が繋がったのは、紛れもなく彼女のおかげだった。

ただそれが、刺された理由も、犯人の顔も、自分がなぜ無防備にホテルの屋上にいたのかすら、まるで思い出せない。
“気づいた時には、血を流して倒れていた。” そんな情けない状況が、自分の誇りをじわじわと蝕んでいる。けれど、彼女のことははっきり覚えている。揺れる大きな瞳。冷たい風の中で、僕の命を繋ごうとした手の温度。
ピピピ、と規則的に流れる機械音。しばらくは、この病院のベッドから動けないだろう。

「他に何か分かったことは?」
「……残念ながら、ありません。監視カメラにも引っかかっていませんでした。…あの女性、なにか変ですよ。警察に証言すると言っておきながら、すぐに居なくなってしまいましたし、それにこれです」

風見はそう言いながら、血のこびりついた名刺を差し出した。ホテルの支配人から受け取ったという、それには氏名と、勤務先らしき病院名、連絡先が印字されていた。
どうやら、あの女性は「宮間りか」というらしい。

「……東京大学病院?そんな名前、聞いたことがない」
「はい。日本国内はおろか、世界中を調べましたが、該当する病院は存在しません。つまり、彼女は偽名刺を使い、医師を騙っていた可能性が高いです。……そのため彼女を容疑者だと疑い、捜査を進めることにしました」

黙って名刺を見つめた。
存在しない病院、偽名刺――。
だが、なんのために。彼女は嘘をついてまで、僕を救う理由があったのか?

「……彼女は犯人ではないよ」
「降谷さん、意識がなかったのに、なぜそう言い切れるのですか?」
「直感だ。……ま、何にしろ彼女は命の恩人だ。必ず捜し出してくれ」
「……"容疑者"として捜査は進めます」

風見はそう言い切ると、ふっと息を吐き出した。彼女をどうしても容疑者にしたいらしい。

「現在、モンタージュ似顔絵を作成中です。完成すれば、足取りを追うのは時間の問題かと」

突然消えてしまった女性。何か引っ掛かる。
常識で考えれば、人は痕跡を残さず消えることなどできない。奇妙だ。今起きていることは、どうにも理屈が通らない。そしてそれは、普段自分が感じているあの妙な感覚に似ている。

「彼女は、僕の人生の鍵なんだ。必ず捜し出してくれ」

時々感じる、あの妙な異変。自分の意思ではない、誰かの命令によって行動しているような感覚。まるで自分の意思が無視され、人形のように操られている違和感。だからなのか、その妙な異変を解き明かす鍵が、あの女性だと直感的に感じた。
一瞬、面食らったように驚いた風見が、口を開く。

「あの女性……ホテルの支配人によると、かなりの美人だったとか」
「…それで?僕が彼女を捜していると?」
「いえ。ただ、降谷さんが大袈裟な表現をされるものですから」
「僕を何だと思ってる」
「……失礼しました。全力で捜査いたします」

表面上は冷静を装っているが、僕にはわかる。彼もまた、あの女性に対する違和感を拭いきれていないのだ。
確かに、偽の名刺の件や、逃げ出した件については許すわけにはいかない。しかし、彼女がいなければ、間違いなく死んでいただろう。
風見が彼女を怪訝に思う理由も理解できるが、あまり悪い人間でないように感じる。論理的思考にはいたらないが、直感的にそう思うのだ。

宮間りか。
君は一体、何処にいるんだ?






「……意味が、わからない」

指先が震える。モニターの光を受けながら、私は呆然とパソコンの画面を見つめていた。漫画を読んで、こんなにも恐怖を感じたのは初めてだ。
降谷零が、私を探してる。私が『名探偵コナン』の世界に、存在してることになっる。
やっぱりあれは、夢じゃなかった。いや、夢であってほしかった。でも、確かに彼が私の名刺を持ち、風見裕也は私を容疑者と呼び、そして彼が私を"人生の鍵"と言って、探している。

「……どうして、こうなった……?」

頭の中で問いかけても、答えは返ってこない。現実と虚構の境界が溶けていくような感覚。でも、あれは幻ではなく、確信として“あの世界”が存在しているのを、身体が覚えてる。
それに、一睡もできなかった――。本来なら、あのあと一度家に戻って仮眠を取り、夜にまた当直組として病院へ出勤するはずだった。けれど、眠ることなど到底できるはずがない。今朝の出来事が頭から離れなくて、まるで何日も眠れなかったかのような疲労感が全身を重く沈ませる。その時だった。
バンッ!!とレジデント室の扉が荒々しく開かれ、怒声が響き渡った。

「おい!!宮間っ!!」

門川教授だ。その顔は、見たことがないほど紅潮し、怒気が全身から立ちのぼっている。

「ふざけやがって……!」

怒りにまかせて教授は私の前までずかずかと歩み寄ると、机をバンッと叩いた。

「確かに俺が“ネタバレを教えろ”と言ったが……おまえが持ってきた答えがこれか!?」
「えっ……」
「見ろよこれ!名刺も肩書きも、丸写しじゃないか!“東京大学病院”!“研修医”!おまえがモデルに決まってる!!」

教授は私の手からマウスをもぎ取ると、漫画のページを次々とスクロールして見せつけた。

「安室透がおまえを探してる!?人生の鍵!?……なんだ、てめえの願望か!?それとも身内パロか!?」
「ひ……」
「それに、才能のないおまえに安室透が救えるか?宮間りかが美人?……はっ、笑わせるな!!」

激情に任せて吐かれる罵声。
興奮が頂点に達した教授は、苦笑いのように息を吐き――そして静かに呟いた。

「……見た瞬間、自分がこんなにも他人を憎めるってことに気づいたよ。……殺人者の気持ちが生まれてはじめてわかったかもしれない」
「あ、あの、あとで話をしましょう!決して私が望んだわけじゃ…!」

申し訳ないが、今は教授のことなど構っていられない。混乱している。先程、天沢くんにコナンの最新話が発売されたと聞いて、始業時間までこうして何度も読み返していたのだ。

「おまえが望んだんじゃなかったらなんだ……!まさか親父本人が……」

私は咄嗟に右手を掲げ、教授の言葉に待ったをかけた。

「……教授、ちょっと今は……」
「俺は許さないぞ!ネタバレどころか、名作に泥を塗りやがって……!」
「お引き取り下さい……」
「なんだと?」
「今は話を聞ける状況じゃ……」

頭が割れそうなのだ。目の前のすべてが、現実なのかどうかさえ分からない。
私はふらつきながら立ち上がり、教授をドアの前まで引っ張っていく。

「外へどうぞ……」
「正気か?お前っ、今、俺を押したよな?」
「で、出てってください……!!」

無我夢中だった。私は扉をバタンと閉め、すぐに鍵をかける。教授の怒声が廊下にこだまするが、そんなこと構っていられない。

「……だめだ、もう……わからない……」

頭を冷やす暇もなく、私はスマホを掴んだ。
通話履歴をスクロールし、震える指で天沢くんの名前を押す。発信音のひとつひとつが、鼓動と同じ速さで胸を叩いた。

『またですか、りかさん』

開口一番、呆れたような声。

「ねぇ、天沢くん……!お願い、聞いて。やっぱりあれは、お父さんが描いたんじゃないよ。あれは、私が直接行って、経験してきたことなの!」
『……それ、さっきも聞きましたよ。何度も電話やめてくださいね。それに、漫画の世界に行って来たなんて……馬鹿も休み休みにお願いします』

――分かってる。自分でもおかしいことを言っているのは。でも、他に言いようがない。それに、誰かに信じてもらわないと、自分が壊れそうだった。

「でも……安室透が、私の名刺を持ってたの!あれ、私が屋上で支配人に渡したやつで――」

焦ってまくし立てる私の声は、明らかに空回りしていた。しかし、返ってきたのは感情を抑えた淡々とした反論。

『…言っときますが、背景の建物とか風景の全部、以前に僕が描いたものです。それに、キャラクターだってあれは、先生じゃないと絶対に描けません。細かい部分や表情とか、他の人には到底真似できないものです』

どんなに言葉を尽くしても、彼はひとつも譲らなかった。私の話そのものが、最初から“非現実”として拒絶されている。事実よりも、常識が優先されてしまう世界。一方通行のこの会話に、ふと思った。
――かのガリレオガリレオも、こんな気持ちだったのかもしれないと。"それでも地球は回っている" 彼がどんな気持ちで言ったのか、なんとなく理解できる。

『まあ……確かに、漫画の展開がおかしいのは事実です。先生、どこでこんなの描いてるのか……。安室透に重点を置きすぎですよ』
「だから、それはお父さんじゃないの……」
『じゃあ、誰が描いてるっていうんですか?』
「……勝手に、物語が生まれてる」
『はああ……もう、またそれ』

天沢くんの苛立ち混じりの吐息が、受話器越しに漏れる。それでも。私には、もうこの結論しかなかった。
不可能な物を除外していって残った物が、たとえどんなに信じられなくても、それが真実。…コナンの物語にも出てくるセリフでもある。

「安室透が生き返って、漫画が独り歩きしてるんだと思う」
『……もう、やめてください。一体なんの話をしてるのか、僕にはさっぱり……』

自分でも何を言っているのかわからなかった。でも、それが一番しっくりくる。ありえないようでいて、他に説明できる理由がなかった。

「私も、混乱してる。でも……でもね、あの人が、私を探してるの。……きっと、コナンの世界は、本当に存在するんだよ!」

叫ぶように絞り出したその言葉に、自分自身が怯えた。

『……落ち着いてください、りかさん』
「だって、見たんだよ!!」

血の色も、体温も。呼吸のリズムも。命の灯が、そこにあった。それらすべてが、幻ではないと否定している。降谷零は――本当に、そこにいた。
スマホを耳から少し離し、うつむいたまま、私はかすかに唇を噛んだ。わかってる。天沢くんの反応は、ある意味当然だ。けれど、それでも……どうしても、この現実を否定されたくなかった。誰かに、信じてほしかっただけなのに。そのときだった。

『……え、先生……?』

天沢くんの声が変わった。困惑と、戸惑いと、かすかな恐怖。なにかが、今、そちらの空間で起きていることだけは伝わってきた。

「……天沢くん?」
『りかさん。今…先生が…帰ってきました……』
「……え……?」

聞き返す暇もなかった。頭の中で何かがぶわっと膨れ上がる。喜びか、安堵か、あるいは――不安か。私の声より早く、スマホの向こうで天沢くんが父に呼びかける。

『……ちょっと、先生っ、どこ行くんですか!まず、事情を聞かせてください……それに、りかさんが、電話出てます!話せますか!?』

雑音と足音の混じるなか、バタバタと受け渡される気配。そして、その数秒後。

『……ああ、りかか』

懐かしい声が、耳の奥にゆっくりと染み込んできた。けれど、それは思っていたよりもずっと低く、掠れていた。まるで長旅を終えたばかりのような、疲れた声。

「……お父さん……なの?本当に……?」

信じたくて口にしたのか、それとも確かめたくて問いかけたのか、自分でもわからなかった。だが、その返答は、あまりにもあっさりしていた。

『ああ。俺だよ』

――ただ、それだけ。

「……どこにいたの?ずっと、連絡もなくて……心配してたのに」

言葉を継ぎながら、自分の手が汗ばんでいるのに気づいた。まるで別人と話しているような、妙な距離感。その正体はきっと、父の“あまりに冷静すぎる声”だろう。

『あー……ちょっとな。あちこち行ってた。まぁ、今帰ってきたんだから、それでいいだろ』
「…よくないよ」

思わず言い返していた。自分でも、少し声が震えているのがわかる。けれど、本当に良いわけがない。こんなにもみんなに心配をかけておいて。はい、おかえり。なんてあっさり受け入れることなんてできない。

『…それより、お前は大丈夫か?怪我とか、してないか?』
「え?う…うん。私は大丈夫。それより、お父さん。コナンのことだけど……最新話、本当に描いたの?私が出てるけど……」

そう問いかけると、一瞬の沈黙が落ちた。電話の向こうで、父が何かを探すように、言葉を選んでいるのがわかる。

『…ああ、天沢から聞いた。お前が変なことを言ってるってな』
「変なことって……」
『あれは、仕方なかったんだ。他にキャラが思い浮かばなくてな、ちょうどいいタイミングだったし、お前をモデルにしたんだよ』

ひとつひとつの言葉が、あまりにも整いすぎているのが引っかかった。まるであらかじめ紙に書かれた台詞をそのまま読み上げているような、乾いた声音。それに、心がこもっていない。違和感に、私は眉をひそめる。

「……でも、それって……お父さんらしくない。あんな描き方、今までしたことなかったよね」

思い出す。私の知っている“父”は、キャラクターの感情にとことん寄り添って、何度もプロットを書き直す人だった。言葉の選び方ひとつで、シーンの意味が変わると本気で言っていた人だった。けれど、今聞いている声の主は――そのこだわりを、まるで他人事のように話す。
ふいに、背後でエアコンの風が、壁のポスターをそっと揺らした。目に映る日常の風景が、急に無機質な箱に見える。現実が、どんどんきしんでいくような感覚がした。

『……そうか?お前が何を言ってるのかは知らんが、コナンは俺の作品だ。あれは、俺が描いた。それだけだ』

最後の一言だけが、やけに強く響いた。私が呆然としている間に、そのまま通話は途切れる。私はただ言葉を失って、しばらくその場から動けなかった。何かがずれている。だけど、それを“何”と呼べばいいのか、わからない。
あれは、本当に父だったのか。声は同じ。でも、言葉の奥にある“何か”が、決定的にちがう気がして。それに…笑ってくれなかった。私の話を、否定以外のかたちで受け止めてくれなかった。一言、いつもみたいに「声が聞けて嬉しい」とも言ってくれなかった。

それからの数日間、私は何度も父の声を思い出しながら、胸の奥に残った違和感は、どんなに時間が経っても決して消えてくれなかった。




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