30


「4205、面会だ」

重たい鉄扉てっぴの向こうから響いた番号に、思わず心臓が跳ね上がった。
条件反射のように顔を上げる。ずっと待っていた声だった。
立ち上がった足が、自分でも驚くほど急いている。床に触れるたびに、胸の奥で何かが震える。たった3日──それだけなのに、こんなにも長かった。ずっと、会いたかった。
──きっと、安室さんだ。
警察署からまたこの狭い独房に戻され、暗い天井を見つめながら考えていたのは彼のことばかりだった。再会したあの日から、私の時間は止まってしまったみたいに動かなくなっている。
彼なら、必ず何かを動かしてくれている。そう信じていなければ、押し潰されそうな孤独に耐えられなかった。
面会室へと進むたび、胸の奥で鳴る鼓動はますます大きくなっていた。やがて、案内された扉の前で足を止められる。

「今日は……こっちだ。普段の面会室は埋まっててな」

そう言って鍵を回す警官の横顔に、思わず瞬きを繰り返した。
──いつもと違う?
ギィ、と鈍い音を立てて開かれた先は、見慣れたアクリル板越しの部屋ではなかった。
中央に小さな机と椅子が向かい合わせに置かれているだけ。仕切りも何もなく、ただ静かに四角い空間が広がっていた。

「……ここだ」

短く告げて、警官は扉を閉めていった。
取り残された空気が、息を呑むほど張りつめる。
ほんの数歩進めば、手を伸ばせば──触れられる距離。それだけで胸が震えた。
会いたくて仕方なかった人と、板一枚も隔てずに向き合える。その現実が、嬉しいようで、怖いようで。足が自然に震えてしまう。
ゆっくり椅子に腰掛けると、ドアノブが回る音がした。
心臓が跳ね、呼吸が止まる。ゆっくりと開いていく扉の隙間から、背の高い影が差し込んだ。

「あ、あむろさん…!」

薄いグレーのスーツ。
灰色の光を受けて立つその姿。数え切れないほど頭に思い描いたのに、実際に目にした瞬間、全身が固まってしまった。
彼は一瞬だけ足を止め、視線をゆるやかにこちらへ向けたまま、静かに歩み寄ってくる。やがて目の前の椅子に腰を下ろすと、テーブルを挟んで真正面から私を見据えた。

「……元気そうですね」

低く響く声が、机の表面を伝うように届く。
いつもより近い。まるで、少し身を乗り出せば触れてしまえそうなほどに。
鼓動の速さが制御できない。3日ぶり──たったそれだけなのに、視線を合わせるだけで胸の奥が熱くなり、呼吸の仕方すら忘れてしまう。

「拘置所の環境はどうですか。食事は、ちゃんと口にできていますか」

あまりに事務的で、淡々とした言葉。
仕事の延長のように整った声音に、胸の奥がひどくざわめく。久しぶりに会えたのに、当たり障りのない確認から始まるなんて。

「……はい」

本当は、会いたかったとか、顔を見られて嬉しいとか──伝えたいことは山ほどあるのに。
彼のさらりとした態度に、喉元で言葉が絡まって消えていった。
安室さんは眉一つ動かさず、視線だけでこちらを探るように見つめてくる。そのまなざしが冷静であるほど、余計に心臓の音が耳に響いた。

「取調べの方は…きつくありませんでしたか」
「……それ、は……」

答えかけて、声が詰まる。
本当は怖くて仕方なかった。荒い声で威圧され、机を叩かれるたび、心臓が縮みあがった。
けれど、安室さんの口ぶりがあまりに淡々としているせいで、弱音を吐くのがためらわれる。

「大丈夫です」

嘘のように軽い声が、自分の口から漏れた。

「だって、安室さんが捜査を打ち切るよう指示を出してくだったじゃないですか」
「……そうですか」

しかし、安室さんは瞬きをひとつしただけで、特に表情を変えない。静かに手元のメモ用紙にさらさらと何かを書き留めた。
紙をめくる音がやけに響く。それだけで、ここにある距離感を痛いほど突きつけられる。
──私にとっては、待ち望んだ再会なのに。彼にとっては、ただの仕事の一環なのだろうか。
それでも、言葉を交わしているだけで救われる気がした。無理にでも声を出したくて、思わず口を開く。

「ずいぶん、早かったですね」

声が少し弾んだ。3日ぶりの再会が嬉しくて。
けれど、返ってきたのは沈黙だけ。
視線が、動かない。そこに柔らかい色はない。氷のように冷えたブルーグレーが、まっすぐ私を射抜いてくる。

「もしかして、もう……ここから出る方法を思いついたんですか?」

それでも期待をつなぎたくて、笑みを作った。

「でも、脱獄犯を出すのは難しいって言ってたのに……。やっぱり、安室さんってすごいんですね」

言いながら、自分でも少し笑ってしまう。
きっと、肩をすくめて「そうでもないですよ」とでも返してくれる──そう思っていた。
だが、返ってきたのはやはり沈黙だけ。
……おかしい。少し呆れたように笑うはずのその顔が、固く閉ざされている。机の上で組まれた指は動かず、まなざしは冷たく研ぎ澄まされていた。

「……な、何か言ってください。私、信じて待ってたんです。安室さんなら、絶対に……」

言葉を必死につなぐ。けれど、その先は喉に詰まって消えていった。
彼のまなざしは、何も答えてくれない。
──まだ準備が整っていないの?それとも……何か予期せぬ問題が?胸の奥に不安が広がる。
そのとき、安室さんの唇が静かに動いた。

「…君は一体、どういうつもりなんですか」

低く抑えた声。一瞬で、空気が変わった。
背筋がぴんと張りつめ、心臓がひゅっと縮む。

「……え?」
「僕の人生を、あなたが勝手に決めないでくれませんか」

その瞬間、期待でふくらんでいた胸が、氷水を流し込まれたように冷えていくのがわかった。

「……どういう……ことですか」

自分の声が遠くから聞こえる。
安室さんは微動だにせず、ただ冷たい瞳で私を見ていた。その視線はまるで逃げ場を塞ぐ壁のようで、息がしづらい。
さっきまで面会室に向かう足取りが軽かった自分を、過去に戻って叱りつけたくなる。

「僕を助けた方法なら、おおむね推測はできます」

その視線が、私の手元へと滑った。

「あなたの利き手のペンだこを見れば、明らかだ」

条件反射のように、手を握りしめる。親指で中指の第一関節をなぞると、そこには小さく硬い膨らみがあった。
──気づかれていたんだ。今こそ瘡蓋になっているが、一昨日までは血が滲んでいたから。
心の奥で、何かがぽろぽろと崩れる音がした。

「あなたが絵を描いたんでしょう。なぜそれが可能だったのか、理由はわかりませんが……あの父親の娘だから、できるのかもしれませんね」

淡々とした口調なのに、そこに情感はなく、冷えた水滴が胸の奥に落ちるようだった。

「ですが──あなたに、僕を生かす権限が?」

机の上で組まれた指が、わずかに拳を作る。心臓が凍り付いたかのような錯覚を覚えながら、私は安室さんから目が離せなかった。
生かす権限……そんなもの、持っていたつもりはない。ただ助けたかっただけ。けれど、その思いすら彼には“侵害”として映ってしまっている。
彼がどうして怒っているのか、彼が何を言わんとしているのかを少しずつ理解して呼吸が浅くなる。

「僕は、僕自身が死を選んだんです。作者の意図ではなく、初めて自分で選んだ結末として」

──はじめて、自ら決めた結末。
それなのに、私はその選択を……無理やり塗りつぶしてしまった?

「生きたい時には殺そうとして、死のうとしたら助ける。…あなた達は、僕の人生を弄んでいるんですか」

弄ぶ。
その言葉が、胸の奥に鋭い棘のように刺さる。違う、そんなつもりじゃない。けれど、声がうまく出ない。

「ち、違います……私はそんな……」

思わず声を上げたけれど、かすれた否定は空気に吸い込まれるように消えていった。

「確かにあなたは、暇つぶしにここに来て、また現実世界に戻れば済みます。…あなたから見れば、この世界の人達がおままごとの人形にでも見えるでしょうね」

──おままごと。
喉の奥が熱くなる。否定したいのに、呼吸が浅くなって言葉が遅れる。

「ひ、ひどいです……!まさか私がそんな……」
「僕にこれからどうやって生きろというんですか?」

心臓を掴まれたみたいに痛む。
彼の声は静かだが、その奥に広がる虚無がはっきりと見えた気がした。

「あなたには友人も家族もいますが、僕にはいない。…いたと思っていたが、そもそも存在さえしなかった。僕は何の正義のために今まで戦ってきたのでしょう。……こんな人生の続編は御免だ」

胸の内側で、何かがぱきんと音を立ててひび割れた。そのひびは一瞬で広がり、支えを失った感情が崩れ落ちる。
笑って面会室に入ったときの自分が、遠い別人のように思えた。ここまで必死に信じていた「助けたことは正しかった」という拠り所が、音もなく崩れていく。その瓦礫の下敷きになった心は、身動きが取れず、ただ冷たく沈んでいく。

「……無駄なことを……私は、したんですね……」

自分の口から漏れたその言葉に、自分自身がぞっとした。
心のどこかで、そんなふうに感じてしまっていることを認めたくなかったのに、気づけば勝手に口がそう動いていた。

「ごめんなさい。恨まれるくらいなら……水の中に放っておけばよかった」

視界がわずかに揺らぐ。
安室さんの表情は読めない。まるで、私の言葉を正面から受け止めもせず、ただそこに置かれた石のように動かない。胸の奥に、黒い水がじわじわと満ちていく感覚。息を吸っても、肺の底まで届かない。吸えば吸うほど、胸が苦しくなる。
──私は何をしてきたんだろう。二ヶ月も、眠れない夜をやり過ごし、胸をかきむしるような焦りに耐え、この人を探し続けたのに。その果てに待っていたのが、この拒絶だなんて。

「……何のために、2ヶ月も胸を痛めて必死にあなたを探し続けたんでしょう、私は……」

喉の奥が熱くなる。言葉を足そうとすると、涙が先にこみ上げてくる。
なのに、安室さんの前で泣きたくはなかった。泣いたところで、何も変わらないのに。それでも、熱が零れ落ちるのを止められそうになかった。

「そうです。なぜ僕を生き返らせたのですか?あなたにだって、自分の人生があるだろうに……たかが漫画のために、なぜ?」

──たかが漫画。
その響きが、心の奥のもっとも柔らかい場所に突き刺さった。どうして、そんなふうに言うの。私はただ、あなたに生きていてほしかっただけなのに。
視界の端がじんわりと霞む。まぶたの裏に浮かぶのは、病院の中庭で見た安室さんのどこか苦しそうな顔。
彼は今、起こっていることをすべて“たかが”と切り捨てる。自分の存在がなんの意味もないものだと、気づいてしまったからだ。その冷たい響きに、胸の奥で押し込めていたものが暴れ出した。
私が彼を助けたかったのは、
──使命感なんかじゃない。
──誰かのためでもない。
それでも、言葉にならず、喉の奥で絡まって震える。

「……わたし……」

声を出した瞬間、胸の奥の堤防が決壊していくのがわかった。

「……私、どうしても……放っておけなくて」

情けない。理由になっていない。
ちがう。そんな理由で、私はここまでしたんじゃない。彼がどんなに私を突き放しても、生きることへの執着をやめても、安室さんを助けたかったのは、そんな薄っぺらい理由じゃない。

「好きだからです……!!」

何を言っているのか。
自分の口から出た言葉に、自分が驚いた。唇が震え、熱い息と一緒に涙がこぼれ落ちる。自分でも驚くほど、まっすぐで、迷いのない声だった。
安室さんの表情がわずかに揺れる。けれど、その変化を確かめる余裕もなく、胸の奥に潜めていた気持ちが音を立てて崩れていった。

「信じてもらえないかもしれないけど、でも、あなたを、本当に好きになってしまったんです……!」

言葉にした瞬間、堰が切れたように感情があふれ出した。
──ああ、そうか。胸の奥でずっと絡まっていたものが、すっとほどけていく。
私は、彼のことが好きだったんだ。気づけた瞬間、深く呼吸ができるようになった。心の中の濁りが澄んでいくように、胸の奥が不思議なほどすっきりする。
安室さんの死を受け入れられなかったのも、彼の行動ひとつひとつにドキドキしてしまうのも、あの中庭での出来事が頭から離れなかったのも。それも全部、私が安室さんを好きだったからだ。
安室さんに惹かれていたことなんて、とっくに気づいていたはずなのに。認めるのが怖かったのだと思う。
安室透は"漫画の登場人物"。そんな彼に恋をしてしまったら、この想いはどこにも届かない。叶うことのないものになってしまうから。
だけど、もう、誤魔化せない。

「だから……生きてほしいんです……」

視界が涙で滲み、輪郭がぼやけていく。
胸に手を当てると、痛いほど心臓が脈打っている。

「私の言葉が、どんなふうに聞こえたのか分かりません。でも、弄んだつもりなんてない。あなたが消えてしまうのが……怖かったんです。あなたがいない世界なんて、考えられなくて……!」

声が震えて、息が詰まりそうになる。
それでも、言わずにはいられなかった。

「たとえ恨まれても…それでも、あなたを失いたくありません。私にとって、あなたはただの漫画のキャラクターじゃない……もっとずっと、大切な人なんです!」

涙がぽたり、机の上に落ちて滲んだ。
言い切った途端、沈黙が訪れた。胸の奥に溜め込んでいた熱が一気に吐き出され、肺が空っぽになる。吸っても吸っても、酸素が足りない気がして、喉の奥がひゅうひゅうと鳴った。
私が安室さんが好きだ。しかし望むことは、共に生きていくこととはすこし違うかもしれない。
できるだけ長生きしてほしい。一日でも長く、幸せに、健やかに、おだやかに、生きていてほしい。
私は安室さんと会える偶のしあわせな時間のうちに、安室さんの上に折り重なる悲しみを少しでもほどければいいと思う。
でも同時に、そんなふうに余裕ぶったことを考えられるのは、同じ気持ちが返ってくることはないと分かっているからだとも思う。

机の向こうの安室さんは──動かなかった。まるで時間が止まったみたいに、椅子に座ったまま、瞬きすら忘れたようにこちらを見ている。驚きが瞳に宿っているのに、言葉は出てこない。
私はただ、その視線に晒されながら、乱れた呼吸を整えようとした。それでも胸はまだ苦しくて、浅い息を繰り返すたび、涙の熱が頬を伝い落ちていく。

「……っ」

その刹那、視界の端がにじむように揺れた。
はじめは涙のせいかと思った。だが違う。壁の色が薄く溶け、机の輪郭がぐらつき始め、音が遠ざかっていく。
──まずい、この感覚は……。

「まって……」

反射的に声を上げる。指先が机を越え、空気を掴むように震える。
その先に、安室さんの顔があった。驚きと焦りが入り混じった表情──彼が、はっきりと何かを言おうとしている。

「──!」

唇は確かに動いたのに、その声は届かなかった。
次の瞬間、全身が弾かれるように軽くなり、景色が一気に遠のく。
そして、安室さんの姿は、私の前から溶けて消えた。




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