31


「……さん……」

遠くで、何かが響いた気がした。
耳の奥で、淡く濁った水面を叩くような音。
──息が苦しい。胸が重い。
さっきまで、確かにここじゃない場所にいたはずなのに。机越しの安室さんの瞳、あの表情が、まぶたの裏に焼き付いたまま離れない。

「……さん……!」

少し近くなった。音が水面から顔を出したように鮮明になり、鼓動と重なって響く。でも、身体はまだ鉛のように重く、指先まで動かせない。
脳裏では、告白の言葉が反響していた。彼の手がわずかに震えた瞬間、伏せられた視線──それが、胸を締め付ける。

「りかさん!!」

三度目の呼び声が、耳元ではっきりと響いた。はっと息を吸い込み、意識が現実に引き戻される。
目を開けると、すぐ目の前に天沢くんの顔があった。心配そうな目が、真っ直ぐに私を覗き込んでいる。

「……!」

慌てて身を起こす。息がまだ少し荒く、喉が渇いていた。
視界に飛び込んできたのは、見慣れた部屋の風景。机の上にはモニター、そこには描きかけの線が滲むように残っている。右手にはタブレット用のペン──強く握りしめすぎたせいで、手が小刻みに震えていた。
画面に映っているのは、ついさっきまで夢中で描いていた安室さんの姿。一本一本の線が、私の願いそのものだった。助けたくて、取り戻したくて、ただそれだけの一心で描いた線。

「りかさん、大丈夫ですか!?向こうに行ってきたんですよね?安室透は……無事ですか?」

勢いのある声に、肩がびくりと揺れた。
息がまだ上がっていて、返事をするより先に一度深呼吸をする。

「……うん」

短く頷いたものの、心臓はまだ荒々しく脈打ち、頭の中では安室さんの表情ばかりが繰り返される。

「本当に……?怪我とかは?何かあったんですか?」

机越しに身を乗り出す天沢くんの顔が、心配で強張っている。重ねられる問いに、私は一瞬言葉を探した。けれど、すぐには口にできなかった。

「……少し……話をして……」

そこまで言って、息が途切れる。
話をして、彼に何を伝えたのか──その核心に触れると、胸がざわつく。指先に力が入らず、握っていたペンが小さく揺れた。

「話?それで……あっちの様子は?何か進展が?」

天沢くんは、私の視線が定まらないのを見て、さらに声を低くする。

「……まさか、何かあったんじゃないでしょうね」
「大丈夫。無事……だから」

声に自信がなく、自分でも情けなくなる。
けれど、確かに彼は無事だった。私の手で救った──その事実だけは確かだ。
天沢くんはまだこちらをじっと見ている。問いの続きを飲み込んでいるようで、その視線が妙に鋭い。

「……何か……あったんですよね」

低い声で促され、胸の奥が小さく跳ねた。
心臓の鼓動が、また早くなる。

「……うん……あった」

声に力がなくても、嘘はつけなかった。
言葉を選ぼうとするたび、あの面会室の空気が蘇る。冷たくて、息苦しくて、それでも最後には──
喉が熱くなる。視線を机に落とし、無意識に膝の上で指を組む。組んだ指先が、じんわりと汗ばんでいるのを感じた。

「……りかさん?」

天沢くんの声が少し柔らかくなった。
促されるままに、私はぽつりとこぼす。

「……はじめて、私の告白で、安室さんが……動揺してくれた……」

自分の口から出たその言葉に、胸がじわりと熱くなる。その瞬間だけは、面会室の冷たい空気も、拒絶の言葉も、すべてが遠のいていた。

「……動揺してくれた……?」

天沢くんが小さく繰り返す。その響きが、自分の耳にも新鮮に聞こえた。
軽く視線を落とした瞬間、ふいに過去の記憶が蘇る。


『ふふ、宮間さんが告白したら僕がどきどきして動揺するとでも思ったみたいですね』

『…もしかしたらって思っただけです!』


思い出しながら、胸の奥がちくりと痛む。あの時の安室さんは、本当に微塵も揺らがなかった。
からかうでもなく、本気にするまでもないと言わんばかりに、軽く受け流したあの笑み。私の言葉が、彼にとって”特別なもの”ではなかったのだ。
──だから、何度も試した。どんなことなら彼の心を揺らせるのか。どうすれば、一瞬でもその表情を変えられるのか。何度も挑んで、何度もかわされて、時には自分が惨めになるほど。
でも……今回は、違った。
言葉にすると、胸の奥に灯る小さな熱を感じた。
あの人の瞳がわずかに揺れ、今まで何を言っても届かなかった私の声が、やっと彼の心のどこかに触れたのだ。

「……やっと……届いた、気がしたの」

指先でそっと涙を拭う。
すると、視界の端がわずかに歪んだ。
一瞬、ただ涙のせいだと思った。けれど、その揺らぎはすぐに広がっていく。
そして、瞬きをしたその刹那──世界が切り替わった。次に目を開けたとき、視界の輪郭がぐにゃりと歪み、色がじわじわと薄れていく。
耳に入ってくる音も、少しずつ遠く、くぐもっていく。心臓の鼓動だけが、自分の中でやけに大きく鳴っていた。
「え……?」と声にならない息が漏れた瞬間、私は、別の場所に座っていた。

硬い椅子の感触が太ももに戻り、鼻先にはわずかな湿った空気の匂い。見慣れた面会室。けれど、時間は明らかに流れていた。
目の前には、戸口へ向かっていた安室さんの後ろ姿。その広い背中が、何かを察したように足を止め、ゆっくりとこちらを振り返った。
静かな空気の中で、互いの視線が絡み合う。まるで、どちらが先に言葉を発するのかを探るかのように、数秒の沈黙が流れた。

「……向こうから、戻ってきたんですね」

低く、静かな声。先に声を発したのは、安室さんだった。驚きというより、確かめるような響き。
私は喉を動かすが、声が出ない。それでも、目を逸らすことはできなかった。

「……はい」

やっとのことで搾り出した声。
それを聞いた安室さんの目が、一瞬だけやわらぐ。けれど、すぐにいつもの深い色へと戻ってしまう。

「……続きを、聞かせてもらえますか」

そう言われて、心臓がまた高鳴る。
あの冷たい拒絶から、わずかに変化した空気。それが何を意味するのかは分からない。
ただ、今はこの場から逃げたくないと思った。

「…安室さん。前に簡単には動揺しないって言ってたのに…」

さっきまで流した涙がまだ目元に残っているのを感じながら、視線だけは逸らさずに彼を見つめる。

「意外と、そうでもないですね……」

さっきひどいことを言った仕返しのつもりで、少しだけ意地悪く言ってみせる。
安室さんは何も言わず、ただ真っ直ぐに見返してきた。ためらいのような色が、ほんの刹那に滲む。

「……僕に文句を言わないでください」

低く、かすれた声。
いつもの調子ではない。あの告白のあとだからなのか、あるいは別の理由かは分からない。
けれど、そのわずかな乱れが、私の胸をさらにざわつかせる。

「……私、今わかりました」

口にした瞬間、胸の奥で何かがカチリと噛み合う音がした気がした。ずっと霧の中にあった感覚が、ようやく輪郭を持った。そんな確信。
頭の奥で、これまでの出来事が一枚一枚、写真のように浮かんでは繋がっていく。

「安室さんが、私のことを考えるたびに……私はこの世界に引きずり込まれるって」

自分でも驚くほどはっきりと、その確信が言葉になった。今まで繋がらなかった出来事が、まるで最初からそう決まっていたかのように、一つの道筋を形作っていく。
──病院のベッドの上で、安室さんが私の名前を呼んだとき。
──バス停で突然、足元の世界が変わったとき。
──そして、水の底で彼が浮いていたとき。
あれは全部、偶然なんかじゃない。

「水の中でも………」

これまで私がこの世界に引き込まれたタイミングは、決まって安室さんが関わっていた。
彼の意識が、私をこちらの世界に呼び寄せていたのだとしたら。

「今だって……私のこと考えていた」

言葉を重ねながら、安室さんの表情を探る。

「ですよね……?」

問いかけた声が、自信なさげに揺れた。
違っていたらどうしよう、答えが返ってこなかったら──そんな不安が胸の奥でじわじわと広がる。そのとき。

「……そうです」

小さく頷いた彼が、ふっと微笑んだ。
静かに肯定された言葉に、胸の奥がじんわりと熱を帯びる。
やっぱり。あの時も、この時も、今も、私を呼んでくれていたのは、偶然なんかじゃなかった。安室さんの意識の中に、確かに私は存在していた。その事実が、嬉しくて、少しだけ誇らしくて。頬が熱くなっていくのを感じる。
──でも。その頷きのあとに浮かんだ安室さんの笑みが、ほんの少しだけ苦く見えた。温かいはずの感情の裏側に、なにか冷たい影が差している気がして、素直に喜ぶことができない。
胸の奥の甘い熱に、ほんのひとしずくの不安が混じる。

「……きっと、怖かったんだと思います」

急に落とされた低い声に、首を傾げた。
「怖かった?」思わず聞き返してしまう。安室さんが"怖い"と口にするのを聞くのは、これが初めてだった。

「なにが……」

視線を落とし、浅く息を吸い込む彼。
その肩がごくわずかに揺れたあと──

「あなたを失うのが」

静かにその言葉が胸の奥に落ちてきた。
その瞬間、世界の音がすべて遠のく。耳に残るのは自分の鼓動だけ。喉がひりつき、声を返そうとしても言葉が出てこない。
代わりに視界に入ったのは、伸ばされる彼の手。影が座ったままの私の頬に落ち、次の瞬間、安室さんはすっと身を屈めた。
距離が一気に縮まり、息を呑む間もなく──唇に、柔らかな温もりが触れた。

「……っ」

驚きで全身が硬直する。
安室さんの唇が、まるで確かめるようにそっと触れ、啄むような優しいキスを落とす。ほんの一瞬の出来事だったけれど、心臓の鼓動が大きく響いていた。
唇が離れても、顔はすぐ近くにあった。頬に触れる指先がやさしく、逃げ場を与えてくれない。安室さんの瞳が間近にあって、その奥で何かが揺れているのがわかる。

「……い、今、警官が……」

扉の向こうにかすかな気配を感じ、慌てて声を漏らす。だが、それはすぐに遠ざかっていった。この状況を察して、すぐに立ち去ったのだと思う。

「……だ、大丈夫ですか……?」
「構いません」

安室さんの声が低く響いた。
次の瞬間、私の体がふわりと宙に浮く。

「──えっ?」

脇の下に回された安室さんの腕が、私を軽々と持ち上げる。気づけば、私は椅子からテーブルの上へと座らされていた。

「あ……っ、安室さん……?」

混乱する私の腰に、ためらいのない手が回される。そのまま強く引き寄せられ、再び唇が重なった。
今度は深く、確かめるようでいて、情熱を帯びた口づけだった。

「ん……っは、」

息を吸おうと口を開いた瞬間、安室さんの舌が捩じ込まれ、私の舌を絡め取った。息も声も混ざって溶け合い、頭の中が真っ白になる。
静まり返った面会室に、混ざり合う呼吸と微かな水音。背中を支える手の熱が、じわじわと全身に広がっていく。
──ずるい。彼のことが好きだと自覚したばかりなのに、こんなふうに触れられたら、もう後戻りなんてできなくなる。
そう思いながらも、私は目を閉じることしかできなかった。逃がさないと言わんばかりに、唇の角度をゆっくりと変えながら、熱を押し込まれていく。

「……っ、ふ……」

思わず零れた声さえ飲み込まれる。安室さんの呼吸が熱い。腕の中に完全に閉じ込められてしまったみたいで、逃げることもできない。

「……僕がどれだけ……あなたを……」

囁くように唇の合間から漏れる安室さんの声に、胸がぎゅっと痛んだ。
ずっと抑え込んでいた気持ちが、ようやく溢れ出したみたいに、安室さんの熱が私の中に流れ込んでくる。
抗えず、手錠のかかった腕を彼の首へ回し、しがみついた。
もう、どちらから求めたものなのか分からない。ただ、この瞬間だけは、どこにも行きたくなかった。



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