32
その日の夜、拘置所の薄い布団の上で、私は天井をぼんやりと見つめていた。
たったさっき起きた出来事を思い返すたび、胸が熱くなり、じわじわと甘い余韻が広がる。唇に残る感触を思い出し、思わず布団を顔まで引き寄せた。
──人生でいちばん幸せだった瞬間は?
そう聞かれたら、きっとこれから私は、この夜のことを思い浮かべるだろう。拘置所の独房で横になっていたこの時。母や父には悪いけれど、この瞬間、私の今までの人生のどの瞬間よりも輝いてみえた。
まるで、今この世界こそが真実のような錯覚を起こして──私は本当に、漫画の中に生きているのかもしれないと。そう思ってしまうほどに、彼が触れてくれたことが嬉しかった。
胸の奥がじんわりと温かくて、その日の夜はなかなか寝付けずに、朝まで寝返りを繰り返していた。
*
「4205!面会だ」
看守の無機質な声が響く。ゆっくりと瞼を開いた。昨夜の余韻がまだ胸の奥に残っている。
──夢じゃ、ない。思い出しただけで、心臓が跳ねる。私は瞼を擦りながら起き上がった。
「……面会?」
ぼんやりと呟くと、看守は「早くしろ」と促す。寝ぼけた頭を働かせながら、体を起こし、冷たい床に足をつけた。
まさか、また安室さんが来てくれた?昨日のことが頭をよぎり、胸が高鳴る。そわそわと落ち着かないまま看守に連れられ、面会室へと向かった。
いつもの小さな面会室──。
ドアを開けると、そこにいたのは風見さんと、もう一人、見知らぬスーツの男性だった。私は無意識に視線を動かし、安室さんを探す。……どこにもいない。
「えっと……安室さんは?」
戸惑いながら口にすると、風見さんは書類を整える手を止め、こちらに視線を向けた。
「ご多忙なので」
短くそう告げられる。
「そのため私が参りました。どうぞ、おかけください」
言われるがままに、その場に腰掛けた。
…ご多忙?それはそうだ。安室さんは警察官なのだから、いくらでも忙しい理由はある。ポアロのシフトが入っていたのかもしれないし、探偵のお仕事があったのかもしれない。
でも……。昨夜の出来事が微かに蘇る。あれは一時の気の迷いだったの?それとも、ただの同情?
──いや、それだけじゃない。昨夜の彼の瞳には、確かに揺らぎがあった。なのに、今ここにいないのは、もしかして避けられている?そんな考えが頭をよぎると、心臓が少しだけ痛んだ。
気づけば、表情に出てしまっていたのだろう。風見さんが、じとっとした目を向けてくる。
「……あからさまにがっかりした顔をされると、こちらも反応に困るのですが」
「えっ?そ、そんなこと……」
反射的に取り繕おうとするが、言葉とは裏腹に、口元が引き攣るのを感じた。
「まあ、いいでしょう」
風見さんは呆れたようにため息をつくと、書類をめくり、淡々と話を続ける。
「安室さんから伝言を預かっています。法的問題については、後ほど弁護士と話していただければ結構です」
「法的問題……」
難しそうな単語に、一瞬身構える。──つまり、今後のことを決めるための話?私は少しだけ背筋を伸ばした。
「では、安室さんの伝言を伝えます」
風見さんが、手元のメモに目を落としながら言った。静かな面会室の空気が、ふっと張り詰める。私は無意識に背筋を伸ばし、心の準備をした。
きっと、安室さんがここに来られない代わりに、何か大事なことを伝えてくれるのだろう。
──昨夜のことについて?それとも、私がここを出るための話?
どちらにしても、安室さんの言葉なら、私はきっと真剣に受け止めることになる。そう思い、息を整えた。しかし──
「1番 カフェの店員
2番 公務員
3番 怪しい組織の一員」
「……はい?」
一瞬、理解が追いつかなかった。私は一体、今、何の話をされたのか。
「安室さん自身は2番がお好みだと。あなたの好みの男性像をお選びください」
「…………は?」
私は、ただただ固まった。目の前にいる風見さんの表情は、至って真剣。冗談を言っているようには見えない。
「えっ?えっと……どういうことですか?」
混乱しながら聞き返すと、風見さんは淡々と答えた。
「安室さんはこの選択で、あなたに命を救っていただいた借りを返すと。あなたの理想の男性になると仰っています」
耳に届いた言葉の意味が、じわじわと脳内に染み込んでくる。
──借りを返す?つまり、私が安室さんを助けたことに対する「お礼」?だから、好きなのを選べと選択肢を渡してきた?
「……はい?」
思考が追いつかないまま、反射的にもう一度問い返していた。
「だ、だからって、業務を処理するみたいに……!」
私は思わず声を荒げた。
なんなの、この雑な伝え方…!こんな大事なことを、こんな事務的に聞かされるなんて!まるで選択肢を提示されただけの、ゲームみたいな扱いに困惑する。
「本気ですか?」
「あの人はいつも本気です」
風見さんが即答する。私は内心、天を仰いだ。
安室さん、本当にこんな伝言を私に、選ばせるつもりなの?これが私への恩返し…?私の告白への返事がこれ…?
「では、本当に真剣に選べと?」
「はい」
私は、ぐっと拳を握る。
風見さんの動じない態度に、無理やりにでも選ばなければならないような圧を感じ、しぶしぶ悩み出す。
「…3番が何でしたっけ?」
「怪しい組織の一員です」
「あ…っ、そ、それはだめです!」
即答だった。おそらく安室さんのこの選択肢は、彼の持つ3つの顔に因んでいる。
おそらく、怪しい組織の一員はバーボン。黒の組織の一員としての彼。妖艶で、計算高く、誰にも素を見せない。彼のことを知りたくなればなるほど、深みに嵌る。その世界に足を踏み入れてしまったら、絶対に後戻りはできない。そんな関係になってしまったら、私は彼に溺れる。きっと、普通の恋なんかできなくなる。
だから、3番は駄目だ。
「1番はなんでしたっけ……?」
「カフェの店員です」
いつも笑顔で、気遣い上手で、優しくて。
みんなに人気のポアロのアイドル店員。けれど、ふとした瞬間に見せる真剣な表情が、たまらなく心を惹きつける。一緒にいると温かくて、安心できる。それが、今の彼のままの姿だ。
「1番もいいかもしれない……」
呟いた瞬間、胸の奥が熱くなった。
優しく人当たりの良い彼のそばにいる未来。それも、決して悪くないと思えた。だけど──
「では1番で?」
「い、いや…!ちょっと待ってください」
2番──。降谷零。彼の本当の名前。
国家を守るために命を懸ける公安警察官としての姿。その使命感の強さは、時に自分自身を犠牲にするほどのもの──。もし彼を選んだなら、私はきっと危険と隣り合わせになる。
それでも……。あのまっすぐな瞳を、私は何度も思い出す。誰よりも強く、誰よりも優しいあの瞳を。
……いや、待って。私、なんでこんなに真剣に悩んでるの?安室さんの意図もわからないのに、まるで人生の重大な決断みたいに……!
「……2番で」
それでも、私は指を立て決断した。
彼の意図はわからないけど、それでも彼を信じたいと思った。安室透でも、バーボンでもなく──“降谷零”としての彼を。
その生き方ごと、受け止めたい。そう思ったから。風見さんの視線を正面から受け止めながら、私は小さく息を整えた。
「本当に、それでよろしいんですね」
「はい」
「……ですが、宮間さん。その指は3番ではありませんか?」
私は一瞬、自分の手を確認した。
──嘘。3本立ってる。
「……あっ、ま、間違えました。2番でお願いします!」
風見さんが、呆れたように深々とため息をついた。私も気まずくなって目を逸らす。
──安室さん、あなたは何を考えて、私にこれを選ばせたのか。私が選んだ答え次第で、安室さんは本当に態度を変えるつもりだったのだろうか。
今までの彼を思い出す。優しく微笑む安室透。鋭く本質を見抜く降谷零。冷酷な計算を巡らせるバーボン。そのどれもが本物で、どれもが彼自身。
昨夜の彼の唇の感触が、ふと脳裏に蘇る。私の腰を引き寄せ、戸惑う隙も与えず、情熱的に重ねられたキス。あの瞬間だけは、どの顔でもなく──彼自身の想いがあったように思う。
それなのに、今こうして「選べ」と言われたことが、どうしても腑に落ちなかった。
「なぜそんな伝言を、拘置所にいる私に……?」
呟いたその問いに、風見さんは淡々とした声で答える。
「もうすぐここを出ていただけます」
「ほ、本当ですか?!どうやって?」
思わず身を乗り出す。こんなに簡単に「出られる」と言われるなんて思ってもいなかった。安室さんが手を回してくれたのか?それとも……
「その話は弁護士から説明いたします」
風見さんの言葉は事務的だったが、その裏に何か含みがあるように感じた。私の運命が、大きく動こうとしている。なのに、そのすべてを安室さんは”私自身”に決めさせようとしている気がしてならなかった。
「……それと」
風見さんは一度小さく息を吸い込み、何かを言いかけてから、視線を少し逸らした。その声音が、今までとは違う色を帯びていることに気づいた。
「個人的なことですが……」
視線を戻した彼の表情は、どこか気まずそうだった。
「安室さんに言われてきました」
「え?」
「──あなたに、謝れと」
瞬間、思わず瞬きをする。
「私に……?」
「……今まで、過剰な取り調べをしたり、疑いの目を向けたり……本来なら守るべき立場の人間が、あなたを追い詰めたことについて」
風見さんの声は硬い。それでも、確かにそこに謝罪の色が滲んでいた。
「……すみませんでした」
その言葉は決して軽いものではなかった。風見さんは生真面目な人だ。彼がこうして謝罪の言葉を口にするまでに、きっと色々な葛藤があったのだろう。
私は少しだけ微笑んで、首を横に振った。
「…もう、いいですよ」
そう、もういい。あの時は確かに苦しかった。
でも、私はこうして今ここにいて、もうすぐ自由になる。それに──
「安室さん、わざわざそんなこと言ったんですね……」
呆れたような、でもどこか温かい気持ちで呟くと、風見さんは深くため息をついた。
「……本当に、あの人はあなたには甘いですね」
苦笑する風見さんを見ながら、私は胸の奥に小さな温もりを感じた。
──安室さん、あなたはやっぱり、ずるい人だ。
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